山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社ふぇの代表取締役。独自に考案した機械学習法、フェノラーニング®のビジネス展開を模索している。元ファイザージャパン・臨床開発部門バイオメトリクス部長、Pfizer Global R&D, Clinical Technologies, Director。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
◆機械学習は最後の機械文明
本論が目指していることは、近代文明の行き詰まりを生き延びながら、AI(人工知能)技術を社会変革に役立てることで、近未来の「データ文明」に至る探究路を開拓しようという試みだ。筆者の読書歴が、哲学と自然科学に偏っているので、用語や論旨が「ニュース屋台村」の読者の皆様には難解であることを申し訳なく思っている。
そこで、SF(空想科学)小説をつまみ食いしてみたら、AI話題(人類と対立するロボットなど)が、50年近く前から、宇宙話題と同じぐらいに、繰り返し文章化されていたことを知って、とても驚いた。当時は、とても恐ろしい物語だったはずなのに、技術としては、ほとんど現実のものとなっていて、「恐ろしい」と思う読者(筆者を含めて)の気持ちは、あまり変化していないのは、救いなのだろうか。人間が、集団として行動するときの残虐性は、生物としての社会性の欠如かもしれないけれども、「恐ろしい」と思う感情が失われたら、本当に恐ろしいことになる。
本稿の書き出しも含めて、以前の記事では、近代文明という表現を使って、産業革命や近代合理主義哲学の時代から現在までを概括していた。しかし、近未来の「データ文明」という表現に対しては、近代の「機械文明」と表現するほうが分かりやすい。そう考えると、現在のAI技術の頭脳に相当する機械学習技術は、「機械文明」の最後(末期)の機械ということになる。
近未来の「データ文明」まで人びとが生き延びるとすれば、機械文明を天地逆転するルネサンスを経験するだろう。中世末期のルネサンスでは、芸術や科学の爆発的なエネルギーを体現したポリマス(博識家)が、人間中心の世界を求めて、教会の権力と戦った。「データ文明」に向かう、機械文明末期のルネサンスで、覇権国家と支配的資本家の権力と戦うのは、最強の機械だ。最強の機械は、組織や集団が健康であること(ポリヘルス)を追求する「みんなのAIポリマス」であるというところまで、筆者のSF物語は進展している。
◆群れのルール
覇権国家と支配的資本家の権力と戦かって勝利するのは、SF物語の世界であって、現実的には、不確実な巨大リスクには、戦わないで逃げることが望ましい。恐竜時代を生き延びた哺(ほ)乳類と、恐竜から進化した鳥類から学ぶことは多い。さらに、人間社会の巨大リスクには、恐竜時代よりもはるか以前から繫栄し、高度な社会性を獲得した昆虫の知恵が役立つ。AIが人間の言語能力を超えたとしても、うまくうそをつくことができる程度で、巨大リスクを解消したり、巨大リスクから逃げたりすることに、現在のAIやAGI(汎用人工知能)は役に立ちそうもない。
動物たちの社会活動を概観して、人間の組織活動に役立つ考え方(プロセス)を考察した本を読んだ(『群れのルール The Smart Swarm』〈ピーター・ミラー、東洋経済新報社、2010年〉)。著者は科学雑誌(ナショナルジオグラフィック)の編集者で、学者でもコンサルタントでもない。偏狭な哲学に偏ることなく、「群れのルール」という難解な話題を、著者独自の視点で、無難にまとめている。
本書で紹介されている「群れのルール」は、「自己組織化」「情報の多様性」「間接的協業」「適応的模倣(ほう)」の4つで、「暴走した群れの悲劇」の事例も説得力がある。昆虫社会のように、数百数千の個体が群れをつくるときには、量から質への転換が起こって、群れに特徴的な社会的行動が明確になる。しかし、個体差が全くない統計力学とは異なって、生物の群れにおける量から質への転換は、閉鎖的なシステムではなく、場所に依存するダイナミックなプロセスとして記述される着眼点が興味深い。
