п»ї 三川内焼の窯元を訪ねて『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第59回 | ニュース屋台村

三川内焼の窯元を訪ねて
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第59回

12月 18日 2015年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住17年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

今年11月の日本出張を利用して、長崎県の三川内焼(みかわちやき)の窯元で「唐子(からこ)焼き」で有名な中里勝歳(なかざと・かつとし)氏のお宅にお邪魔した。平戸藩の御用窯として発展した三川内焼は平戸焼とも呼ばれる。

三川内焼を象徴する唐子絵は、かつては「献上唐子」ともいわれ、幕府・諸大名などへの献上品であった。中里さんが15代当主である平戸松山窯は、伝統的な唐子を描き続ける一方で現代にあう「創作唐子」にも取り組んでいる。平戸に旅行に行かれた方は、観光地における高級土産品として必ず目にされている品物である。

◆「鶴瓶の家族に乾杯」に出た中里勝歳さん夫妻

テレビ嫌いを自称している私であるが、実は好きなテレビ番組も幾つかある。その一つがNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」である。昨年(2014年)1月、この番組で中里氏の平戸松山窯が紹介されたが、この番組を見ていた妻が「三川内がすごく良かったわよ」と言って、私に番組の再放送を見ることを強要した。

ゲストの速水もこみちが三川内焼の窯元を訪ねて山あいの三川内町を歩くが、誰にも出会わない。しばらく歩いてある窯元をのぞくと、ようやく人に出会う。それが中里勝歳さんのご子息の奥さんである。作業場には仕事をされている方も何人かいたが皆、速水もこみちを特別扱いせず、自然体で受け入れ接している様子が何とも印象的であった。

陶器好きの妻は「いつかこの三川内に行ってみたいわね」と私に同意を求めたが、陶器にはあまり縁のない無粋な私は、気のない返事をした。むしろ私はその番組に登場していた、ゆっくりした時間の流れの中でやさしく自然体に生きている三川内の人の表情にひかれた。

それからしばらくして、この「ニュース屋台村」の執筆陣に加わっていただいている迎洋一郎さんと一緒にお酒を飲んでいると、「この前、俺の幼なじみが『鶴瓶の家族に乾杯』に出たんだ。小さい頃から仲良かったのだけど、唐子焼きという有名な陶器を作っているのだ」と言われた。私は迎さんが長崎県の出身であることは知っていたが、それが中里さんのおられる三川内であるとは全く思ってもいなかった。

「私もその番組を見ました。速水もこみちが訪れた窯元さんですよね。素晴らしい方達ですよね。実際にお会いして陶器を見てみたいです」。その場に居あわせた妻がすかさず迎さんの言葉に反応した。

「何だ、奥さんも見ておられたのか。俺は毎年、三川内に里帰りしているのだが、中里君の所に泊めてもらっているんだ。中里君は素晴らしい山荘を持っているので、今度一緒に三川内に行かないか?」

「え、本当ですか? 是非行きたい。迎さん、一緒に連れてもらっても構いませんか?」

迎さんと私の妻の間で話がどんどん進んでしまっている。面白そうな話ではあるが、「まず実現はしないだろう」と私はにやにやしながら2人の会話を聞いていた。

それから1年半。迎さんも我々夫婦を三川内に誘ったものの、本当に我々に行く気があるのか半信半疑だったようである。その後、迎さんは私の妻に会う度に「本当に三川内に行くかね」と何度も念押しをした。そして今年の夏、迎さんの里帰り計画が本格化する中で私たち夫婦の三川内以行きも真剣に検討。訪問時期は私の日本出張に合わせ11月となり、迎さん夫婦と私ども夫婦4人で中里さん宅に泊めていただくこととなった。

◆日本の有名な陶器は朝鮮からの陶工によって始まった

さて、三川内訪問の当日。東京、名古屋と別々に三川内を目指した2組は長崎県佐世保市近郊で落ち合った。迎さんの幼なじみで、元長崎銀行役員の林博幸さんが親切にも自動車を用意してくださった。

林さんの運転で迎さん夫婦と私達夫婦の4人はまず、日本の磁器発祥の地である佐賀県有田町(ありたまち)に向かった。酒井田柿右衛門などで有名な有田町は、今回の訪問の目的地である三川内町の隣町である。

林さんは、まず私達を有田東部にある泉山磁石採掘場に連れて行ってくださった。有田の街中を越え、少し山に登る途中にその場所はあった。そもそも日本の陶器は紀元前である縄文時代以前から存在したが、日本に磁器が紹介されたのは1600年ごろある。1592年から6年にわたり豊臣秀吉は朝鮮半島に出兵(文禄・慶長の役)したが、朝鮮から引き上げる際に日本各地から出征した藩主が朝鮮から多くの陶工を連れて帰ってきた。

唐津焼、萩焼、薩摩焼など、日本の有名な陶器はこうした朝鮮からの陶工によって始まった。磁器についても現在の佐賀県を治める鍋島直茂が連れ帰った陶工の李参平が有田泉山に磁器原料を発見し、白川天狗谷窯で焼かせたのが、日本最初の磁器だと言われている。

その後、酒井田柿右衛門など有名な作家を得て、有田焼は興盛を極めることになる。特に1644年中国の明王朝が滅亡し清王朝になると、中国からヨーロッパに向けての陶磁器の輸出が禁止された。この中国製陶磁器に代わるものとして、ヨーロッパで脚光を浴びたのが有田焼である。

