п»ї 受賞ならずとも、走り続けることについて『ジャーナリスティックなやさしい未来』第32回 | ニュース屋台村

受賞ならずとも、走り続けることについて
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第32回

12月 12日 2014年 社会

LINEで送る
Pocket

引地達也(ひきち・たつや)

コミュニケーション基礎研究会代表。仙台市出身。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP(東京)、トリトングローブ株式会社(仙台)設立。東日本大震災直後から被災者と支援者を結ぶ活動「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。企業や人を活性化するプログラム「心技体アカデミー」主宰としても、人や企業の生きがい、働きがいを提供している。

◆壁を意識する

本稿第27回で期待を寄せた村上春樹氏のノーベル賞受賞は、今年も、ならなかった。2009年のスピーチ「壁と卵」でイスラエルによるパレスチナ政策への批判の影響だろうか。想像の域を出ないが、純粋に文学を評価してほしいと願いつつ、すでに村上春樹そのものが強い影響力を持って世界へ普遍的なメッセージを投じられるから、やはりそこには政治が動いてしまうのだろう。

石破茂・地方創生相が先日、閣議前に安倍晋三首相に、平和賞をめぐり「政治的ですね」と話しかけたことが話題になったが、純粋なサイエンス分野の研究とは違い、文学も平和も人の心の価値観が左右する賞だから、当然、それは人が為(な)す政治的な動きなのだと思う。言うまでもなく。

一方で11月、村上氏は独紙ウェルトの文学賞を受賞し、ドイツ・ベルリンでの英語によるスピーチで、ベルリンの壁崩壊25年を振り返りながら、「今も人種や宗教、不寛容、原理主義、そして欲望や不安という壁がある」と述べた。

やはり壁、である。そして壁を見据えて小説家の覚悟としてこう述べた。「私たち小説家にとって壁というのは突き破らなければならない障害だ。壁を通り抜ける自由があると感じられるような物語を私はできるかぎり書いていきたい」。世界を俯瞰(ふかん)し、「壁」を意識して、ものを書いていくことに、私の気持ちは安堵(あんど)した。日本人作家に、そのような覚悟をもっている人が少ないからである。

このように自分が偉そうに書いてしまうのも、やはり読み手として、他の読者と同じように村上氏が示すものから自分と同じ符号を感じ、それに親しみを覚えるからこそ、親戚のような顔をしてしまう。

今回の壁もそう。身近な話題だと、ギリシャが好きなこと、ジャズの趣味が一致していること、東京都渋谷区の千駄ヶ谷に身を寄せていたこと、そして走ること。韓国駐在の時に、ある村上愛好家の韓国人インテリに「あなたを見ると、ハルキの小説に出てくる人を想像してしまう」と会うたびに言われたことも、いい気になっている理由である。

叱られるのを覚悟で極端に言えば、私と村上氏の違いは文学的才能だけなのかもしれない、と思ってみたくなる。言い過ぎました。ごめんなさい。でも、それが作品への親近感ともなる。

◆下り坂、上り坂

最近では走ること、について考える。私もランナーとして毎日走る。そして村上氏も世界のどこかで走っている。村上氏はフルマラソンの大会にも、トライアスロンにも出場しているから、相当に真面目なランナーである。

そして、僕は自分に向き合う時間を走るという行為でつくり出す「瞑想(めいそう)するランナー」。大会に出ようとは思わない。あくまで、毎日自分と対話し、やがて疲労の中で体が懸命に前に進もうという本能の中で、無になる境地を模索するランナーである。

この夏から秋にかけては、自宅周辺だけではなく、仙台城址(じょうし)から八木山(やぎやま)、岩手県一ノ関の旧荘園地区、新潟の海岸沿いと駅前、岐阜県長良川沿いの墨俣城(すのまたじょう)周辺、神奈川県・相模湖周辺を走り、多くは朝の凛(りん)とした風と光に包まれながら、その土地の空気に親しんできた。

走る度にいつも思う。「走る体」があることへの感謝を。そして、考える。上り坂と下り坂について。走いている途中、上り坂も下り坂もつらい。上りの場合、足元を見れば脳は「上り」の意識が薄れ、不思議と体は疲れない。逆に下りの場合、先を見据えればどこまで下りが続くかが分かるから調整が出来て体に負担がなくなる。

いつも思う。これって人生に似ていないか。そして、それはどこからかの啓示のように心に染み渡っていく。上り坂は足元を見ながら、じっくり確実に行け。下り坂は、永遠には続かない、終わりを見据えて、体を整え、次に備えろ、と。

◆走り続ける真理

前回、村上氏を取り上げた記事に引き続き、村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』から引用する。

「走ることは僕にとって有益なエクササイズであると同時に、有効なメタファーでもあった。僕は日々走りながら、あるいはレースを積み重ねながら、達成基準のバーを少しずつ高く上げ、それをクリアすることによって、自分を高めていった。(中略)昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身だから」

作業を積み重ねることで人はその作業に自信が持てるようになる。作業に関する真理に近づくことができるし、自分の哲学が確立される。村上氏のこのような真理は、ランナーの多くがその走った時間に応じて近づける真理かもしれない。そして、この本の結びが何とも粋で心をぐっと掴(つか)まれる。

「もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う。

村上春樹

作家(そしてランナー)

1949―20※※

少なくとも最後まで歩かなかった

今のところ、それが僕の望んでいることだ。

(引用終わり)

私が感じる村上氏との符号のうち、この一節は心に染み入る一節だ。自分を凡庸(ぼんよう)としつつも、走り続けること、誰にも邪魔されず、自分と対話しながら、時に社会に接しながら、確実に自分をある位置まで引き上げ、何かを達成していく。そういう道を私も歩んでいこうと思う。

コメント

コメントを残す