引地達也(ひきち・たつや)
仙台市出身。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP(東京)、トリトングローブ株式会社(仙台)設立。一般社団法人日本コミュニケーション協会事務局長。東日本大震災直後から被災者と支援者を結ぶ活動「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。企業や人を活性化するプログラム「心技体アカデミー」主宰として、人や企業の生きがい、働きがいを提供している。
◆「南進」熱を背景に
日本企業のアジア展開は、グローバル化の試金石となる事象となってからおそらく30年以上が経過しただろうか。この「アジア進出」という表現が経済に限定したものという一般的なイメージが定着したのは、1970年代以降である。さかのぼると高度経済成長時代は、政治的には戦後処理とアジアとの関係正常化に追われていた。その発端は、大東亜共栄圏という軍部の夢と共に邁進(まいしん)していった膨張主義がある。
近代日本の戦略は、アジアを掌握し覇権を握り、西洋列強と互角の位置を担おうとする目論見(もくろみ)だったが、太平洋戦争の敗北ですべてが瓦解(がかい)した。ただ、瓦解前の「進出」には武力による拡張だけではなく、ソフトパワーによる平和的な共存共栄を目指そうという考えも存在していた。
「南進」政策に深く関わったとされる南洋協会という日本で最初の財団法人の盛衰は、歴史上あまり目立たないものの、あの時代の道標の1つである。今回は、アジア進出の源流でもある南洋協会から未来を考えたい。
南洋協会は、初代会頭に芳川顕正(よしかわ・あきまさ)伯爵が就き、2代目会頭の田健治郎(でん・けんじろう)男爵が受け継ぎ発展したとされ、関わったのは、渋沢栄一、新渡戸稲造、重光葵、藤山雷太、鈴木貫太郎、柳田國男、近衛文麿、吉田茂など、大正期から昭和初期にかけて活躍した政財界と文化界の有名どころが並ぶ。
関わり方は様々だが、顔ぶれは当時の「南進」熱をうかがわせる。協会は1913年に設立されたが、資金難ですぐに解散。しかし15年に第1次世界大戦を背景に再建された。つまり、同盟国イギリスの要請を受けて日本が対独参戦し、ドイツ領ミクロネシアに艦隊を派遣、ミクロネシアを委任統治領とし、同時に大戦による好景気で日本は輸出増に沸き、はじめての債権国となる――これらの要素が重なり、日本に「南進」を肯定する「南洋ブーム」が訪れ、南洋の調査を担う協会の役割が脚光を浴びたのである。
当時の南洋とは、カロリン、マリアナ諸島を中心とする「内南洋」と現在の東南アジアに相当する「外南洋」を指し、協会はこれら当地の経済調査や研究を目的に台湾総督府内に前線事務所が設置され、半官半民で運営された。
18年にはシンガポールに新嘉坡商品陳列館を開設、運営し、見本市場の役割を果たし、24年にはスラバヤ(インドネシア)、25年にはメダン(同)にも同様の陳列館を開設。当初は経済発展を目指す調査に加え、「土人」と言われた現地人を「ポリネシア族」「マレー人」「ジャワ人」と区別し人類学・民族学としての調査も実施。南洋協会の中心人物である井上雅二(いのうえ・まさじ)は、「日本人は南洋人から血を引いている」という人類学的視点から南進の正当性を主張するなど、文化・経済両面で南洋との共存を目指すシンクタンク機能を果たした。
◆外務省の従属機関
この半官半民の研究・調査、経済発展を指導する団体が、国策としての「南進」を進める国の従属機関になったのには、ポイントがある。それは27年の昭和金融恐慌である。前述した好景気に伴う南進ブームは、20年の反動不況でしぼみ、27年で完全にブームは終焉(しゅうえん)を迎えた。
しかし、南洋協会そのものは、活発化するという不思議なパラドクスが起きる。ここから外務省のテコ入れ、つまり多額の補助金を拠出し、メンバーも外務省出身が確保するようになるのである。
この動きは、内外の2つの理由がある。内なる理由は、南進の経済発展策における農商務省との争いである。実はシンガポールの陳列館は南洋協会が運営したが、計画・予算計上したのは農商務省であり、南洋協会は同省の委任を受けて商品陳列、内地への商品見本発送、商品取引の仲介斡旋(あっせん)、月刊紙「南洋経済時報」発刊などを行い、民族調査は自然消滅し、経済情報の収集や経済活動が主に展開された。運営費は農商務省から出ていたから、同省との関係は年々深くなっており、外務省としては情報収集機能の面からも協会を再度手中に収める必要があった。
一方で、対外的に目を向ければ31年の満州事変により、華僑による抗日運動が盛んになり、にわかに華僑の少ない南洋に目が向けられ、政治的に衝突リスクの少ない「南洋」が注目される展開となるのである。
外務省は南洋協会に対する補助金を一気に10倍以上引き上げ、完全にコントロールし、南洋協会は独自性を失った。そして37年に戦時経済体制が敷かれると、前述した陳列館は商工省(25年に農商務省から分離)に移管され、南洋協会は南洋情報を外務省に供与する任務をしながら南洋を担う人材育成を担当する事業を行うことになる。
ただ、軍部から地理的にも離れ、協会の現場主義と現地との融和を考える教育事業などソフトパワーは有効で、南洋諸島は太平洋戦争の激戦地のイメージが強いが、中国大陸のような軍部の横暴ではなく、融和の物語として歴史に残った。
◆ソフトパワーの名残
戦後、南洋協会は細々と南洋諸国との平和的な交流をするだけの外務省所管の公益財団法人として消滅せずに生きてきた。しかし、2008年に英会話NOVAの創業者、猿橋望(さはし・のぞむ)氏が買い取る格好で財団を引き継ぎ、名前を「異文化コミュニケーション財団」と変更、小学生へ英語テキストを無料配布する母体として機能させようとしたが、猿橋氏は業務上横領容疑で逮捕され、代表を解任された。
監督官庁である外務省による立て直し勧告を受け、正常化に奔走(ほんそう)したのが新任理事長である中野有(なかの・たもつ)氏(元米ブルッキングス研究所客員研究員、現龍谷大教授)、そして私であった。だから、南洋協会を書くのは思い入れがある。立て直しの過程で、当時の先人達の思いを現存した記録などから感じてきたからである。
景気に翻弄(ほんろう)され、戦時体制に組み込まれた南洋協会だが、日系人が初代大統領となったパラオなど南洋諸島で良好な対日観が存在するのは確かで、これは南洋協会のソフトパワーを重視したかつての名残を見るような気がする。
政治、経済、文化のあらゆる面から共存共栄を夢描いた当初の構想から、中央の事情により経済や情報など「必要なものだけ」をむさぼり、行動が一点に収斂(しゅうれん)していく過程の中でも、現地のことを考え行動した南洋協会の現場主義が、今の対日観につながっているのだろう。
今は、かつての南洋、という遠くからの視点ではなく、「アジア」という同じ立ち位置で考えられる時代、それは「同床同夢」の可能性である。アジア進出を掲げる企業は、戦前の南洋協会の反省と教訓を生かし、当該国の人々とともに夢を一緒に描いて欲しい。
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