ちなみに有田焼は伊万里に運ばれ、伊万里から「オランダ東インド会社」によってヨーロッパに輸出されたため、伊万里焼とも呼ばれる。実際に、伊万里には陶磁器の窯元は存在しない。こんな話を林さんから伺いながら、白川天狗谷の窯跡や酒井田柿右衛門窯、源右衛門窯などを訪れた。林さんは、長崎銀行の役員を退職後、現在はボランティアで三川内の観光ガイドをされているとのこと。「立て板に水」で陶磁器の解説をして頂ける。林さんのおかげで私もあっという間に陶磁器通になれそうである。

午前中を有田町で過ごした私達は、昼食をとりに三川内を目指した。有田焼や「鍋島焼」として有名となった大川内焼が鍋島藩の保護により発展したのに対し、三川内焼は平戸藩の管理下に置かれていた。ちなみに有田町や三川内町の隣町である波佐見町(はさみちょう)の波佐見焼は大村藩に属しており、三藩がそれぞれ朝鮮から陶工を連れ帰り、競い合って日本の磁器作りは発展してきたのである。

三川内焼については、平戸藩主である松浦鎮信が連れ帰った巨関(こせき)という陶工が日本に帰化し、今村姓を名乗り、当初平戸島で窯入れしたのが起源と言われている。これとは別の系譜で、朝鮮から来た女性の陶工が唐津の中里家に嫁いだ後、三川内に移り住んできた。こうした歴史から、三川内焼の窯元は今村姓もしくは中里姓の二つの系列に大別されるようになる。

三川内焼の代表的な作品は、中国の子供たち「唐子」が唐扇を持ち松の木の下で蝶と戯れている様子が、白磁の皿に青い染付で描かれているのが特徴である。描かれた唐子の数が7人の場合、将軍家・朝廷への献上品、5人唐子は大名、3人唐子は一般用と区別されていた。この他、磁器製の菊の花や葉などのパーツを一つひとつ器に装飾として貼り付ける「菊花飾細工」や、輸出先のヨーロッパで「egg shell」と呼ばれた極薄手の磁器「卵殻手」なども三川内焼の代表的な作風となるようである。

◆究めれば究めるほど一本の線が難しくなる

こうしたお話を林さんから伺いながら、中里勝歳さんの奥さんが経営する郷土料理店「泰平や」に着いた。この「泰平や」はもともと、中里さんの奥さんのサダ子さんの実家で旅籠屋(はたごや)として建てられたものとのこと。「家族に乾杯」で速水もこみちがこの店でごちそうになった「平戸寿司(すし)」を始め、私たちも数多くの郷土料理をごちそうになった。

美しい自然とゆったりとした時間の流れの中でおいしい料理を、素晴らしい三川内焼のお皿で食べるこの幸せ。林さんと迎さんのかけあい漫才に「そうだなー」と静かな笑い顔で返す中里さん。3人の幼なじみの中では時間は何十年も止まったままなのだろう。芸術家として自然と同化したような趣を持つ中里さんであるが、磁器に絵を描く際の“右から左への筆の動き”について、「この線を描くのがうまくいかんのだ」と何度もくり返し悔しそうに話されていたのがとても印象的であった。「究めれば究めるほど一本の線が難しくなる」。“真の芸術家”にしかわからない真実なのだろうと思えた。

2時間の食事があっという間に過ぎ、このあと歩いて松山窯を訪れた。私も絵付けをしてみろということになり、小皿の素焼きと絵筆をいただいたが、これが何とも難しいものであった。絵具が小皿にあっという間に吸収されてしまうため、「悩んだ筆使い」をしていると線すら描けないのである。中里さんとは全く違うレベルで、絵付けの難しさに打ちのめされてしまった。

しかし何となく自分の名前を書き付け、終わりとさせて頂いた。その後、三川内美術館や他の窯元を訪問させて頂いたあと、夕方には宿泊場所である中里さんの山荘にたどり着いた。ここは本当に山間にある一軒家という感じで、現在中里さんはこの山荘にこもり、三川内焼の絵付け作業と野菜作りの野良作業に励んでおられるとのことだった。

夕方6時半、外が暗くなり始めた頃から夜の宴会が始まった。中里さんの奥さんに盛りだくさんの料理を用意して頂いた。長崎県は北海道に次ぐ、日本で2番目に漁獲量の多い県である。刺身、煮物、焼きものと色々な種類の新鮮な魚がどんどん出されてきた。酒は長崎の酒「六十餘洲」である。これを中里さんが作られた酒器とおちょこで飲むと格別にうまい。知らない間に2升以上の酒が消えていた。まっくらやみの山間にある山荘で、私達の宴会はいつまでも続いた。

今回の三川内訪問は、私達夫婦が期待していたものをはるかに越える楽しい旅行であった。美しい自然に向き合い、真剣に陶磁器作りに励む三川内の人々との心温まるお付き合い。東京に戻って中里さんの作られた酒器とおちょこで、妻とお酒を飲んでみた。あの至福の時が、我々2人のもとに戻ってきた。

唐子焼きの皿=筆者撮影、長崎県佐世保市三川内町

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