山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
久しぶりに訪れたロンドン、日本との物価の違いに驚くばかりだった。パブでハンバーガーにフライドポテト、それにビールで約35ポンド(約7000円)。ミュージカルのチケットは1階後部の席で100ポンド(約2万円)。繁華街ピカデリーサーカス近くにあるユニクロをのぞくと、日本で2900円くらいのジーンズやパーカが35〜40ポンド(約7000〜8000円)。だった。
銀座のユニクロに海外からの旅行者が詰めかけ、大量に買い物しているシーンに、「ユニクロはいまや世界のどこにもあるのに、なぜ日本で買って帰るのか」と怪訝(けげん)に思ったことがある。
ロンドンに来てその理由がよくわかった。同じ規格の製品が半値で買えるのだから、日本に行ったらユニクロで買おうと考えるのは、当然だ。
日本で実感できなかった「日本は安い!」をロンドンでわかった。
◆政策と無縁ではない円安
1週間の滞在だったが、日本の物価水準と比較すると「1ポンド=100円」が適正水準と感じた。実際の為替相場は1ポンド=188円83銭(4月17日)。
出国した日、成田空港で両替すると100ポンドは2万600円(手数料込み)だった。旅行者にとって1ポンド=200円。どう見ても、適切な為替相場とは思えない。
イギリスは2020年にEU(欧州連合)から離脱し、そのショックで一時10%を超えるインフレが起きた。今は2〜3%に落ち着いているが、累積する物価上昇で、日本と比べると「モノの値段は日本の倍」となった。本来なら、為替相場でポンドが安くなって物価水準が調整されるはずだが、ドルやユーロに対し、さほどのポンド安は起こらなかった。
安くなったのは日本円だった。2011年10月に1ドル=75.35円をつけたが、その後は下落の一途で、150円台まで落ち込み、最近は145円前後だ。円高の頃と比べると日本円の価値は半分になった。ドルだけでなくユーロやポンドに対しても同様のことが起きている。
1ドル=75円が適切とは思わないが、10年ほどで価値が半減するのは、政策と無縁ではない。
急速な円安を招いたのは、マイナス金利まで踏み込んだ金融政策の結果だ。お金を貸しても借りても金利がつかない「ゼロ金利」が10年近く続いた。日本円には金利はつかないから、円は魅力ない通貨となり、投資はドルやユーロに流れた。
2012年末に政権を握った安倍晋三氏が打ち出した経済政策、いわゆるアベノミクスが円安を促したことは否定できない。人々にインフレ期待を抱かせることによって消費を活発にしてデフレを克服する、との振れ込みで始まった「金融の異次元緩和」は、大量の日銀マネーを市場に放出した。
過剰な通貨供給で起きたのは、円安と株高である。円安によって輸出を拡大し経済を刺激する、株高で資産を膨らまし消費を活発にする、という狙いである。
円が安くなったことで、海外で事業をしている大企業は大儲(もう)けとなる。決算は円建てだから、利益や売上の数字が膨張する。海外に拠点を持つ大企業は好決算、株高の資産効果を受ける富裕層が儲かれば、時とともに富は下々までしたたり落ちて庶民にも恩恵が行き渡る「トリクルダウンが始まる」という発想だった。
◆海外に出て日本の貧しさ実感
ところが、大企業は儲けを吐き出さず、内部留保としてため込んだ。金持ちは潤ったが、「格差社会」が深刻化した。
確かに、アベノミクスは大企業にとってありがたい政策だった。円の対外価値が半値になったことで、努力せずに海外収益が倍になった。
日本なら2900円で売るジーンズがロンドンで6000〜7000円で売れるのなら、ユニクロは大儲けだ。株価も上がり経営者も株主もご機嫌だ。そんな状況が大手上場会社で日常茶飯事となっていた。
企業が儲かっても景気は温まらず、GDP(国内総生産)は横ばい。円はひたすら安くなる。日本経済に活力がないのは、国内消費が振るわないから。その原因は賃金が伸びないこと、という当たり前のことに安倍政権が気づいたのは、アベノミクスの失敗がわかってからだ。
「安倍総理の言うとおりに金融政策を進めます」と言わんばかりに擦(す)り寄って日銀総裁の座を射止めた黒田東彦(はるひこ)氏は、市場に供給するマネーを倍にして、2年で2%の物価上昇を達成する、と公約した。ところが2年経っても4年経っても物価は動かず。異次元緩和は円安と株高をあおったが、本来の目的だった「デフレ克服」に至らなかった。
どこに問題があったのか。安倍政権や日銀が行き着いた先が「企業の利益が従業員に還元されず、実質賃金は目減りし、消費にカネが回らないから」。当たり前のことに気づいたのは、安倍政権の半ばだった。