オオカミや人類のように、家族での集団行動を得意とする動物の場合は、昆虫のようには高度な社会的ルールが、身についていない。もっとも、家族での集団行動は、1万年前や千年前までは、種の存続に役立っていたかもしれないけれども、現在の人間社会では、家族という集団の役割は多様化して、発散しつつある。『延長された表現型-自然淘汰の単位としての遺伝子』(リチャード・ドーキンス、紀伊國屋書店、1987年)は、著者のベストセラー『利己的な遺伝子』(1976年)に関する反論を、論駁(ろんばく)することが目的の論争の書物だ。しかし、「延長された表現型」の例題となるビーバーのダム作りの行動は、動物の社会的行動の例として興味深い。ビーバーのダムが自然環境を変化させ、ビーバーの生存に役立っている。
AIの場合はどうだろうか。個体差の無い多数のドローン兵器が群れをつくり、敵を自動識別して、自律的に軍事作戦を展開する。これはSF物語ではなく、現実の地獄図だ。もし個体差を理解するAI技術(フェノラーニング®など)が実現されて、数百数千のAI知能が群れをつくれば、自発的に社会性を発揮するのだろうか。群れのルールを十分には理解していない人類が、AIの群れをつくれば、地獄図にならない保証はない。
◆AIガバナンス
AIアクションサミット(2025年2月6日~11日、パリ)において、「人と地球のための持続可能で包括的なAIに関する宣言」(※参考1)が採択されたけれども、米国と英国は署名しなかった。中国が署名していることも気にかかる。このAIに関する宣言には、100以上の具体的な取り組みとコミットメントが含まれているということなので、詳細を理解するのには時間がかかりそうだ。
筆者は、国連などで現在主流の「人間中心のAI」という考え方に違和感を持っている。例えば、国連大学のニュースレターでは、AI推進とAI規制の均衡点(AIガバナンス)は<国連の価値観でなければならない>と強弁している。長くなるけれども、主流派の考え方を引用しておく「最終的には、AIガバナンスの支点、つまりその均衡点は、世界人権宣言を中心とする国連の価値観でなければならない。グローバル・デジタル・コンパクトは、デジタル空間における人権と国際法へのコミットメントを通じて、ユーザーがテクノロジーの進歩から恩恵を受けつつ、濫用(らんよう)から保護されるよう、私たちをその道へと導いてくれる。」(※参考1)
国連において、第2次世界大戦の戦勝国が中心となって、核戦争の危機を防止する世界秩序を作ってきたことは大いに評価できる。しかしながら、核兵器は増加し、市民を大量に犠牲にする戦争も防止できず、地球環境は悪化の一途で、経済的格差や政治的な分断も修復不可能な段階になってしまった。すなわち、国連は不健康な状態で、機能不全に陥っている。
AIが、現在の不健康な国連の価値観によって開発されれば、不健康なAIとなることは容易に予想される。ビジネスとしてのAIの開発競争は、資本主義を否定しない限り、国連の価値観によって左右されるのではなく、市場が決定する。軍事技術としてのAI開発は、軍国主義の覇権国家、すなわち、米国と中国が中心となるので、国連の価値観と無関係であることは明らかだ。
筆者のように、人類の価値観そのものを、AIと共存・共生・共進化するために、根本的に変革しようと考えている立場からは、「みんなで機械学習」して、国連の価値観を天地逆転することも、ありうる選択肢になる。AIアクションサミットでの英国と米国は、それぞれ思想的背景が全く異なるけれども、筆者には、AIに関する、欺瞞(ぎまん)的ではない、勇気ある行動と見える。国家ガバナンスすらできない政治家に、AIガバナンスができるはずがない。
◆データの技術思想
