小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住27年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
私はこの10年あまり、バンコック銀行(以下バン銀)の退職を騒ぎ立てる「やめる、やめる詐欺」を働いてきた。特に人からお金をだまし取ったわけではない。それでも私の「やめる、やめる詐欺」に振り回された方も多い。2025年の新年を迎えるにあたって、ここにこの“詐欺行為”をやめることを宣言したい。また、これまで私の“詐欺行為”に振り回された方に対して、この場を借りて謝罪したい。
◆りそなの個人業務手法をコピー
そもそも私の「やめる、やめる詐欺」が始まったのは2015年のことである。バン銀日系企業部の統括ポジションを当時の嶋村浩EVP(Executive Vice President)に禅譲したのが15年1月。このとき私は後見人として、1年間はバン銀に残ることになっていた。バン銀の定年は60歳。すでにこの時、私は定年年齢を過ぎていたので16年3月の退職は既定路線であった。私は米国に10年、タイに17年(当時)の勤務を経験していた。健康寿命を考えると、私が働けるのはあと10年。私はこの10年の残り人生をどのように過ごすべきであろうか? 「ヨーロッパに住んでみたい」。これが私と妻の2人で出した結論である。早速私は行動に移した。チャシリ頭取あてに退職願を提出。知り合いの伝手(つて)を頼って、日本企業3社のヨーロッパ駐在の可能性を謀(はか)った。しかし「言うことを容易に聞かない頑固者」の私を雇ってよいという殊勝な企業はなかった。大学卒業時の就職試験も一筋縄ではいかなかったが、60歳を迎えた定年時も私の再就職戦線はあえなく敗退して“終戦”を迎えた。
こんな時、「ヨーロッパに行きたい」という私の夢を知っていたチャシリ頭取から、「1か月の休みを取ってヨーロッパに行っても良いからバン銀であと3年働くように!」という温かいオファーをいただいた。当時すでにチャシリ頭取とは25年の付き合い。バン銀日系企業部を一から立ち上げ、バン銀内で最有力の部に育て上げた功績に報いてくれようとしたのかもしれない。さもなければ、1997年のアジア通貨危機の困難を共に乗り越えてきた同志として同情してくれたのかもしれない。とてつもなくありがたいオファーであった。
一方で、バン銀日系企業部の統括のポジションは既に嶋村EVPに禅譲していた。今更私が日系企業部の仕事にしゃしゃり出たら既存の部員はやりにくいに違いない。たまたまその時期、日系企業部は80人の大所帯になっており、バン銀本社ビルの10階と24階の2つの場所に分かれていた。嶋村EVP以下日系企業部の主要部隊は10階に、私は提携銀行からの出向者と共に24階にいた。もっとも提携銀行からの出向者は顧客訪問で昼間は外出しているため、私は日系企業部設立メンバーであるソンポップSVPと2人、ぽつんとオフィスに残った。こんな状況だから日系企業部の活動情報は入ってこない。あえて日系企業部の会議にも出ず、嶋村EVP以下既存のメンバーに日系企業部の仕事は任せ、なるべく口出しはしないように努めた。時に、小言を言うこともあったが「老人の悪い癖」と反省している。
私は、と言えば、嶋村EVP以下のメンバーに迷惑をかけないようにバン銀内でほかの仕事を探した。ほかのタイの銀行に比べて後れを取っていたバン銀の個人部門の改革に着手することにした。私はそれまで個人業務とは全く縁がなかった。何のノウハウも知識も持ち合わせていない。
しかし私には日本のりそな銀行と強いパイプがある。そもそもバン銀が提携銀行戦略を始められたのは、りそな銀行の細谷英二会長(当時)の英断によるものである。出向者の派遣もりそな銀行が最初に受け入れてくれた。細谷会長はJR東日本の改革に辣腕(らつわん)を振るいその実績を買われ、りそな銀行の会長に就任。「りそなの常識は世間の非常識」と公言し、銀行業をサービス産業に変えようと奮闘していた。このため、りそな銀行の個人業務は当時既に他の邦銀の追随を許さないまでに進化していた。
