山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社ふぇの代表取締役。独自に考案した機械学習法、フェノラーニング®のビジネス展開を模索している。元ファイザージャパン・臨床開発部門バイオメトリクス部長、Pfizer Global R&D, Clinical Technologies, Director。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
◆リベラリズムの代替案
前稿( https://www.newsyataimura.com/yamaguchi-133/#more-21708 )では、17世紀後半の近代合理主義哲学の巨人スピノザの哲学が「過去の哲学ではなく、現在の問題であって、人類の歴史が逸脱しているのではないか」というデータ論の問題意識を提起した。「ニュース屋台村」とともに7年間つきあったスピノザの哲学に、21世紀のトポロジカルデータ解析(TDA)に至る萌芽(ほうが)を感じて、現在の問題への新しい突破口が見えてきた。
すでに何度か、データ文明における「人間周辺主義」(マージナリズム)については記載している(※参考1)。個人や集団の周辺における変化(微分)を観察して、周辺で<積分>すれば、その内部の状態の総和を推定しうるという、微積分学の基本定理(ストークスの定理)の哲学的な応用だ。中心部の特異点(権力者の思想など)の影響を低減して、幾何学的な場所の定義が明確な<周辺>における変化をデータとしてとらえる、データ解析とは相性が良い考え方だ。スピノザは、ユダヤ社会から追放され、オランダの田舎町において、古代から未来まで、人間の営為とその限界を見抜こうとしていた。神を無限遠点において、当時の先進国であるオランダの周辺で生活しながら、教会や支配者の権威を外部から眺める幾何学的な哲学だ。しかし私には、スピノザの合理主義哲学が、過去の社会ではなく、現在や未来の社会における政治論に結実する経路が見えなかった。実際に、スピノザ自身も、立憲君主制までは議論しているけれども、民主主義や共和主義については記載していない。
スピノザの幾何学は、属性(哲学的概念)の定義と定理の形式だけを見ているとユークリッド幾何学なのだけれども、神を無限遠点とすれば射影幾何学になるし、個人や個物(所与すなわちデータ)を抽象化して、所与の集団としての形を議論するのであればTDAになる。スピノザに続く近代合理主義哲学の巨人ライプニッツは、個人や個物(所与すなわちデータ)を抽象化した<モナド>について考えたけれども、モナドの群れ(集団)の形までは考えなかった。近代以降の政治哲学は、大雑把にとらえて、個人主義と社会主義の間で揺れ動いている。個人と社会の間に、群れ(集団)の形があることは議論していない。群れ(集団)の形は、群れ(集団)の周辺の形に他ならない。個人の思想と存在は、無定形な理性ではなく、生理的な身体の形によって制約されていることは、現代の哲学の課題だ。群れ(集団)の形については、TDAなどのデータ解析による探求が始まっている。
世界的に政治状況の混迷が続いている。近未来のデータ文明に至る社会変革の経路を考察するために、現代の政治哲学の課題として、リベラリズムの限界を理解して、その代替案を考えることから始めてみたい。スピノザの哲学は、リベラリズムの代替案ではないけれども、近代政治哲学からリベラリズムへ至る、欧米の歴史に包括されない、リベラリズムへの違和感の出発点となるだろう。筆者の未消化な代替案は、身体および群れの形に制約された「トポロジカルデータ主義」と「人間周辺主義」(マージナリズム)だ。抽象的な意味での「場所に制約された健康」(身体の健康や社会の健康)を、近代までの理性的な意味での価値感「真・善・美」よりも根源的な(非言語的な)価値と考えている。
◆期待される人間像
