山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社ふぇの代表取締役。独自に考案した機械学習法、フェノラーニング®のビジネス展開を模索している。元ファイザージャパン・臨床開発部門バイオメトリクス部長、Pfizer Global R&D, Clinical Technologies, Director。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
◆歴史の未来
最近のグーグル検索は、生成AI(人工知能)が作成する概要を最初に表示する。試しに「リスク適応的マネジメント」と入力してみた。「リスク適応的マネジメントとは、リスクマネジメントの体制を継続的に見直し、改善して、変化する環境に適応することを指します」。筆者としては、米国の思想家ナシーム・ニコラス・タレブが提案した反脆弱(ぜいじゃく)性を「リスク適応的マネジメント」と解釈したことが、本シリーズ記事のハイライトのひとつと考えている。試しに「“リスク適応的マネジメント”」と、引用符をつけて検索してみると、筆者の記事(※過去記事1)だけが検索される。“リスク適応的マネジメント”は筆者の造語で、アダプティブデザインの考え方を応用したものであって、適応的なリスクマネジメントとは異なる。現在の生成AIの実力は、この程度のものなのだろう。
しかし、生成AIが間違うようなキーワードは好ましくはない。「リスク適応的マネジメント」を「アダプティブデザインによる不確実性のマネジメント」という具合に、反脆弱性の解釈として、正確に記述するほうが良いだろう。記述的な言語においては、著者の趣味よりも、読者に興味を持ってもらい、出来るだけ正確に伝わる表現が望ましい。生成AIは、読者によるチェックを代替する方法として有望だろう。
本稿では、前稿(※過去記事2)の最後のパラグラフ、「P(4+1)Healthy Economy」をもう少し掘り下げて、南米チリとの接点を模索しようとしている。欧米が主導した近代文明と産業革命以降の社会が行き詰まる(前向きの未来が無くなる)と仮定して、近代文明の周辺に新しい未来を見いだす試みが、近未来のデータ文明の出発点で、南米チリとの接点だ。前向きの未来が無くなるとはいっても、後ろ向きの未来まで無くなるとは思えない。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で開催されている企画展「歴史の未来―過去を伝えるひと・もの・データ―」から、後ろ向きの未来の発想を得た。前向きの未来が「冒険」だとすると、後ろ向きの未来が「可能性」としての歴史になる。原データそのものは、意味と価値が不明なので、記録ではあっても、歴史にはならない。データを使って予測することが、前向きの未来を作り出すと仮定すると、データから歴史を読みとることが、後ろ向きの未来なのだろう。「リスク適応的マネジメント」の時間スケールは、経済変動の時間スケールであって、予測をしたり、適応的行動のリストを作ったりするのに必要な時間だ。文明論の時間スケールは、はるかに長いため、「時間」を疎視化(縮約)する必要がある。時間を疎視化することが、歴史を読みとるということに対応するのかもしれない。
◆疎視化された後ろ向きの未来
後ろ向きの過去であれば、普通の意味での歴史になる。未来にも歴史があると仮定して、未来の時点から「現在」の歴史的意味を考えることが、後ろ向きの未来であって、しかも、本論では文明論的な時間スケールで考えている。文明論的な時間スケールは、対数的な時間の疎視化であって、100年から1000年の単位で考えることに相当する。進化論的な時間スケールは、さらに長い時間を、1万年から1億年の対数化した時間軸で考える。生態学的な時間スケールは、10年から1億年まで、幅の広い対数軸となって、歴史の時間軸としては、人間中心の文明論も、生命の進化論も包括する。未来や過去に向かう時間の対数軸では、現在を表現することができない。現在の生態を、10年、100年と疎視化して、大きくは変化しない生態学的な特徴が、未来につながる歴史としての「現在」の立ち位置なのだろう。地球環境が大きく変化する場合、文明や生命が、異なる生態学的な環境に適応する歴史が、生態学的な歴史観となる。歴史の未来よりも、歴史の現在のほうが、概念としては難しそうだ。
前述の企画展「歴史の未来」では、「100年後に残したいもの」を、現在の「ひと」に問うている。しかし、筆者にとって現在の問題は、データ化される人びとの生活から、人びとの記憶としての歴史を見いだすことができるのか、できると仮定すれば、その歴史は、現在のAIビジネスとどのような関係があるのかという、深刻な現在の問題だ。できないと仮定すれば、それはAI技術の哲学的な意味での限界であって、データ文明も、現在の文明の延長でしかなく、大きな社会変革には至らない可能性が強くなる。筆者は前者の立場であるため、深刻な問題としてとらえているし、歴史の未来展において、安易な歴史観に心配なことが多々あった。AI農業について考えるときに、以前のようには、オプティミスティックになれそうもない。
◆加速主義とデジタル技術