この「りそな銀行の個人業務を丸々コピーさせてもらおう」という虫の良い計画である。まず個人部門の部門長や住宅ローン部の部長などを連れてりそな銀行での1週間の研修を企画、りそな銀行からは受け入れに快諾を得た。私自身は通訳としてこの研修に同行。りそな銀行の個人業務の手法や体制は私にとっても「目からうろこ」であった。
現金の取り扱いを廃止した支店の受付業務。これまでとは全く異なったATM機器の使い方。支店後方業務の地区センター化。住宅ローンセンターによる住宅ローンの一括取り扱い。個人情報システムのデータ精緻(せいち)化――。お客様の視点に立った利便性と取り扱い時間の迅速化など、これまで銀行が忘れてきた改革がそこにはあった。3か月後には早速バン銀のチャシリ頭取も連れて2回目の1週間研修。チャシリ頭取もりそな銀行の取り組みに感服し、りそな銀行の個人業務の手法をバン銀に“移植”する作戦に内諾を得た。
その後も計7回で延べ40人のバン銀幹部をりそな銀行に研修で送り出した。その都度私も通訳として同行し、りそな銀行の方々と親密な人間関係を構築することができた。併せてバン銀の個人部門・システム部門・人事部門の部門長などとチャシリ頭取の「御前会議」を2か月に1度開催。それまでは会議が始まると議論が続き「何も決まらないのがバン銀の常」ではあったが、この会議では議論を封じ、「りそな銀行の手法をコピーすること」を大命題とした。これにより、新種ATM機器の開発、住宅ローンセンターの設置、個人顧客向けマーケティング・オートメーションシステムの導入などが順次実施された。いかにチャシリ頭取のバックアップがあるとはいえ、この世界にも抵抗勢力はいる。最終的にこれらの施策が実行されるまでには5年の歳月がかかった。
◆私設部会を通じたビジネスと協業
このほかに、私が日系企業部の業務の枠外として始めたのが、私設部会の開設である。かねてより日本の国家および日系企業の行く末を懸念していた私は、「ニュース屋台村」創設時からこうした問題意識を表明していた。
しかし問題意識を表明するだけでは十分ではない。何らかの具体的な対策を打つ必要がある。こうしたことから、①タイへ進出する日系企業の支援を行う「商工部会」②日本の特産物のタイへの売り込みを支援する「特産品部会」③日本の観光を推進する「観光部会」④日系企業の技術革新の支援をする「新技術部会」⑤タイの大学と日本の大学や企業の仲介を行う「産学連携部会」――の5つの部会を立ち上げた。各部会とも日本の政府関係者、日系企業や各テーマに即した人たち10人程度に集まっていただき、3か月に1度程度会議を開催。情報交換や具体的なプロジェクトの推進を行った。
こうした部会を運営するためには、単に会議を開催するだけでは不十分である。毎回会議で論議するテーマを集めてプレゼンテーションを行う。部会に有益な情報や成果が無ければメンバーは脱落していく。こうした事態を避け、部会を真に有効なものにしていくために毎回入念な準備をしてきた。現在は、使命を終えた「商工部会」「特産品部会」「観光部会」を廃止し「産業振興部会」に統合。前述の「新技術部会」「産学連携部会」と合わせて3つの部会を運営している。すでに各部会とも発足以来10年以上が経過し、メンバー間のビジネスや協業なども活発に行われている。
◆東京支店に用意された個室
日系企業の統括ポジションを禅譲して新たな業務を開始したのが16年3月。3年の時限契約であったため、19年3月には再びバン銀退職を準備した。18年の終わりごろから大騒ぎをして退職準備に入り、2度目の退職願をチャシリ頭取に提出した。しかし、個人業務関連のプロジェクトが未完成であったため、再度3年の雇用延長がなされた。
こんな中、20年の初めからタイでも新型コロナウイルスの感染が拡大。バンコクではロックダウンが実施されるなど日常活動はすべて封じられた。哲学・脳医学関連の読書、クラシック歌唱とフルートの練習、タイに駐在していた次男家族との食事会などでコロナ禍の中でもそれなりに充実した生活を送ったが、それも2年で限界が来た。22年3月の契約満了時期を目の前に、私は「何が何でも日本に帰りたい」という強烈な望郷の念にとらわれた。高齢な親も心配であった。また放りっぱなしになっていた日本の自宅も心配である。子供や孫たちはどのように過ごしているのであろうかと気になっていた。