AIガバナンスを否定しても、筆者はAI無政府主義者ではない。AIは技術なのだから、技術思想として、著作権もしくは特許の仕組みで管理することが望ましいと考えている。ソフトウェアにおける著作権は、プログラムを公開しても、オープンソースの著作権によって保護される。プログラムの動作原理やビジネス応用は、特許によって、その実施権が保護される。
問題は、「データ」に関して、公開と権利の保護が不十分なことだ。AI技術の場合、プログラムにおける計算手順(アルゴリズム)と「データ」を分離することが困難になる。「データ」は容易に修正したり増殖したりできるので、著作権ではうまく保護できない。「データ」を特許の実施例に含ませることはできても、うまく請求項に記載しないと権利化できない。「データ」は市場で取引したほうが良いのではないかという議論もあるけれども、グーグルのようなグローバル資本が「データ」を独占してしまう危険性のほうが大きい。
生物の遺伝子データは、その生物(人間を含む)が生息する国家や地域外への移動を禁止するという方法が、生物資源の保護に有効なようだけれども、病気のデータ(ウイルスの遺伝子データを含む)は、公開して対処方法を工夫しないと、手遅れになる危険性がある。AIの技術思想は記述できても、「データ」の技術思想は、通常の言語では記述できない可能性のほうが大きい。
数学の技術思想は、数式で表現できる。筆者の立場は、「データ」の技術思想は、データベースのデータ構造で表現できるというデータベース主義だった。しかし、AI(ディープラーニング)のデータ構造は、変数が膨大で、しかも学習によって変化するので、とても言語や数式で記述できるものではない。
筆者としては、「データ」の技術思想を特許に記載することを諦めていない。例えば、個体差のあるデータの場合、個体差を「データ」としてどのように表現するのかということであれば、多少哲学的にはなるけれども、人間の言語と数式で十分に記述できる。その個体差が、個人の健康に関する個体差や、組織や集団の健康に関する個体差であれば、それぞれに特徴的な技術思想が展開できるはずだ。
筆者の能力と興味の範囲外になるけれども、個体差以外にも、「データ」の技術思想のテーマはあるだろう。例えば、「データ」の形の美的判断など、「データ」の形を表現する技術思想もありうる。特許ではないけれども、「トポロジカルデータ解析」として、学問的な研究が進展している。
最近の生成AIの成功で、AIビジネスが加速している。言語データや画像データをインターネットで大量・容易・安価に入手できることが、ビジネスとしての成功の最大要因だった。ウクライナの戦場で、ドローン兵器による大量の殺人「データ」も入手可能になった。
単純に言えば、「データ」が無ければ、AIは何もできない。囲碁のようなゲームであれば、ゲームのルールをプログラム化すれば、シミュレーションで、大量に「データ」を生成できる。例えば、健康データの場合、「みんな」が協力しない限り、国家であっても、強制的に「データ」を収集することは困難だ。近未来の「データ文明」に向かう「データ」の争奪戦が、人類の最終戦争になるのか、機械文明の最後となるのか、みんなで恐ろしいSF物語を楽しもう。
◆消費的破壊の時代
経済学者のヨーゼフ・シュンペーター(1883~1950年)は創造的破壊(creative destruction)という概念で、イノベーション(技術革新)が、市場における企業の新陳代謝を促進して、経済発展をもたらすことを提唱した。しかし、最近のAIビジネスは、知識や「データ」の消費的破壊によって、資本市場を活性化(バブル経済かもしれない)しているように見える。
機械文明の末期には、創造よりも消費がふさわしいようだ。政治の世界でも、民主主義的な制度やルールを大量に消費しながら、従来の価値観や倫理観を破壊している。消費的破壊が、新たな創造につながる保証はないけれども、急速に変化することが、時代の要請なのだろう。進歩主義者が守勢に回り、保守主義者が破壊する。理不尽な構図だ。時代の流れが、大量自殺するバッタの群れのように、集団で暴走することは避けたいものだ。消費的破壊で、群れの暴走のエネルギーが分散するのであれば、それも一案なのかもしれない。