本稿で議論しようとしている「P(4+1)Healthy Economy」は、「P(4+1)機械学習」(※過去記事3)の延長上にある。この過去記事において、現代アメリカ哲学の一流派として、「加速主義」を紹介した。デジタル技術は、人間の頭脳における情報処理の時間(100ミリ秒と仮定)よりも、10の8乗倍早い(1ギガヘルツで動作と仮定)。力比べなら、一人対一億人に相当する。アナログ技術からデジタル技術への移行は、経済活動も加速する。しかし、社会的課題の解決など、哲学的な活動が、デジタル技術によって加速されるとは言い切れない。過去記事では、機械学習やAI技術を上手に使えば、現在の文明論的な渋滞を乗り越えて、データ文明に続く道を見つけられると、オプティミスティックに考えていた。現在の、暴走するAIビジネスに対抗して、機械学習技術におけるブレイクスルーで、社会変革に先回りすることができるとも考えていた。しかし、これも一種の加速主義に過ぎない。
経済状態の調整、社会システムの変革、地球環境の変化について、最近では、変化に適応するための時間が必要であって、できれば変化を緩やかにするほうが良いのではないかと考えるようになった。特に、AI技術が本格化するデータ文明のように、とても大きな変化が予想される場合には、その影響を予測することは困難で、“リスク適応的マネジメント”が有望になる。例えば、AI技術が人間の脳の機能を超える状況を想定して、脳だけで生存する生命はSF(サイエンスフィクション)でしか知らないないのだから、どのような物語でもありうるし、相当に危険な状況であることは、容易に想像できる。資本主義のビジネスが、経済成長を希求して、しかもAIビジネスのような激しい競争が、加速主義となることも、ほぼ必然だ。最近になって気がついた、加速主義の根本的な問題は、変化を加速しても、過去の記憶が残ること、その記憶を消去することが困難であること、したがって、隠れた過去の記憶が、新しい文明に致命的なリスク(ブラックスワン)をもたらすことを理解していないし、対処もしていないことだ。
◆組織的脱学習
筆者の哲学的な議論がわかりにくいのは、議論の目的が哲学ではなくて、医薬品の開発と新しいビジネスのための議論ということが、うまく説明できていないことだと思う。医薬品の開発では、認知症などの、加齢にともなって発症確率が増大する疾患の治療薬を、どのように臨床開発するのか考えている。例えば、がんの場合、抗がん剤で治療しても、再発や再燃する確率までは評価できていない。最近の学会における発表にびっくりした。心不全の慢性的な進行に、心筋中のマクロファージ(白血球の一種で、体内に侵入した細菌やウイルスなどの病原体や死んだ細胞の破片を細胞内に取り込み、分解する)の減少が関係しているらしい。免疫細胞の幹細胞から、免疫細胞へと分化する過程において、エピジェネティクス(後成遺伝学、DNAの塩基配列を変えずに細胞が遺伝子の働きを制御する仕組みを研究する学問)の観点で見ると、心不全の記憶が、心筋中のマクロファージへの分化を阻害しているらしい。がん細胞においても、がん化する細胞へと分化する幹細胞に、すでにがん化のシグナルがあるということは知っていた。幹細胞は、各組織で分化した機能を持つ細胞を作り出す未分化の細胞で、iPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究によって、医学研究に大きく貢献するようになった。病気の記憶が幹細胞に残っているのでは、病気の細胞を治療で除外しても、病的な状況が再現されてしまう。完治するためには、病気の記憶も消去したいけれども、現在の医学はその技術レベルにはない。
記憶を消去するということを、データの世界で考えると、記録を残すことよりも、はるかに困難であることがよくわかる。電子メールなどで、メールを削除する日付を指定したとしても、コピーされた内容は削除されない。さらに、メールシステムのバックアップにも記録は残るし、分散システムの場合は、複数のシステムにバックアップデータが残ってしまう。もちろん、特定の情報をシステムのバックアップから復元するのは容易ではなく、災害時や犯罪捜査の場合などに限られる。後ろ向きの未来のデータとしては、100年後に何を残すのではなく、何を消去するのか考えるほうが、問題の難しさ、深刻さを理解しやすいだろう。
記憶を消去するすることは、アンラーニング(脱学習)に相当する。過去に学習したことの記憶が、連想記憶のように、分散して隠れて存在しているために、意識できない固定概念が、新しい学習を阻害してしまう。若い人たちのほうが、学習効率が良いし、新しい発見を行いやすいという経験的事実からも、アンラーニングが必要であっても、とても難しいことがよくわかる。現在の機械学習技術では、もちろんアンラーニングはできない。「みんなで機械学習」することはできるのだから、機械学習をうまく使って、「みんなで脱学習」することを支援できれば、組織的な脱学習になり、組織が継続的に若返るかもしれない。
◆P(4+1)Healthy Economy
