小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住18年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏
タイで18年も生活をしていると、各種セミナーの講演依頼が舞い込んでくる。「タイの企業進出」「タイの政治と経済」などとともに講演依頼のテーマが多いのが「タイの歴史と文化」である。私はこの講演の中でタイの歴史・文化・風土を説明しながら、これらに育まれたタイ人の性格について説明をする。最後にタイ人と付き合う上で大事な要素として「タイ人と同じ目線に立ち、保護者の側に立つ」ことをすすめている(ニュース屋台村2013年9月6日拙稿「赴任した国を好きになる努力をする」をご参照ください)。
具体的な実践例としては、個人のポケットマネーでタイ人を食事に連れていくこととタイ人の結婚式・葬式には必ず出席することが重要である。ということでこのほど、私が働くバンコック銀行日系企業部の元課長で現在、ハジャイ法人部の副支店長として働くナタワット君の結婚式に出席してきた。
◆日系企業部を大きくしてくれた立役者の一人
せっかくなのでナタワット君の経歴を簡単に紹介させて頂く。ナタワット君はタイ南部ソンクラー県のソンクラー市に軍人の子として生まれ、ソンクラー大学を卒業後、隣町であるハジャイ市の自動車ディーラーを勤めたあと、2004 年に私共バンコック銀行に転職してきた。
バンコック銀行の採用試験の際には英語もあまり話せなかったため、日系企業部での勤務については本人が辞退したが、真面目で頑張り屋の性格であったことから、あえて日系企業部で採用することにした。
ナタワット君はその期待に応えてくれて、バンコック銀行で働きながら英語学校や夜間大学の大学院コースを選択。見事にタイで最難関のチュラロンコン大学の修士課程を修了している。
日本からのお客様によく「笑い話」として紹介している話であるが、バンコック銀行日系企業部総勢80人の中で最も学歴が低いのは日本人である。タイ人部員はほぼ全員大学院の修士課程を修了している。ちなみに私の秘書もチュラロンコン大学の大学院卒である。
さてナタワット君に話を戻すと、彼は英語のハンディキャップもすぐに克服し、大手取引先との銀行取引も十分にこなした。こうしたことから、3年後には彼を新規チームの要員に登用し、工業団地にある日系企業に対して「飛び込み営業」をさせた。彼の真面目で誠実な人柄は顧客からの信頼を得て、またこうした成功体験が彼をより強くしていった。
経験は人間の成長の糧である。彼はまた若手部員の鑑(かがみ)となり、皆から慕われた。12年に課長に昇進した後、私は彼を自動車部課長に転出させたが、本人の強い希望で、14年に生まれ故郷であるソンクラー県のハジャイ支店に転勤していった。
私のもとで一生懸命に働いてくれて、日系企業部を大きくしてくれた立役者の一人であるナタワット君の結婚式である。木曜日の平日午後6時からソンクラーで行われる結婚式であるが、私は出席しないわけにはいかない。
木曜日の午前中に銀行で仕事をした後、私は妻と共にドンムワン空港から1時間半かけてハジャイ空港に下り立った。私と共に3人の日系企業部員が同行したが、ハジャイ空港についてびっくりした。私の知った顔が大勢集まっているのである。日系企業部の部員だけでも12人が結婚式に参加するとのことであり、それ以外にバンコック銀行を辞めて他行に移っていた3人も参加するというのである。私達の部署はもとから結束が固いので有名であるが、これだけ人が集まるのは、ナタワット君の人望のなせるわざであろう。
◆紛争の背景に利権争いの臭い
私はタイ在住18年になるが、タイ南部には足を踏み入れたことはない。ということで、結婚式までの短い時間を利用し、タイ南部最大の町であるハジャイ市を自動車の中から見学した。
タイ南部では長らく仏教徒とイスラム教徒の間で紛争・テロが続き、危険地帯であると言われている。今回、このタイ南部に足を踏み入れるにあたって、初めてこのタイ南部の問題を調べてみた。
タイ南部で紛争が起こっている地域は、今回訪れたソンクラー県の隣県であるバッタニー県、ヤラー県、ナラティワート県である。この3県にソンクラー県の一部を加えた地域は、14世紀から19世紀にかけてマレー人による「パタニ王国」という部族国家が存在した。この地は13世紀半ばには、東南アジアの中では、一早くイスラム化され、1511年にマラッカ王国がポルトガルによって滅ぼされると、パタニ王国はイスラム貿易の寄港地として栄えることになった。
しかし一方で、パタニ王国はタイのアユタヤ王朝の属国であり、度々アユタヤ王朝に反旗を翻したが、この討伐にタイ王国から派遣されたのが「山田長政」である。20世紀になると、マレー半島はイギリスの植民地になっていたが、1909年の英・シャム条約により、タイと英領マラヤ国に国境がしかれ、現在の形でこの地域はタイ国に組み込まれた。