筆者は小学校から中学校まで、学校の勉強が嫌いで、試験勉強をしないでもなんとかなる算数と理科以外は、及第点もおぼつかない劣等生だった。運動部の活動と図書館が好きだったので、学校に行くことは問題が無かった。学校の図書館では高校生が対象の「哲学」の本を読んでいた。中学生の倫理社会の教科で、西洋哲学史を学んだことがきっかけだ。授業はギリシャ哲学で終わってしまった。その後、近代哲学を自習したけれどもよくわからず、カント、ヘーゲル、マルクスを読んだ。わかったとはいいがたいけれども、科学から離反してゆく哲学に、反感や違和感が残った。哲学少年だった筆者が、「期待される人間像」を知ったのは、政治少年達が中央教育審議会(中教審、教育政策に関する意見交換や諮問・答申を行う文部科学省〈当時は文部省〉の審議機関)が反マルクス主義で保守思想に偏っていると批判していたからだ。筆者にとっては哲学的な意味で、高校生の「期待される人間像」に大いに幻滅した。カントの中途半端な道徳論と、米国流のリベラリズムを接ぎ木したような無毒化した哲学に、日本の国家像を戦争体験や原爆体験を無批判に無かったことにしたような反歴史主義であると、哲学少年は直感的に理解した。
以下に、『リベラリズムとは何か:ロールズと正義の論理』(盛山和夫、勁草書房、2006年)の序章から引用する。「『自律した創造性豊かな人間』というのは、リベラルな社会を担っていく『期待される人間像』なのであり、……」。『期待される人間像』そのものは古本でないと入手できない。中教審第十九特別委員会での審議内容を精査した研究論文(田中直人、2022年、https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/10143/files/seijikeizaikenkyuron_10_23.pdf)を読んで驚いたのは、外部からの臨時委員であった松下幸之助(当時松下電器産業社長)は、日本国民としての人間像を考えるにあたっては、世界共通の人間像に日本の伝統を加味してゆくことが重要、と述べている部分だ。「世界共通の人間像」とか「日本の伝統」という、未定義な概念が「加味」できるという、支離滅裂な論理を述べている。好意的な意味で驚いたのは、秩父セメント社長(当時)の諸井貫一が、若者がもつ能力をどのようにして存分に発揮させるかという趣旨で、スピノザのエチカような道徳論を披露していた。当然のように、提言には全く反映されなかった。松下電器産業と秩父セメントの事業展開を考えると、歴史は不条理なものだ。
筆者がリベラリズムを嫌いになった昔話をしてみた。その意味では、13歳から60年近く、リベラリズムの代替案を考えている。現在では、リベラルな社会に希望がないことが明白になり、エリート主義への反感もともなって、現実の政治が混迷している。政治が混迷しても、経済はある程度自律性があるので、なんとか運営できている。しかし、経済活動がもたらす地球規模での社会問題や環境問題を解決する原動力は、リベラリズムにはない。
◆化学産業のV産業革命
18世紀の後半において、英国から始まった産業革命は、蒸気機関、すなわち熱力学の産業応用だった。その英国が、2020年の保守党ボリス・ジョンソン政権において、グリーン産業革命(Green Industrial Revolution)を立案し、2024年の労働党キア・スターマー政権においても、気候変動対策を重点政策として継承している。しかしその内容は、クリーンエネルギーへの転換を推進する程度のもので、熱力学の延長上でしかない。熱力学の産業応用とはいっても、当時の主要産業は繊維産業だった。綿花の植民地生産に始まる繊維産業は、石油化学の合成繊維へと主役の座を譲った。クリーンエネルギーに転換しても、そのエネルギーを消費するのは自動車やデータセンターであれば、旧来の産業構造と大きな変化はない。少なくとも、気候変動の影響を大きく受ける発展途上国の観点では、グリーン産業革命は、産業革命以前の植民地経済と大差はない。産業技術が、熱力学からバイオテクノロジーへと変化する前段階として、化学産業の果たす役割は大きいはずだ。
英国のグリーン産業革命には、植物の高度利用という観点はない。日本では縄文時代から、竹かご作成など、高度な植物利用の文明が継続している『さらにわかった! 縄文人の植物利用』(工藤雄一郎・国立歴史民俗博物館編集、新泉社、2017年)。化学工業としては、植物から作るプラスチック、セルロイドやセロハンなどを量産してきた。しかし、量産技術にこだわることで、原料の植物繊維の物性と加工産物の関係が深く問われなかった。ファインケミストリーというと、医薬品や電子材料が注目され、石油化学が中心で、植物原料は重要視されなかった。化学産業における植物の高度利用がV(ヴィーガン=Vegan)産業革命として、近未来のAI(人工知能)農林業が健康産業を志向する基盤技術となる可能性は大きい。