前稿(※過去記事2)と同じく、今回も、経済の話題が最後になってしまった。P4 healthy economy、すなわちPredictive(予測可能な)、Preventive(予防の)、Personalized(個別化された)、Participatory(参加型の)経済環境においてに、Positive health(元気向上)を訴求するP(4+1) Healthy Economyを、AI農業の経済目標として考えてみよう。本論が目指すAI農業は、農耕によって、農作業従事者も、農作物消費者も、ともに健康になる健康産業としての農業なのだから、近未来の医療であるP4 Healthが出発点になることは、当然のように思われる。農業が予測可能になるためには、気候変動が農作物に与える影響が予測可能になる必要がある。農作業のリスクを予防することは当然として、農作業が社会的ストレスの発散となったり、食品で疾病リスクを予防したりする、予防のための診断技術の向上が望まれる。個別化する農業は、端的に、社会主義や大型資本による大規模農業とは反対の方向性であって、小さい地域社会での実現を目指すことになる。参加型の農業では、農作物消費者が、農作業を経験したり、農業従事者が、食品調理や加工食品の使い方を工夫したりして、生産と消費のネットワークを可視化することが求められる。
最終的に、元気向上型の農業では、経済成長ではなく、経済の繁栄を目指すことになる。元気向上とは、もし病的な状態にあったとしても、元気であり続けるために、不必要な過去の記憶に悩むのではなく、未来志向で、治癒する意思を継続することだ。健康状態を「リセット」する技術と言い換えてもよいかもしれない。経済成長は、常に過去と比較して、より裕福になることを求める、貪欲(どんよく)で満たされることの無い異常な状態だ。過去の経済成長が作り出した社会問題や環境問題は、無視されて、山積みにされている。この困難な課題を、一つひとつ解決して、そのたびに経済をリセットする。より正確には、経済指標をアップデートして、経済的な繁栄を継続する。そのような農業AIであれば、AI技術のリスクもうまくコントロールされるだろう。AIビジネスを加速主義で行えば、原子力発電所が必要になり、原子力発電の核ゴミの問題や、ブラックスワン型のリスク(例えば小惑星の衝突や、作業員の精神異常)に無自覚になり、AI技術のリスクで、人類が消滅することもあり得ない物語ではない。Healthy Economyを実現する目的に、AI技術が役立つこと、AI農業のすそ野は広大なので、時間をかけて、探求したい。
◆南極周辺の国々との経済協力
なぜ南極なのか、は問わないことにしよう。具体的に、AI農業によるチリとの経済協力について考えてみたい。チリと日本の経済協力は、鉱物資源や農林水産資源の輸出入として、長い歴史がある。しかし、アンデスの巨大電波望遠鏡ALMAの建設と運用に、日本人が中心的な役割で活躍していることは、あまり知られていないかもしれない『チリを知るための60章』(明石書店、2019年)。アンデスは、過去のインカ文明だけではなく、未来の文明にもつながっている。AI技術の開発は困難であっても、AI技術の利用には、小型のパソコンで十分だ。日本でAI農業が可能であれば、チリでも可能なはずだ。その逆に、チリでも受け入れられるAI農業を考えて、日本で試してみたい。筆者がチリについて考え始めたのは、インカ文明に興味を持って、文字がない文化に組みひもの数字があったことに、とても驚いたからだ。そして、逆に調べてみて、日本の縄文文化にも、土版という数の記録があったことを学んだ『縄文時代の不思議と謎』(山田康弘監修、じっぴコンパクト新書363、2019年)。文字より前に数字がある。縄文時代に、高度な数概念がなければ、複雑な編みかごを作ることはできないだろう。環状列石(ストーンサークル)を、単純な日時計ではなく、太陽暦のカレンダーとして使う発想も生まれなかったはずだ。データ文明は、文字ではなく数字の文化が基盤となるので、チリから学ぶことはたくさんあるし、チリで受け入れられるかどうか、思考実験することは、単純なAI技術による社会的シミュレーションより、現実的だと思われる。
最後になって、筆者としては、この論考を始めてから(バイオマーカーについて考え始めた20年前から)最大の発見、実行可能なプログラムを思いついた。マヤ文明と縄文文化を比較していて、考古学は究極の解剖学ということに気がついた。火葬される前の人骨から、死亡時の医学的情報を網羅的にデータ化することができる。考古学では、骨に含まれるコラーゲンの炭素・窒素の同位体比から、当時食糧とした動物種や植物種が推定されている。骨の保存状況に応じて、感染症や虫歯、戦闘の傷、四肢のマヒ状態なども推定できる。しかも同族集団の数百人規模の遺骨が分析できる。現在のバイオバンクよりも、はるかに網羅的なデータだ。私たちも、火葬される前にX線CTスキャンをして、一部の骨を化学分析すれば(エピジェネティクスも含めて)、医学は確実に進歩するはずだ。たとえ初めは興味本位であったとしても、遠い文明に思いを寄せることで、日常では思いもつかないアイデアが浮かぶのだろう。チリで受け入れられるAI農業について考えると、認知症治療薬のアイデアが生まれるかもしれない。楽しみになってきた。次回から、再度、AI農業について考えてみたい。
※過去記事1:『みんなで機械学習』第46回「リスク適応的マネジメント」(2024年9月3日付)
https://www.newsyataimura.com/yamaguchi-124/
※過去記事2:『みんなで機械学習』第49回「超石器文明」(2024年10月21日付)
https://www.newsyataimura.com/yamaguchi-130/#more-21547
※過去記事3:『みんなで機械学習』第32回「P(4+1)機械学習」(2024年1月9日付)
https://www.newsyataimura.com/yamaguchi-107/
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