п»ї 人生に彩りを与えてくれた名作の数々『えいがと私』第1回 | ニュース屋台村

人生に彩りを与えてくれた名作の数々
『えいがと私』第1回

5月 09日 2014年 文化

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マレーの猫

エネルギー関連業界で30年以上働いてきたぱっとしないオヤジ。専門は経理、財務。実務経験は長く、会計、税務に関しては専門家と自負。2012年からマレーシアのクアラルンプールに単身赴任中。趣味は映画鑑賞、ジャズ、ボサノバ鑑賞、読書。最近は浅田次郎の大ファン、SF小説も

マレーシアでの単身駐在期間が長くなるにつれて、最近は趣味や自分の過去について時々思い巡らすことが多くなってきた。これから書く話は、私の全く個人的な趣味の話であり、映画が自分の人生にどのような影響を与えたかということについての回想録のようなものである。今回は「映画と私」の第1回として、私が幼稚園時代から高校卒業までの間に見た映画について書かせていただく。

◆幼稚園の時に初めて見た「ゴジラ」

最初に映画館に入ったのは、幼稚園の時であった。私が住んでいた東京・中野には、JR中野駅南口に東宝映画を上映している映画館があり、当時「ゴジラ」の映画を見たいがために同居していた祖母に頼んで映画館に連れて行ってもらったのである。

ただ現在と違い、昭和40年代初めごろまでは邦画のロードショーは1本立てということはなく、2本立てが普通だった。そのため、「ゴジラ」と同時公開のもう1本は加山雄三の「若大将シリーズ」であった。その後私は、「ゴジラ」シリーズなど(モスラやキングコング、キングギドラも含む)怪獣ものが封切られるたびに、必ず祖母と見に行ったのを覚えている。

ただ当たり前であるが、祖母は当然ゴジラより「若大将シリーズ」を楽しみにしていたようであった。今でもそうだが、映画の最大の魅力は映画を見ている間だけは普段の生活とは違う別世界に旅することができることであり、また別の人間に感情移入できることであろう。洋画であれば異国に行けるわけだし、邦画であっても地方に行けたり、全く別の人間になることができたりするのである。

小説も同じだが、小説の場合は映画と違って直接視覚的にその情景が目の前に示されるわけではないので、自分の想像力で情景を考え、映画とは違った楽しみ方ができる。どちらが優れているということはなく、どちらも日常とは違った世界へワープできることが最大の魅力だと思っている。

◆100本近く見た中学高校時代

中学高校時代は同級生の影響もあり、中学2年生頃から友人と連れ立って洋画を見るようになった。それに反比例して邦画はあまり見なくなったが、中学時代までは怪獣映画を見るので、併せて若大将シリーズを見続けることになったように思う。

なぜ中学生になってから洋画を見るようになったかというと、中高時代は通学の途中で渋谷を経由することになったのだが、渋谷には「東急名画座」と「全線座」という映画館(現在は両映画館ともなくなってしまった)があり、どちらもロードショー落ちや昔の洋画だけを上映していた。

東急名画座は1本立て、全線座は2本立てで上映していて、1966年(昭和41年)~71年(昭和46年)ごろはどちらの映画館も100円台で見ることができたと記憶している。ただ2~3週間で映画が入れ替わってしまうので、気をつけていないと見たい映画を見逃すことになってしまうのである。

平均するとせいぜい月に1回くらいだったと思うが、一度に2本見ることも結構あったので、中高時代に見た本数は100本近いと思う。当時両映画館で上映されている映画はヨーロッパ映画を中心にした名作がほとんどで、中高時代に当時名作と言われるものはかなり見たと思っている。

ただなにせまだ子供であったので、映画から受ける印象は今とは違っていたのだが、それでも強く印象に残っていることは、映画の内容以前に映画の中でみる欧米と日本の文化水準の違いであった。特に洋画の現代作品はあらゆる面で日本より文化的であり、その豊かさには驚いたものである。また風景も日本とは違い、米国映画なら家は大きく道路は広く整備されていること、ヨーロッパ映画なら歴史的な石造りの建築物などにはとにかく感嘆してしまった。

日本はどうかと言えば、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで東京のインフラは整備されたとはいえ、欧米先進国と比較するとまだ発展途上にあったのは事実であり、服装などもやはり欧米と比較するとあか抜けない感じであった。ただ日本でもVANやJUNの製品が出回るようになり、若者は欧米並みのファッションを追求し始めた頃でもあった。私も親にねだってボタンダウンのシャツや、コットンパンツを買ってもらった思い出が懐かしい。

