記者M
新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。年間100冊を目標に「精選読書」を実行中。座右の銘は「壮志凌雲」。目下の趣味は食べ歩きウオーキング。
ふだん一般開放されている皇居東御苑には木々に覆われるように立つ平屋建ての休憩所が3カ所にあり、このうちの2カ所ではいつも天皇皇后両陛下の国内外の訪問の様子などを伝えるビデオが流されている。僕は休日、ウオーキングの途中に大手門に近い大手休憩所で休むことが多く、何種類かあるそのビデオはどれも繰り返し見ている。
見るたびにいつも目頭が熱くなるのが、いまの天皇陛下が皇太子時代の1978年、サンパウロ市内のパカエンブー競技場で行われた日本人移民70周年の記念式典にご夫妻で出席された時の日系人の熱烈な歓迎ぶりを伝えるビデオである。その数、実に8万人超。入植するためにブラジル各地に散った移民の家族らがスタンドで大歓声とともに日の丸の小旗を振って出迎えた。競技場全体が、歓喜で揺れ動いているように見える。
1908年、ブラジル移民第一船の「笠戸丸」に乗って日本から最初の正式な移民としてサントス港に着いた781人のうち、70年たったその時までに再度故国の土を踏むことができた人は数少ない。そのほとんどは、ブラジルで一旗揚げて、故郷に錦を飾ろうと意気揚々と移り住んだはずだったのに。ゆえにこの時、競技場にいた皇太子ご夫妻は、望郷の念が募る一世にとっては「日本」そのものであり、日本を知らない二世、三世にとっては「憧れの母なる国」のまさに象徴と映ったに違いない。
移民の第一陣が不安と期待が入り交じる中でサントス港に上陸した年から80年以上たった1991年、僕は南米特派員として、移民とはまったく異質の不安と期待を抱いてサンパウロに降り立った。生活の拠点となるアパートが見つかるまで、「東洋人街」と呼ばれるリベルダーデの一角にあるホテルで家族とともに3カ月ほど暮らした。
このホテルから歩いてすぐのところに、主に笠戸丸による移民によって始まるブラジルの日系人社会の変遷を物品やパネルで再現・展示した「ブラジル日本移民史料館」がある。史料館は、移民70周年の記念事業として78年にオープンしたもので、皇太子ご夫妻らが開館に立ち会った。僕はほとんど人気(ひとけ)のない史料館の中を独りめぐりながら、「日系人」という言葉の持つイメージについて何度も反すうしたことを今もはっきりと覚えている。
◇地球の反対側に孤立した移民たちの焦燥と困苦
「勝ち組」と「負け組」。いまでこそ、格差社会の一断面を表す言葉として使われる場合が多いが、元々はブラジルやハワイの日系人社会で第2次世界大戦後、日本が戦争に勝ったと信じていた人々を「勝ち組」、負けを認めていた人々を「負け組」と呼んでいたことに由来する。今と本来の意味が決定的に違うのは、格差社会における「勝ち組」「負け組」はその線引きがあいまいで、2つのグループの間にさほど深刻な確執がないのに対し、終戦後の日系人社会の「勝ち組」「負け組」は対立が殺人に発展するほど根深く、70年代初めごろまで続いたといわれている。
ブラジルへの移民を扱った本といえば、第1回芥川賞を受賞した石川達三の『蒼茫』(新潮文庫、1951年)や講談社ノンフィクション賞を受賞した高橋幸春の『蒼茫の大地』(講談社文庫、1994年)があるが、笠戸丸への乗船への経緯から「勝ち組」「負け組」の対立まで半世紀にわたるさまざまなブラジル日本人移民の足跡をたどりながら克明に描いたのが、北杜夫の『輝ける碧き空の下で』(新潮文庫、1988年)である。
ブラジルの広大な大地に自らの夢と希望を託した日本人移民。しかし彼らを待ち受けていたのは、苛酷な自然と厳しい労働だった。長い苦闘の末にようやく生活が安定し始めた矢先に起きた太平洋戦争。日本とブラジルの国交は断絶し、日本からの情報は閉ざされてしまう。「敵国人」として地球の反対側に孤立した移民たちの焦燥と困苦の異常な状況の中で戦後、「勝ち組」と「負け組」の深刻な対立が起きる――。第1部上下巻と第2部上下巻の計4冊を書いたところで、作者の北杜夫は筆を置いてしまう。作品は、未完のままだ。
◇日本や日系人社会がいま現実を綴る
翻って、改めて「日系人」という言葉の持つイメージを考えてみる。
ポルトガル語辞書Dicionario Houaissに新語として2001年に初めて登録された「decassegui(デカセギ)」という言葉は、ブラジルでは名詞または形容詞として使われており、「一般的には直接労働力として日本に一時滞在する就労者、またはその形容である」と定義されている。
言わずと知れた、日本語の「出稼ぎ」に由来する言葉だが、南米の日系人のデカセギ現象が顕在化してきた1980年代初めから、「日系人」と「デカセギ」のどちらか、あるいは両方にマイナスのイメージがあり、いまでは「日系人=(イコール)デカセギ」というイメージが定着している。
日本語に不自由な日系人男性が家族を残して単身来日し、一生懸命働いて必要な資金を得て計画通りに帰国した時代もあった。僕は1991~96年にブラジルに駐在したがその間、サンパウロのグアルリョス空港周辺では、日本での出稼ぎを終えて降り立った日系人が、腹巻きに入れて大切に持ち帰った貯金をタクシーの運転手や強盗にすべて奪われ、一瞬のうちに無一文になってしまうという悲劇が繰り返された。当時は日本がバブル景気に浮かれた時代でもある。
そして今はどうかといえば、景気停滞の長いトンネルから抜け出たという実感がなかなかわかない中で、日本で広がった日系人コミュニティーの中にも皮肉なことに格差社会が生まれ、「勝ち組」「負け組」ができてしまった。
日本人移民の歴史はある意味、日本を等身大に映し出す鏡の一つである。北杜夫が未完にしたままのこの作品の続編は、日本や日系人社会がひとりでに「いま」という進行形の現実を綴っているように思える。
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