この地域はもともと民族も宗教も異なり、長い間タイ国からの独立を求めてきたが、1980年以降はタイ中央政府の懐柔政策により分離独立運動は下火になっていった。ところが2001年タクシンが首相になると、状況が一変する。それまで陸軍中心に統治を行ってきたこの地の治安維持権限をタクシンの出身母体である警察に委譲。更に2003年にタクシン首相が強烈に推し進めた「麻薬撲滅キャンペーン」でこの地域では約2500人が当局によって殺害され、事態は一挙に悪化したのである。
04年以降15年までの紛争による死者数は6000人を超えているようである(公式統計はない)。しかし現在の紛争が単純に民族や宗教に起因すると考えるのは間違いのようである。なぜならば、同一民族でも、また同一宗教であっても、テロは行われているのである。
一方でこの地域の紛争は、バンコクなど他地域にはほとんど飛び火していない。タイの友人達に聞いても、現在の紛争・テロの本質が何なのかは判然としない。どうもこの地域に存在する麻薬・石油の密輸や買春にからむ利権争いの臭いがするのである。
問題をややこしくしているのは、タイ最大のマフィア組織であるともやゆされるタイの軍隊や警察がこれらの利権地域の統治に直接乗り出していることである。この地域の統治に関わる軍隊の予算は全く公表されていない。日本でわかりやすく説明されている「民主主義対テロ」や「イスラム対反イスラム」のような単純な図式は通用しないようである。現に紛争地域に足を踏み入れた友人に聞くと、その地域でオートバイに乗る際はヘルメットとマスクは取り除き、顔が見えるようにしなければならないと言う。あらかじめテロで狙われる人は特定されているのである。一方で、紛争地域を離れるとテロの危険性は激減する。ハジャイの町並みも他のタイの地方都市と何の違いもないのである。
◆タイ語による祝辞で緊張
さて、ナタワット君の結婚式に戻ろう。結婚披露宴はソンクラー市外のリゾート海岸に面するホテルの宴会場で催された。近年ではタイの結婚式も大半はホテルで行われるようになってきた。
15年程前に田舎の自宅で行われる結婚式に招かれたことがあったが、その地方の名家であり、自宅に500人も招き、庭にはステージを設けられ、1日中宴会が開かれた。最近でも地方の結婚式に招待されるが、いずれもホテルで行われるようになった。
タイのホテルの結婚式は立食形式と着席形式がほぼ半々であり、着席方式は10人程のテーブルに座り中華料理のコースがふるまわれる。ナタワット君の結婚式はこの着席方式であるが、800人の参加者という盛大なものである。
タイの結婚式の最大のイベントの1つは出席者達との写真撮影である。会場には長蛇の列が並び、参加者一組ずつと写真が撮られる。ナタワット君の披露宴は夕方6時開宴となっていたが、結局新郎・新婦が参加者達との写真を撮り終え、会場に入場したのは午後7時半過ぎであった。この間参加者達は、中華料理を食べ始め、新郎・新婦が作成した幸福いっぱいのビデオを1時間ぐらい見るのである。タイ人が写真好きなのもわかる気がする。この日のために写真をたくさんとっておかなければならないのである。
さて新郎・新婦が入場しステージに立つと、主賓のあいさつや乾杯が始まる。人によって異なるが、この主賓のあいさつも3人から5人ぐらいまである。ナタワット君の結婚式では、お父様の上司であり元軍隊の方と当地の判事の方があいさつされ、3人目は私である。
当初は英語での祝辞を用意していたが、さすがに地方に来ると英語がわかる人が少ないと考え、タイ語のスピーチに変更した。しかし恥ずかしながら、タイに18年もいて、タイ語には全く自信がない。バンコック銀行でも内部の会議は当然タイ語で行われ、私もこれらに参加するが、内容は理解出来ても、私自身は英語で発言をする。タイ語には日本語にない母音や子音同士が組み合わさった単語があり、更には「五声」と呼ばれる発音のイントネーションよって意味が変わる。
日本人と接し慣れているタイ人は、私のタイ語を理解してくれるが、タイの地方に来てしまえば、そんなことは期待できない。そんな状況でのタイ語のスピーチである。普段講演や音楽演奏などでステージにたっても緊張しない私であるが、今回はタイ語に自信がないため大変緊張した。
ステージに上がると「日本人が何しに来たのだろう?」といった目で800人の人達が一斉にこちらに注目する。「ここまで来たら腹をくくろう」と思い、「サワディークラップ(こんにちわ)」の一言を発して落ちついた。それからはナタワット君の経歴や仕事振り、新婦との出会いなど10分弱ぐらい話したであろうか? 祝辞を終えて席に戻ると「2つの単語の発音が不明瞭だったが、95%は完ぺきだった」という同僚の評価。ナタワット君の結婚式をぶちこわさずに済んだという安心感でほっとした。
結婚披露宴は午後8時半にお開きとなったが、その後バンコック銀行関係者15人ほど連れだってホテルのクラブに移動して皆で深夜まで飲んだ。途中、新郎・新婦も参加した。もちろん私のおごりである。タイ人との良好な付き合い関係を構築するためには、こうしたポケットマネーによる食事の時間は最も重要な要素の1つである。こうした同僚、部下と共有する時間を長く持てることが、私達の強い結束力の基盤のである。
ナタワット君おめでとう。そしてこうした楽しい時間をくれてありがとう。
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