このあたりから、政権は経団連などに「賃上げ」をお願いするようになった。岸田政権が誕生したころから、首相官邸・連合・経団連の3者が「政労資会合」を開くようになり、官民一帯の「賃上げ」へと進んだ。
ストライキをすることもなく、労働組合が経営者に「賃上げ」をお願いする。経営者は首相の顔が立つ程度の回答をする、という「お願い春闘」には限界がある。
額面だけ見ると昨年の春闘は、平均5.33%の賃上げとなったが、2024年の実質賃金の伸びはマイナス0.2%で物価上昇に追いつかなかった。実質賃金のマイナスは3年連続、つまり国民の収入は毎年目減りしている。
アベノミクスだ、賃上げだ、といっても日本経済や庶民の暮らしは良くならないばかりか、貧しくなった。その結果が、「安い日本」であり、日本とロンドンの「物価格差」となって現れる。
一時は経済大国として世界を席巻した日本は、1ドル=360円で「貧乏輸出」と言われていた頃の経済に戻ったようだ。
「貧乏輸出」は、海外で「ソーシャルダンピング」と呼ばれる。労働者を低賃金で働かせ、為替相場で円を安く固定し、低価格で海外市場を取りにゆく。そうした日本の国家戦略を表した言葉だ。
1ドル=150円は、まさに「ソーシャルダンピング」である。日本でもらう年金では、ロンドンで暮らせない。旅行で行っても、買い物さえ楽しめない。
日本では「インバウンドの観光客でデパートまで市場最高益」などと話題になっているが、海外に出れば、日本の貧しさは実感できる。国境を超えて初めて自分の国の現実がわかる、というが、まさにこのことである。
◆米国の衰退を早める「トランプ関税」
さて「トランプ関税」である。国境に「高い関税の壁」を立てて、外国製品の競争力を落とす。製品を売りたいのならアメリカで生産しろ、という政策だ。
アメリアは「自由貿易」の旗を振っていたが、トランプ大統領によると、アメリカが市場を開放したことで、輸入品に市場を喰(く)われ、アメリカの雇用が失われ、貿易赤字が膨大になった、という。
関税を高くすることで、解決する問題だろうか。アメリカの輸入は隣国のカナダ、メキシコが多い。高関税が効果あった1930年ごろは、国境で経済は遮断されていたが、いまでは相互乗り入れは当たり前。自動車産業でも部品の生産・加工など供給網(サプライチェーン)は他国にまたがっている。国境を越えるたびに関税をかけていては、アメリカ製自動車の値段が跳ね上がる。
関税は、いわば「輸入消費税」で、支払うのはアメリカ側の輸入業者、回り回って消費者が負担する。アメリカ国内で物価上昇を促す。
トランプが当選したのも、バイデン政権の時代、インフレが進み、庶民の暮らしが苦しくなったことが影響している。そんな状況で、インフレを加速しかねない高関税を振り回すトランプに正気を問う声が内外に噴き出ていた。
高関税を発動した4月9日、市場では株価が暴落、安定資産とされていた米国債までも売られた。金融市場からの警鐘である。トランプは慌てて「90日延期」を打ち出した。
トランプの狙いは、高関税で輸入品の競争力を弱めて米国製品を後押ししようということだ。日本市場でさっぱり売れないアメ車を政治的圧力で売れるようにしようという画策も同様である。
米国市場に外国製品が流入するのは米国の製造業に競争力がないからで、日本でアメ車が売れないのも、日本市場で通用する魅力的なクルマがないからだ。
どちらも外国メーカーの責任でなく、米国の製造業が抱える問題だ。米国の内政問題である「製造業の弱体」を政治力で補う、というのは健全な手法ではない。
日本は1990年ごろ、バブルが崩壊し、産業が軒並み打撃を受けた。リストラにコストカットという「守りの経営」に入り、経済は活力を失った。リスクをとって新たな事業に挑戦することをためらった結果、台湾・韓国・中国の企業に市場を奪われる結果となった。
政府は円安と株高で産業を応援した。何もしなくても利益が膨張する、という政策は一時の利益を生むが、体力はつかず、長期的な衰退を招く。それを示したのがアベノミクスである。
同じことがトランプの高関税政策でも起きている。政府の支えで競争が有利になることは、経営者の緊張を弛緩(しかん)させ、長期的にはマイナスに働く。
「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」を掲げ、極端な保護主義・排他主義を掲げるトランプ大統領は、スローガンとは裏腹に、米国の衰退を早めるのではないか。(文中一部敬称略)
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