引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP等設立。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。
◆高等教育の質の低下
文部科学省の調査によると、全国の4年制大学783校のうち約4割で高校や中学の勉強の「補修」をしていることが分かった。大学への進学率が上がることと比例するように、大学生の質の低下も指摘されていることを証明した結果である。多くの人が高等教育を受けられる平和な社会は喜ばしいが、その機会を有効に活用しているかは、課題も多い。
これまで、われわれの社会が子どもを、そして高等教育における学生の育み方を熟考し、育んできたとは言えず、教育問題の責任を行政になすりつけているようにみえるのは私だけではないはず。文部科学行政を批判するのは簡単だが、われわれが最も大事にすべきである子どもの「コミュニケーション」に関する力に注視し、この力を伸ばす教育を怠ってきたように見える。この力を身に着けないばかりに、複雑化した社会や人間関係でつまずく人は多い。
私は精神疾患者らとの個別相談で、人間関係の苦悶の中で喘(あえ)いでいる方々の実態と接すると、社会やこれまでの教育でできることがあったはず、と思えて、切ない気分になるのである。
市川伸一・東京大教授による学習に関する理論として「基礎から積み上げる学び」があり、これは「習得サイクル」と「探究サイクル」の2つのサイクルに分けられる。前者は予習と復習を繰り返すことで、知識を定着させ、後者は追究と表現を繰り返し、その探究を深め発展させていく。
これまでの日本の入試は前者の知識蓄積には「テスト対策」として適応できたが、探究サイクルには適応できていない結果であり、その象徴と指摘されるのは、日本の大学で最も難関である東京大学医学部からは、これまで1人もノーベル賞受賞者がいないのに対し、東大ほど入るのに難しくない米シカゴ大学医学部からはノーベル賞受賞者を55人輩出している。
◆動機は期待と価値の積
人の動機付けは期待と価値の積によって決まると言われる(米心理学者のアトキンソン博士)が、日本で欠けているのは、自分への期待や価値を考える時間であり、内面とのコミュニケーションや、それを外に出して語る環境が知識習得に押しつぶされてきたと言える。
つまり今、育むべきものはコミュニケーション能力であり、この能力を活(い)かして得られる論理思考であろう。質問への解答ではなく、解答に導き出すプロセスと解答(結果)から導き出す本質に近づく方法である。
以前、私たちが大切にしていた「読み」「書き」「そろばん」からトレンドは「探究」(Explore)、「共有」(Exchange)、「表現」(Express)に代わっており(発達心理学者シーモア・パパート「コンストラクショニズム理論」の3X)、大学でのAO入試の拡大や初等教育での英語導入も、その大きな流れではあるが、その中に道徳心を育む教育も組み込まれているから、少しややこしくなる。
ここにも緩やかな上意下達(じょういかたつ)の思想が流れていて、現場の教師がその通達から逸脱しないような授業に終始してしまうようで、先日、NHKテレビでも、子どもが親のお手伝いをすることを題材に道徳心を教える模様を紹介しながら、教師が「これでいいのか」と戸惑う姿が報道された。道徳の概念があいまいでもあり、この教師の戸惑いには共感し、同情してしまう。
◆開かれた質問で開け
社会はコミュニケーションでつながっているのだから、まずそこから教えるという発想にはまだ至らないらしい。道徳でも、英語でも、「コミュニケーションはできている」前提で教えようとするから、理解が広がらない。だから、「人を育むコミュニケーション」という概念が必要となってくる。
人を育むのは「気づき」である。その気づきを促すのは、徹底した「開かれた質問」が有効。イエスかノーの答えを導き出すのではなく、5W1Hの答えを導き出す質問である。開かれた質問で心を開かせ、子どもの可能性を開かせるのである。
開かれた質問に対し、答えを出すまでに時間がかかる児童・生徒もいるかもしれない。それは大人でも同じで、時間がかかっても、沈黙が続いても、私は「どうぞ考えてください」という雰囲気で接し、そして数分かかって訥々(とつとつ)として答えを話そうとする人の姿に成長をみてきた。
教育の現場で、授業の短い時間の中で、このような対応は難しいかもしれないが、教える側が根気よく開かれた質問への答えを待つことができれば、子どもたちのコミュニケーション力の素地は確実に養われると思う。
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