しかし、バン銀内ではコロナ禍下にあった当時、まだ海外出張も海外からの帰国も許されていない。20年の初めに私は意を決して3回目の退職願をチャシリ頭取に提出。日本への帰国を強行突破しようと試みた。退職願を出してから2か月後、チャシリ頭取から呼び出しがあり、予期せぬ回答があった。「日本を中心とした勤務で構わないので、あと3年契約を延長してほしい。日本とタイの行き来や他国への出張も自分の都合でやってもらってよい」。社長室付けとして、本拠地を設けない勤務形態。異例な扱いであり、人事部も新しい勤務ルールの制定に動いた。また、チャシリ頭取からは東京支店に指示があり、支店内に私の個室が用意された。思いがけぬオファーに私は断る手段を失ってしまった。
単純な契約延長ならば固辞して日本に帰るつもりでいた。タイの住居の家具や食器なども整理。職場にあった個人の備品なども大半は整理していた。ところが日本中心の勤務でも構わないといって、東京支店に部屋まで用意してもらった。ここまで厚遇を得てバン銀を退職することはできなくなってしまった。
とりあえず22年3月末に日本に帰り、長い間使用していなかった家の整理などをした。コロナ禍を経験して、改めて「今後何が起こるかわからない」ことを覚悟した。このため人生の終焉(しゅうえん)を控え、「不用品の処分」などの終活活動も開始した。7月には高齢で病院療養を続けていた父親が他界した。まだコロナ禍の影響が残る不自由な環境の中で、今後3年間の身の振り方を考えた。チャシリ頭取からこれほどの厚情を得たならば、私も真剣に働いて頭取の期待に応えたい。21年3月には嶋村EVPが定年退職して、岡田誠EVPが日系企業部の統括の責任者となっていた。コロナ禍の真最中の中での業務の引き継ぎである。在タイ日系企業や日本の提携銀行との人脈の引き継ぎは物理的に不可能であった。さらにコロナ禍の間に顧客との取引関係や日系企業部の体制なども弱体化していた。
こうした人脈や体制の再構築作業などを岡田EVPと共同で行おう。また、25年3月までに私の固有業務を含めてすべての業務を現在の部員に引き継ぐことにしよう。幸い私の名前は日本の金融界では少しは知れたものになっていた。各提携銀行の頭取との面談を申し込んでも快く受け入れてもらえた。また、在タイ日系企業の社長職であった人たちが日本本社で役員に昇進していた。昔の人脈を生かして日タイ双方で取引の再構築を目指した。
また、日系企業部の統括を離れた後に始めた各種部会で、日系有力企業や日本政府関係者との関係を深めていた。こうした人脈も大変な助けになった。提携銀行からの出向者向けの教育も私抜きでできる体制となった。バンコク・コンサルティング・パートナーズ(BCP)社を使ったマーケティングオートメ―ションやセミナーの開催も軌道に乗ってきている。この2年半は「やめる・やめる詐欺」を日常的に使い、業務の引き継ぎに邁進(まいしん)した。22年7月以降、私は死に物狂いで働いた。こうした私の考え方については、昨年の新年の抱負として表明した拙稿第257回(24年1月5日付)で説明した。
◆「生きるシーシュポス」として
さていよいよ今年は「やめる、やめる詐欺」の返上宣言である。私の業務の引き継ぎは大半めどが立った。年齢も今年72歳を迎え、最近とみに体力の衰えを感じてきている。さすがに潮時である。こんなことを考えながら、昨年10月ごろから私は4度目の退職交渉をチャシリ頭取と行った。
結果はというと……。チャシリ頭取からは「仕事量を落とし不定期勤務で良いから期限を設けず、ずっとバン銀に残ってほしい」と要請された。これにより、全く違った形で「やめる、やめる詐欺」を返上することになってしまった。相も変わらず「生きるシーシュポス」として徒労を繰り返す私の生き方は変わらない。ここしばらくはバン銀のお世話になり、体力の許す範囲で無益とも思える努力を繰り返すことになりそうである。
※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第257回「新年の抱負 『シーシュポスの神話』と自分の立ち位置」(2024年1月5日付)
コメントを残す