◆初めて見たロードショー「ある愛の詩」

今思い起こすと、1966年(昭和41年)~71年(昭和46年)の間に見た映画は記憶に強く残っているものだけでも「太陽がいっぱい」「太陽はひとりぼっち」「太陽が知っている」「冒険者たち」(全てアラン・ドロンが出演)「2001年宇宙の旅」「華氏451」「魚が出てきた日」「渚にて」「ミクロの決死圏」「猿の惑星」(SF作品)「ベンハー」「天地創造」「十戒」「クレオパトラ」」「戦争と平和」(超スペクタクル)「禁じられた遊び」「ローマの休日」「自転車泥棒」「望郷」(1930~50年代の作品)「デカメロン」「テオレマ」「アポロンの地獄」(パゾリーニ監督作品)「道」「甘い生活」「サテリコン」(フェデリコ・フェリーニ監督作品)「地獄に落ちた勇者ども」(ビスコンティ監督作品)「ブーベの恋人」「白い恋人たち」「卒業」「ロミオとジュリエット」「男と女」「ローズマリーの赤ちゃん」「俺たちに明日はない」「ハスラー」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」「荒野の用心棒」(西部劇)「イージーライダー」「ある愛の詩」「勝手にしやがれ」「暗くなるまで待って」「ひまわり」など挙げだしたらきりがないほど、名作ぞろいであった(上記西部劇は名作とは言えないかもしれないが、私にとっては名作の範ちゅうに入る)。

洋画のロードショーは料金が高いので、中学高校時代はほとんど見ていないが、友人が試写会の券を手に入れたので誘われて銀座「みゆき座」(現「TOHOシネマズ スカラ座・みゆき座」)で「ある愛の詩」を見たことは今でも覚えている。この映画館では洋画をロードショーしていたが、たった1本で上映していることにひどく驚いたことを覚えている。当時から洋画は1本でロードショーされていたのだが、邦画が2本立てであったこと、また全線座が2本立てであったため、1本で上映することに驚いたのである。

◆ヨーロッパ映画について

昭和40年代は、今と違って映画会社も結構ヨーロッパ映画を買い付けていて、フランス、イタリア、英国、スウェーデンの映画の秀作を上映していたので、それらの半年、一年落ち、または2~20年遅れの作品を東急名画座、全線座の両映画館で見ることができた。

ただ、当時日本でも有名であった監督たち(パゾリーニ、フェデリコ・フェリーニ、ビスコンティ)が全てイタリア人であったことで、当時私自身イタリアは芸術面ではかなり高いレベルというか世界でトップではないかという印象を持ったが、今でもその気持ちは変わらない。

工業製品も一時オリベッティのタイプライターやヴェスパのスクーターなどが世界的に人気になったし、フェラーリ、マセラッティなどのスポーツタイプの車に関しては現在でも優れた車を製造しているイタリアだが、芸術面に関してはとにかく世界最高峰にあると思う。

ただ、イタリア映画に劣らずレベルが高いのはフランス映画であり、「地下室のメロディー」「シシリアン」ほかアラン・ドロンが出演している多くの作品、「気狂いピエロ」ほかジャンポール・ベルモント出演の作品、「ボルサリーノ」(アラン・ドロンとジャンポールベルモントが共演)、ジャンヌ・モローの「死刑台のエレベーター」などはそのほんの一部であるが、秀逸な作品であると思う。

◆アメリカ映画について

当時からハリウッド映画主流だったと思うが、「ベンハー」「クレオパトラ」などの大スペクタクル作品は、資本力のあるハリウッド映画でしか製作できないものであったのは事実であるし、今後も続くと思われる。

やはり「ベンハー」のような大作は莫大(ばくだい)な製作費用がかかるわけであり、巨大資本でのみ製作できる映画はやはりアメリカ映画の素晴らしさであり、その点は誰もが認めることだと思う。ただ、感動を与える映画が製作費に比例するかと言うと、それは必ずしもそうではないことは皆さんもご存知であろうし、私自身もそう思っている。

出演俳優は映画の出来不出来に与える大きな要素であるが、有名俳優が出演していれば必ずいい映画になるとはいえず、やはり原作(脚本)、演出が一番重要であることは誰でも思っていることではないだろうか。

ただ、アメリカのサスペンス映画に関しては巨匠ヒッチコックがおり、確かに彼の作品はどれも面白く、「鳥」「サイコ」「めまい」「裏窓」などサスペンス映画としては超一級の作品が多く、この分野では出色の作品ぞろいであるのは誰もが認めるところである。また喜劇王と言われたチャップリンの作品も、秀逸な作品が多いことは誰もが認めることだと思う。

長々と私の趣味である映画とのかかわりについて書いてきたが、大学生以降現在に至るまでの鑑賞歴については改めて書いてみたい。

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