迎洋一郎(むかえ・よういちろう)
1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。
タイは1997年のバーツ大暴落で大きな変革を迎えた。その最大の変化は、現地の経営者層はもとより、労働者層の勤労意識改革であった。70年代に入り、タイの自動車産業は毎年増産を重ねてきた。その結果、自動車関係の会社も従業員を増やさないと追いつかず、各社必死で優秀な人材確保に奔走。当然各社とも優秀な人材確保のために有利な条件を示し、人材獲得合戦になっていたのである。
そのため作業員はじめ、技術者、管理監督者層にいたるまで、仕事が未熟であるにもかかわらず立派な履歴書を作成し、給料の高いところを見つけては転職を繰り返していたのである。
ところが、突然大不況に見舞われ余剰人員を整理する段になると、真っ先に解雇されるのは、転職が頻繁な従業員であった。こうした状況に直面し、従業員の転職率は半減。「まじめに仕事をして今の会社に腰を落ち着けよう」という意識が、従業員の中に根付いていったのである。このことにより、タイ人による現地会社への経営参加の第一歩が踏み出されたと言っても過言ではない。
◆グリーンクラブの誕生
もう一つの変化は、自動車メーカーと部品サプライヤーの関係強化が進んだことだといえる。日系の自動車部品サプライヤーは94、95年ごろから続々とタイへ進出してきた。しかし、それ以前にタイ進出を果たした大手サプライヤーは「トヨタ会」などの組織をつくり、4~5社でゴルフコンペを行い交流の場が設けられていたのである。我々後発組は当初この「トヨタ会」への参加が認められず、蚊帳(かや)の外に置かれていた。
96年に就任されたタイトヨタ自動車の村松吉明社長(当時、後にトヨタ自動車常勤監査役)は、赴任から数カ月後の97年7月にバーツ大暴落、未曽有(みぞう) の金融危機に直面されることとなった。
私ども部品サプライヤーも当然のことながら、大変な事態となった。この金融危機への対応を相談させていただくため、豊田紡織の現地法人であるSTBテキスタイルの渡辺有樹社長(当時)、東海理化の現地法人であるタイシートベルトの馬場健社長(当時)と私の3人で村松社長を訪問した。
当時の窮状を訴えるとともに、「私ども後発組のサプライヤーはトヨタ会などで仲間外れになっており、トヨタグループ内の風通しが悪くなっている。今回の金融危機を機に、私どももトヨタ会へ参加させていただけませんか?」と恐る恐るお願いしてみた。
村松社長は即座に「トヨタ会ではなく、タイトヨタ自動車とサプライヤーの会として毎月1回定期的に交流会を開くようにしよう。ゴルフが目的ではなく、グループ内の情報交換と意思の疎通を時間外にフランクに行えるものにしたらどうだろうか」とのご提案をいただいたのである。
早速我々3人で案を練り、トヨタ自動車の1次サプライヤー十数社を集め議論のうえ、運営方法の要領を以下のように決めた。
- 会の名称を「グリーンクラブ タイ」とする。
- 会員資格は日系、タイ系を問わず原則、トヨタ自動車の1次サプライヤーの社長とする。
- 開催場所はレイクウッドCCとし、会員懇親ゴルフコンペ終了後、①新入会社の紹介とあいさつ(年間数社が加入)②タイでの自動車製造計画についてメーカー各社からの情報伝達③参加会員によるフリーディスカッション――を行う
- 会員は次の要領でタイに寄付を行う。打数がネットで80を超えた場合、1打につき100バーツの罰金を支払い、全額を「ダルニー基金」に寄付する(ダルニー基金は、経済的に恵まれないタイ東北部の子どもたちに中学の授業料として3年間に6000バーツを支援している)
- 運営事務局はタイトヨタ自動車に置く
◆さまざまな情報を速く正確に共有
このグリーンクラブによって、私たち1次サプライヤーはタイの金融危機からの回復時に多大な恩恵を受けた。例えばグリーンクラブのメンバーはプレス、ゴム、樹脂材料加工、金型、設備機械メーカーなど多種多様な業種が集まるため、一企業では限界のある各種情報を速く正確につかむことが可能になった。
また、これらの会社の間で互いに部品の作り合うことで、部品の現地調達化が日本本社の計画指示を待たず先へ先へと進んでいったのである。さらにタイトヨタ自動車からは毎月、車の売れ具合やそれに伴う生産計画の調整見込みなど直近の生情報を教えてもらえるので、各社とも自社の生産計画に機敏に反映させることも可能となった。
また、村松社長から提案があった、タイの恵まれない子どもたちに対する寄付活動は年々拡大し、今では数百人の子どもたちが中学を巣立っていったのである。そのうちの何人かは更に高校や専門学校など卒業し、我々の自動車部品メーカーに入社し活躍してくれている。
私がタイにいた90年代当時のグリーンクラブメンバーは、すでに現役をリタイアした人も多い。大半の方はすでに日本に帰られたが、日本の地で「日本グリーンクラブ」を結成し、いまだにメンバー間で旧交を温めている。また相も変わらず、日本でも「罰金」を徴収し、ダルニー基金への送金も続けている。
バーツ大暴落によって生まれたグリーンクラブにより、自動車メーカーとサプライヤーの強い絆が作られたと私は確信している。現在もタイの後輩たちが伝統を受け継ぎ、グリーンクラブを継承しつつ、公私にわたり活躍してくれていることを私は本当にありがたいと思っている。タイの自動車産業の発展を心から願う次第である。
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