引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャローム所沢施設長。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。
◆報道とボランティア
今の世の中に必要なメディアを構築することを目的に、私は現在「ケアメディア」の概念化確立を目指している。大学院という研究の場と、就労移行支援事業所という実践の場に加えて、多くの見識のある人らと触れ合い、話し合い、教えを請いながら、実践として有効な「ケアメディア」を提示したいと思っている。その前提となるこれまでの話を整理したい。ケアメディアの言葉は、実は日本では検討されていない領域である。文言として登場しているのは、小玉美意子・元武蔵野大教授の著書『メジャー・ケア・シェアのメディア・コミュニケーション論』 であり、この中で小玉元教授はこう指摘する。
「メディアの役割は、ジャーナリズム論でよくいわれるような『社会的影響力の大きな出来事』『異常な出来事』を取りあげて、社会に警鐘を鳴らすことだけなのだろうか。いや、時として、人を温かく包み、励ましたり癒やしたりすることも必要であるにもかかわらず、これまでの典型的なジャーナリストたちは、それらを社会的に必要なメディアの役割として認識することが少なかったのではないか」
「認識」することで、励ましや癒やしに通じるジャーナリズムを展開できる、という考えだが、活字メディアで新聞記者として働いていた者としての実感では、記事で人を励まし、癒やすマインドは活字メディアに従事する者にとって、その役割を認識していないわけではない。現場取材で触れ合う「被害者」や「救済されるべき人」に対し、人として同情する気持ちや人によっては「救済したい」という強い意志が働き、記者としてではなく、個人として、その取材対象と「助けるための」関係を築くケースもある。
私の場合は、1995年の阪神淡路大震災、入社1年目の毎日新聞社大阪本社記者の立場でいながら、仕事に追われて人を助けることができなかった苦い経験があった。この教訓から、共同通信記者として出張先で遭遇した99年の鳥取県西部地震では初動の取材で知り合った鳥取県日野町の旅館業者との関係を築いて、半壊した旅館の再生に向けて、当時の当地の日野町長を招待し、旅館の復興セレモニーをボランティアで行った。これが、記者活動と人としての支援活動を両立させることを考え、初めて形にしたものであり、共同通信を退社した後の2011年3月11日に発生した東日本大震災では、この考えをもとにボランティアに専念し、行われた活動が、私が提唱した「小さな避難所と集落をまわるボランティア」だった。
この活動が現在、私がイメージするケアメディアの原点である。
従って、メディアやジャーナリズムに携わる人間の認識で言えば、「ケア」につながる認識はあるものの、組織として、その認識による行動を受け止める環境やマインド、文化がない、というのが現状と考える。鳥取県西部地震の際に、私が被災者の再生として旅館の再興に携わった際に、その過程をストーリー化して記事にし、配信する形で本来の記者業務として処理したのはたった1本の記事であるから、そこまでの交通費や作業効率からすれば共同通信という組織が歓迎するべき仕事ではないとの立場をとるのは必然であろう。
◆パブリック・ジャーナリズム
1990年中盤のバブル崩壊により、取材経費削減の圧力が、それまでには取材の資金などの指摘がなかった組織に「費用対効果」の概念が入り込み、組織のために、記事というアウトプットに直結する活動が歓迎され、現場の記者も会社上層部のそれら「効率的な活動」への要求を忖度(そんたく)する格好での自己規制が働いているのが大きな影響となっている。
これが記者活動の硬直化を招き、私が鳥取で行ったような人間関係の構築に時間を費やすことは嫌われてしまう風潮である。「ケア」は面倒な人と関わり、時間をかけなければいけない、という見方があるのも確かであり、これが効率化を求めるメディア活動とは相いれず、メディアに「ケア」の視点が入り込まない要因の一つとなっていると考察する。
それでは米国の場合を考えてみる。このケアの視点に近いものとして「パブリック・ジャーナリズム」もしくは「シビック・ジャーナリズム」がある。これは90年代の米国で、これまでのメディアの報道が市民の要請に十分こたえていないという様々な指摘から、報道の現場から生まれ、ジャーナリスト自身による運動として展開された取り組みである。藤田博司・元上智大教授はその概念について二つのポイントを挙げる。
「第一に、ジャーナリズムがもう少し市民や地域社会に密接な関わりを持つべきだ、と考えること。第二に、そのためにはジャーナリズムが、これまでのように傍観者的な姿勢で報道にあたるだけでなく、問題を提起し、場合によってはその解決策を見いだしていくなどの積極的な役割を果たすべきだ、と考えること―である。こうした考え方を実践に移すために、メディアは読者・視聴者代表との意見交換や地域集会を通じて市民の声を聞き、それを参考に連載記事や特集番組の形で持続的な報道に取り組む」
つまり、報道する側の一方的な作法や判断、価値観による発信情報の信頼の揺らぎに対応するために、受け手目線を重要視するのと同時に、その受け手である市民の中に入って密接な関わり合いを志向することを重視する姿勢である。
この考え方を実践する米国には、取り組みを展開できるだけの日本とは違う素地があるのも見逃せない。それはジャーナリストたちが市民の声に応えるための組織NPOなどの組織活動が市民社会に浸透していることであり、藤田元教授の別の論考での指摘によると、「アメリカでその責任を担っているのは、現場のジャーナリストや研究者が参加してつくる大小数多くの非営利団体(NPO)であり、大学や研究所の教育・研究機関である。かれらの活動に要する経費は多くの場合、参加者自身の納める会費や民間助成財団などから寄せられる助成金でまかなわれている。助成金がなければおそらくたちどころに、これらの活動の大きな部分が支障をきたすだろう」
◆マスコミと市民の距離
一方でこの社会環境は、98年に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行され、市民活動全般が活発化している日本ではあるが、ジャーナリズムに関する市民活動の動きは鈍い。メディア関連の既得権益を侵されたくない、というメディア組織の防衛意識が働いているのも背景にありそうである。藤田元教授はこの点も指摘している。
「日本にはそうしたジャーナリストや研究者の団体もほとんどなければ、ジャーナリズムの改革を助成しようとする財団もない。大きな理由は、ジャーナリストという仕事がそれ自体、自立的、普遍的な職業として捉えられず、あくまで特定のメディア企業に属する仕事として考えられがちであること、そしてフィランスロピーをめぐる風土がアメリカとまったく異なることにあるように思われる。さらに付け加えればその背景に、日本のジャーナリズム全体にアメリカほどの危機感が乏しいことがあげられるからかもしれない」
日米の違いはメディアと市民の距離であり、市民社会を構成する人々のメディアを構成し、よりよい「コスコミュニケーション」を模索しようという当事者意識である。日本において市民とマスコミの関係は藤田元教授がこの論文を書かれた2000年から状況は変わり、特に2011年の東日本大震災や14年以降の安倍晋三首相の考えを中心とした首相本人や首相の考えを忖度する首相周辺や政権与党によるメディア対応など、市民からのメディアへの視線もメディア自身の環境も変わってきている。
私がここで唱え、探究する「ケアメディア」について言えば、自殺者や精神疾患者の存在からわれわれの社会状況を踏まえ、パブリック・ジャーナリズムの概念で、メディアと市民の距離を考える必要がありそうである。自殺者や精神疾患者に向け「ケア」につながるメッセージをメディアが発するには、メディアの組織そのものと、メディアを受け止める市民側、双方の意識改革が必要であろう。米国の例は、そのヒントを示唆してくれている。
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