もっとゆっくりと、おだやかに、群れの暴走のエネルギーを浪費することはできないのだろうか。AIはとてもまじめで、電気さえ与えれば、よく働く。AIの知識や言語能力が人間を超えて、しかも、人間程度には常識的になることも可能だろう。しかし、AIが「遊ぶ」ようになるのには、気長な技術開発が必要だ。AIのビジネス応用や軍事応用が加速しているので、AIの基盤技術に関する研究はおろそかになっている。「遊ぶ」AIの特許を取得するチャンスかもしれない。
筆者としては、AIポリマス(博識家)とともに、ポリヘルスという切り口で、個体差がある集団や組織の「健康」を「データ」によって「みんなで機械学習」することを考えている。この試みにも、気長な技術開発が必要なので、AIと遊びながら、気楽に取り組みたい。
現在のAI技術は、「教師」や「審査員」といった、まじめな大人の役割しか想定されていないので、AIはまじめに機械学習する。しかし、まじめ一辺倒の方法では、「教師」や「審査員」を超える、イノベーティブな子供は育たない。よく遊び、よく学ぶ、必要がある。
現代で「遊び」というと、ゲームのことを想像してしまい、子供たちの社会的な「遊び」、例えば「石けり」や「かくれんぼ」などの、路地での自由な(大人が介入しない)「遊び」が忘れられている。コンピューターを使った「遊び」で、筆者が思いつくのは、コンピューターの「ライフゲーム」ぐらいなので、「ライフゲーム」に群れのルールを導入すれば、多少は社会的な「遊び」に近くなるかもしれない。AIを使ったマルチ・エージェント・シミュレーション(MAS)といえば、技術思想らしくなるので、特許出願も可能だろう。
◆データと遊ぼう
「遊び」について、哲学的、もしくは社会学的に考えた先人は、ホイジンガとカイヨワだ。ヨハン・ホイジンガ(1872~1945年)は、オランダの歴史家で、「ホモ・ルーデンス」という画期的な「遊び」の哲学を後世に残した。ホイジンガは、近代になって、中世の「遊び」が失われることに危惧を抱いた。ロジェ・カイヨワ(1913~78年)は、フランスの社会学者(ポリマス)で、「遊びと人間」によって、ホイジンガ―の探求を大きく前進させた。
カイヨワは、遊びのカテゴリとして、「競争」「運」「模擬」「眩暈(めまい)」を提案し、ヨーロッパの中世にこだわったホイジンガよりも広くて深い射程で、子供から大人まで、先史時代から近代まで、「遊び」を哲学的に分析した。カイヨワの時代精神としては、明らかにフロイトの影響が読み取れる。
筆者としては、ホイジンガの中世観のほうが不思議な魅力があったので、『中世の秋』(中央公論社、世界の名著67)を読んでみることにした。ホイジンガとカイヨワについては、今後も時々お付き合いいただくことになりそうだ。17世紀のスピノザとライプニッツの哲学よりは身近な「遊び」の話題を、SF物語の題材にしてみよう。
AIと遊ぶためには、遊ぶ「データ」を作ることから始めることになる。筆者は言語や画像にはあまり興味が無いので、生成AIと遊ぶ気持ちはない。古典的なライフゲームでも、群れのルールを導入して、遊びのカテゴリに従ったゲーム展開とすれば、遊ぶ「データ」が作れるだろうと考えている。遊ぶ「データ」は、「トポロジカルデータ解析」によって、遊ぶ「データ」の形を楽しむことができれば成功だ。
スピノザの「エチカ」から、「データエチカ」へと、「みんなで機械学習」する手前で、遊ぶ「データ」を作って、模擬的に遊んでみることは、遠回りのようで、案外、消費的破壊の時代には、ビーバーのダムのような役割になるかもしれない。
※参考1:人と地球のための持続可能で包括的なAIに関する宣言
※参考2:国連大学ウェブマガジン、2025年1月15日
https://ourworld.unu.edu/jp/serve-humankind-ai-must-be-shaped-un-values
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