ヴィーガン産業革命では、植物の産業利用のために、多種多様な植物に関する微視的な構造の知識が不可欠になる。農林業における栽培植物は、産業利用が食糧や建築材料に限られているため、不要な部分は大量の産業廃棄物となっている。まずは、植物の産業廃棄物の微視的な構造に関するデータを集積してみたい。構造から機能への推論には、機械学習が役立つだろう。医薬品の構造から機能への推論よりも、素材としての機能のほうが、生体における安全性の評価が不要なので、はるかに現実的だ。
◆ヴィーガンなデータ文明
ヴィーガン(Vegan)の語源は、Vegetarianの初めから終わりまでということらしい。食糧に限らず、動物からの搾取(さくしゅ)の全てに反対する考え方のようだ。仏教の「殺生」に近いけれども、宗教的な深みや歴史観はない。欧米の社会では、リベラリズムの代替案またはアンチテーゼとして、アーティストを中心に、ヴィーガンが一つの時代精神になっている。筆者のような、人間周辺主義の考え方からは、ヴィーガンも一つの人間中心主義のように思われる。しかし、時代精神は、哲学としての主義主張ではなく、人びとの生活感情に根差しているので、哲学的な違和感などは、どうでもよいことなのだろう。もし哲学的な違和感が役立つことがあるとすれば、それは国家や権力者による「上から目線」を、粉々に粉砕するソクラテスのような議論だ。プラトンは、ソクラテスの議論を、ピタゴラス教団の数学に接続して、無毒化した。アリストテレスは、無毒化された「知」を体系化しようとして、国家や権力者との緊張関係を忘れてしまった。「知」の体系(システム)ではなく、「データ」のプロセスにこだわりたい。ヴィーガンを「動物の搾取」という理念ではなく、「植物の高度利用」のプロセスとして再解釈して、データ文明に向かう政治経済の一つの探究路としての可能性を開拓してゆきたい。
データ中心主義としては、少数のシステムに依存するのではなく、多数のプロセスを改良しながら並列に「マネージ」することが有利であることは、何度か過去の記事にも記載している。コンピューターの情報システムも含めて、国家などの社会システムも、複雑になると、システムエラーが避けられない。民主主義は、意思決定システムとしては憲法を最上位とする法律的なシステムであったとしても、民主主義的な意思表示は、同時多発的なプロセスだ。「リベラルな社会を担う」こともプロセスであって、「自律した創造性豊かな人間」が、そのプロセスの主体となる。「リベラルな社会を担う」プロセスの主体としては、犯罪者以外であれば、「期待される人間像」である必要はない。機械学習の時代では、教育システムも、プロセスとして理解するほうが良いだろう。人種や性の多様性よりも、社会的プロセスの多様性を議論して、社会的プロセスのチェンジマネジメントを工夫すれば、国家を含む近代的な社会システムは、政治の関与が無くても、変化してゆくだろう。AI技術の普及によって、急速に社会システムが変化する状況では、保守的な政治によって、変化のスピードを緩やかにすることも、合理的なのかもしれない。保守的な政治だけではなく、革新的な政治も含めて、人類の理性では、バイオテクノロジーやAI技術の行く先を、正確に予測することはできない。身体の健康や社会の健康を第一優先とする健康主義で、新しいニッチ(心地よいすみか)を発見したら、ニッチな場所に人びとが殺到してケガをしないように配慮する。私たちには、「リベラルな社会を担う」必要も無ければ、「リベラルな社会」の近未来に、根拠のない希望を持たないほうが賢明だろう。
※参考1:『週末農夫の剰余所与論』第20回「空想数理哲学が地球を救う」(2021年8月6日付)
https://www.newsyataimura.com/yamaguchi-57/
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