引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP等設立。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。
◆訂正記事から
新聞社の訂正記事から話を展開するのはいささか気が引ける思いではあるが、3月15日付朝日新聞の訂正記事はそれ自体が大事な問題を内包しているので、まずは、訂正文をそのまま引用する。
14日付「北岡氏『侵略戦争』70年談話有識者懇で認識」の記事で、見出しのほか、本文中に北岡伸一・国際大学長が先の大戦について示した認識が「侵略戦争であった」とある部分は、「歴史学的には侵略だ」の誤りでした。懇談会の終了後、記者団の取材に応じた北岡氏は先の大戦について「私はもちろん侵略だと思っている。歴史学的には」と答えていましたが、「侵略戦争」という表現は用いませんでした。確認が不十分でした。訂正しておわびします。(以上引用終わり)
これは今年の夏に安倍晋三首相が発表する「戦後70年談話」に関する有識者会議「21世紀構想懇話会」座長代理の北岡伸一・国際大学学長の13日に行われた2回目の会合においての「侵略」に関する発言である。このニュースを他紙は「歴史学的に侵略だと思っている」(読売)、「歴史学的に侵略だ」(毎日)と北岡氏の懇談会後の記者団への説明をそのまま引用し、産経は「先の大戦を『侵略戦争』と位置づける持論を説明した」、時事は「第2次世界大戦に関し『日本は侵略した』との見解を示した」と懇話会席上での北岡氏の言動内容をそれぞれ報じた。
つまり「侵略戦争」という言葉は直接的には言わなかったし、北岡氏もその言葉には触れないというのが彼の立場であるようだ。朝日新聞の記事に対し、北岡氏が強く抗議し、またこれからも朝日新聞を批判する際の事例として挙げてきそうで、朝日新聞にとっては、北岡氏はこれからも鬼門となるかもしれない。
◆学者の立場で「侵略」
この「侵略」発言については前段がある。懇話会に先立つ9日に東京都千代田区の上智大学で行われた国際シンポジウム「戦略的広報外交を考える」で、パネリストの1人として発言した北岡氏が「侵略して悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺して誠に申し訳ないということは、日本の歴史研究者に聞けば99%そう言う。私は安倍さんに日本は侵略したと言ってほしいんですよ」と述べ、この発言を時事通信が報じたのだ。私も出席しメモをとりながら見ていて、北岡氏の侵略に関する発言に思わず体を前のめりにしてしまったほど、意外で率直な言葉であった。
しかし、それを新聞社は報じず、時事通信だけが反応した。この発言は、「学者」としての見解であり、懇談会の座長代理という立場を離れて発言していることを考慮しなければならない。これまでもそうだが、北岡氏はいつも巧妙に立場を考えて発言しているような印象がある。
このシンポジウムで北岡氏は最近、米国の日本専門家・研究家の質が下がっており、すぐに日本の政権批判をする、との内容の発言をしたところ、会場にいた米国人の日本研究者が「そんなことはない。質の高い研究者はいる」と反論した。
基本的に先進国の知識人はリベラルも多く、リベラルが存在し発言できることは成熟かつ正常な民主主義社会の形と考えれば、米国の日本専門家が保守である日本の政治を批判しているのは当然で、経済力のある大国の責任として甘受しなければいけないような気がするが、会場からの発言に北岡氏は反論した。「私の実感としてそうですよ」と、そして「今準備がないからできませんが、証拠はいくらでもある」と述べた。
ここに北岡氏の言うところの、学者は自分の論に賛同してもらいたいという「性」(さが)を見る気がした。つまり、反対意見を包み込む、もしくは受け入れるのではなく、迎撃しようというマインドである。
◆検証必要な「公人」
本稿で侵略戦争や侵略の定義について語るつもりはない。国際法に侵略に関する定義はなく、1974年に決議された国連決議も第2次世界大戦には適用されないために、これもまた専門の議論になってしまう。今回、問題として捉えたいのは、戦時中の陸軍研究で知られ、東大名誉教授でもある北岡氏と、その北岡氏の見解を伝えるメディアの動向である。
朝日新聞はいささか勇み足してしまったが、検証しなければならないという気概だけは保ち続けてほしい。北岡氏は外務省に出向し国連次席大使を務めるなど時の政権と密接に関わり、外交に関するシンクタンク機能としてだけではなく、当事者としての重責も務めてきた。第2次安倍政権の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」座長としては、集団的自衛権を憲法改正なしで行使可能の考えを推進した。
先日のシンポジウムでも「言えないこともある」との発言もあり、やはり政府に近い立場ゆえに、発言を自制する姿勢をのぞかせる。同時にそれは自らが責任ある「公人」になったことも意味する。だから、今後、日本の外交を考えるうえで北岡氏の発言や言動を監視し、検証していくメディアの役割は重責である。
北岡氏のコミュニケーションスタイルを見る限り、既存のメディアと根底の部分で親和しようという考えはなく、自らの主張を積み上げてきたファクトを信じているように見える。学者としての立場は、自らの信じる論を強固にするために邁進(まいしん)するのも構わないだろうが、公人としての北岡氏のその主張は、国民の前に晒(さら)され、検証されなければならない。
北岡氏はシンポジウムで、先の談話について、近隣諸国への謝罪を受け継ぐかどうかを焦点にしているメディアに「違和感を覚える」とし、大切なのは「謝罪」ではなく、「忘れないこと」という見解も示した。北岡氏の姿勢は言い方を変えれば、感情にとらわれない、ことかもしれない。だから、感情をぶつけようとするメディアには違和感を覚えるのだろう。
コミュニケーションの世界で言えば、この世の中のコミュニケーションは半分が意味であり、半分が感情である。だから、感情を大切に扱おうとするマスメディアと、ファクトである意味を重視する学者が相いれないのは当然。土俵が違う両者ではあるが、それぞれに検証し合える関係を保ちながら、展開していければ、それもやはり健全な自由な社会なのだと思う。そのために、メディアは委縮することなく、頑張らなければならないのだ。
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