引地達也(ひきち・たつや)
仙台市出身。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP(東京)、トリトングローブ株式会社(仙台)設立。一般社団法人日本コミュニケーション協会事務局長。東日本大震災直後から被災者と支援者を結ぶ活動「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。企業や人を活性化するプログラム「心技体アカデミー」主宰として、人や企業の生きがい、働きがいを提供している。
◆崩壊寸前
「どうにかしてくれ」
美由紀さんは、東日本大震災後に「暴れだした」久人君のその行為の根っこにあるのは、心の叫びであると受け止めている。他者とのコミュニケーションが苦手な息子にとって、そのように表現するしか、自分を表現する手立てがないのだ。震災による環境の変化を「恐れ」と受け止め、それを発露する術を知らない久人君に美由紀さんはただひたすらに「大丈夫だからね」と言うしかなかった。
「緊急事態」として状況を知った保健師からの紹介で病院を訪れたが、明確な答えはなく、そこで受けた処方箋(せん)でも効果はなく、修羅場の日々は続いた。
約1年後のある日、爆発したのは次男だった。久人君による次男や長女への他傷行為を自然な形で間に入り、受け止めてきた美由紀さんを守ろうとしたのだろう。茶の間で暴れ、美由紀さんにつかみかかる久人君に次男が襲い掛かり、首をしめようとした。
「お兄ちゃんなんていなくなればいいんだ!」
その言葉に、美由紀さんは今までにない激しい語気で次男をどなりつけた。
「殺しても何もかわらない!」
いつもと違う母の怒気に次男は押し黙った。
弟が兄をあやめようとする、家庭崩壊寸前だった。
◆海岸線
「2年間、死ぬことばかり考えていました。何度も子供の手を引いて、橋の上や海岸線に立って楽になろうと思っていました」
同じく気仙沼市本吉町内に住む光子さん(仮名)も自閉症の長男の世話に日々奔走する母親で、その苦しく重い日々の心境を明かす。「障がいを持つ子供を産んだ母親の多くがそう思ったはず」という話に、同じく周囲にいた障がいのある子供の母親たちは同時にうなずいた。
宮城県北東部に位置する気仙沼市本吉町は2009年に気仙沼市に編入されたが、気仙沼からは車で海岸沿いを走る国道45号で約1時間を要し、町民の気持ちはいまだ本吉のまま。約70%は山林で東部は太平洋に面している。三陸沿岸を南に行くと歌津港、志津川港(南三陸町)、北に行くと気仙沼港という大きな漁港があるものの、本吉町内は小規模の漁港が点在し、内陸の農業とともに、半農半漁の家が多い。
海岸線沿いを走る国道45号から内陸に入った集落が本吉の中心部。震災の被害で復旧のめどがたっていないJR気仙沼線の本吉駅から歩いて3分ほどの民家に、障がいのある子供を持つ親たちが集まっていた。
この集まりを「本吉絆つながりたい」という。本吉町内の障がいのある子供を持つ母親がメンバーで30代から80代の総勢30人。そのうち7人が被災し、夫を震災で亡くした母親が2人、母子家庭は6人。前述の美由紀さんも、光子さんも、世話役でありメンバーである。
◆風土
集まりの目標は「自立」。これは集まる前の母たちには、なかった概念でもある。
「震災を受けて、みんなの気持がひとつになった」
会長の林亮子さんは、今まで行政にたより、行政に陳情することしか知らなかった障がい者に関する諸活動を「自分たちの手でやろう」との思いから立ち上がったという。
震災後、周囲への配慮から避難所や仮設住宅に入れなかった母親たちの思いは鬱積(うっせき)していた。道路や鉄道が寸断されたことで、支援学校のスクールバスの停留所が集約され、その母親同士が自然に停留所で顔を合わすようになり、「フラッシュバック現象」やその苦労など、それぞれが抱える悩みと思いを共有した。
「福祉」の枠組みで行政に陳情しても、どうしても「老人福祉」が優先され障がい児は後回しにされる、そんな思いを誰もが抱いていた。ましてや震災を受けて、「誰もが大変だから」という控えめな気持ちも先立つ。
そして何よりも地方における「母たち」の位置づけが、自然と「母たるもの」の像の中に自分を押しこめてしまう風土が、自分たちを押し殺していたともいえる。父親は外に出て働くのが精いっぱいであり、職場の少ない地方の中の地方において、その負担も大きい。中には障がいのある子供を認めず、離婚となるケースもあり、それが母子家庭の多さにもつながっていた。
「自立」に向けて母親たちは、震災と風土という壁が立ちはだかっていたのである。(つづく)
※このルポルタージュは3回シリーズです。次回(最終回)は7月25日に掲載します。
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