п»ї 理想と必要な現実的対応とのギャップ 『時事英語―ご存知でしたか?世界ではこんなことが話題』第23回 | ニュース屋台村

理想と必要な現実的対応とのギャップ
『時事英語―ご存知でしたか?世界ではこんなことが話題』第23回

10月 07日 2016年 文化

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SurroundedByDike(サラウンディッド・バイ・ダイク)

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 勤務、研修を含め米英滞在17年におよぶ帰国子女ならぬ帰国団塊ど真ん中。銀行定年退職後、外資系法務、広報を経て現在証券会社で英文広報、社員の英語研修を手伝う。休日はせめて足腰だけはと、ジム通いと丹沢、奥多摩の低山登山を心掛ける。

今回は、英誌エコノミスト10月1日号(印刷版)の常設コラム「Charlemagne(シャルルマーニュ)」で取り上げられたテーマについて紹介したい。

見出しは「A tale of two ethics(二つの倫理の物語)」。小見出しは「Why many Germans think impractical idealism is immoral(なぜ、多くのドイツ人が実行不可能な理想主義を道徳に反すると考えるのか)」。以下、抄訳である。

◆「信念の倫理」と「責任の倫理」

「信念の倫理」および「責任の倫理」という用語は、大概の英語圏の人々にはほとんど用がない。ところがドイツ語でのこれら言葉はそれぞれ、「Gesinnungsethik」 と「Verantwortungsethik」と表され、ドイツではどちらも普段からよく使われる、常備品的な言葉である。

学識者と称される人たちはテレビのトークショーに出ていてもそれらの用語をよそ行きの特別な語彙(ごい)としてでなく気軽に使う。夕食パーティーの席において、もてなす側の主人が出席者の会話をスタートさせる着火剤として使う言葉でもある。いたるところで繰り広げられる、政治をめぐる理想主義と現実主義の論争を引き出すことを狙ってのことである。

しかし、社会学者で世論調査に関わるマンフレッド・ギュルナーは、それらが「非常にドイツ人的で」特別な道徳的緊張を強いる言葉であるという。ユーロから難民についてまでいかなるテーマにせよ、ドイツ政治を理解しようとする者ならその二つの用語をよく把握しておくことは役に立つ。

問題の用語は、社会学者のマックス・ウェーバーが1919年1月、ミュンヘンの書店で左翼学生の一団を前に行った演説で使ったのが起源とされる。当時、ドイツは第1次大戦に敗戦したばかりであった。カイザー(ドイツ皇帝ウィルヘルム2世)はすでに退位しており、国は革命の苦しみの渦中にあり、そしてミュンヘンはほどなく短命に終わった「バイエルンソビエト共和国」の首都になるところであった。

わずか8枚のメモカードを手にウェーバーは、のちに政治学の極めつけの教科書になることとなる講演をぶったのである(『職業としての政治』の英語版は第2次大戦後になって初めて出版された)。講演は広範に歴史に分け入った内容ではあったがその主たる目的は、彼を前に座っていた聴衆を含め、新ドイツの行く末をめぐって論争する信奉者たちを惹(ひ)きつけていたユートピアロマン主義への熱狂を鎮めようとすることであった。

ウェーバーはこれら二つの倫理の間の深淵(しんえん)な対立について述べたのである。これらの信念を奉ずる者たちは自分たちの政策が現実の世の中にもたらすかもしれない結果がどうであれ、自らの道徳的純粋性を貫徹することを主に狙ったのである。すなわち、「善良な意図に基づく行動がもし悪い結果になったとしたら、自分の視点からは、その責任は自分ではなく世間の、あるいは他の人々の愚かさ、とかそのように仕向けた神の意志にある」と考えるのである。

これに対し、責任の(倫理)に導かれる者たちは「普通の人々が抱える至らなさをきちんと考慮する……人が善良さとか完璧さを備えていると想定する権利さえも責任倫理派は、有していない」。この種の政治家はもともと、自分が意図したわけでもない行動の顛末(てんまつ)さえも含めたあらゆる結果に対して応えようとする。ウェーバーはその考えに疑うことなく共感した。信念倫理を奉ずる学者の「10人中9人までが無駄口たたきである」と論じた。

こんにちに支配的な考えは、ウェーバーのそれのように「ドイツには信念倫理信奉者が多すぎる」と、ウルフガング・ノバックは言う。彼はゲアハルト・シュレーダーが首相であった時にアドバイザーとして仕えた人物である。戦後、ドイツ人が度を越えた道徳的姿勢を示すことで彼ら国家が生み出したナチスのしたことに対する贖罪(しょくざい)に熱心になることがかえってその傾向をひどくしている。一般的に、信念の倫理にこだわるタイプは左派とプロテスタントに広く見られ、保守派とカトリックの間ではやや少ない、とギュルナー氏は述べる。

自らを社会正義のための改革運動家とみなす社会民主主義者たちは、このように彼らが実際に責任を負うはめにならないよう、「統治できないだけでなく、それをしたくもない」と思っているようにしばしば見受けられる、とギュルナー氏は言う。これはドイツでの1949年以来の政権運営は、ドイツキリスト教民主同盟輩出の首相による政権が累計47年であるのに対し、ドイツ社会民主党政権はわずか20年に過ぎない理由を物語っているのかも知れない。

一方、多くの、ドイツで一番声高な平和主義者たちはルター派(プロテスタント最大教派)である。その教会の前議長であったマルゴート・ケースマン女史はドイツが全く軍備を持たないことが夢であるとしている。彼女は大量虐殺を防ぐ、あるいはやめさせるために使う目的の武力使用をも否認している。

しかしながら、信念の倫理は、中道右派にも流れている。そしてその中道右派は1950年代以来、国家の枠組みを超えた存在になることを標榜(ひょうぼう)し、国の主権とともにその背負った罪を消滅させる道自体の完成を目的として追い続けてきたプロジェクトである、全ヨーロッパ的課題に向かい進んできたのである。その過程で、ドイツ国民はほかのヨーロッパ人たちがそのゴールを決して共有しなかった事実に対し、わざと知らないふりをしてきた。ユーロ危機が突発するやいなや多くの保守派たちが信念倫理にもとづいて救済に反対した、と何かと物議をかもす有識者(元ドイツ連銀理事を経た政治家)であるティロ・ザラツィン氏は論じる。反対者たちは危機に瀕(ひん)しているルール違反国家を生来の悪者と非難することを好んだ。――そしてその非難が彼らの通貨圏を破たんにさらす代価を支払う結果さえもたらした。

責任倫理のもとではそのような(信念倫理信奉者たちの)姿勢は実際、非現実的のみならず間違っており、うまくいかないことは道徳的ではありえないと信じる。ドイツを治める人たちはほとんどこの陣営に属している。1980年代、何百万ものドイツ人はNATO(北大西洋条約機構)の核兵器近代化に反対してデモ行進した。しかし当時の首相ヘルムート・シュミットは抑止力という厳しい論理を受け入れてミサイル配置を受忍した(当時、彼の所属政党のドイツ民主社会党の同僚たちが彼を遇したのは主に蔑視を以てであった)。 ユーロ危機に際しては、アンゲラ・メルケルは、通貨圏分裂を防ぐためにしぶしぶ救済に同意した。(続く)

◆忘我の歓喜

それはメルケル夫人による、2015年9月4日のドイツ国境の対難民歴史的解放を著しく注目を浴びるものにした。「彼女は、信念の倫理でもって駆け抜けた」と、哲学の教授で移民と道徳をテーマにする著作者のコンラート・オットは述べる。彼女のその際の処断は一般のドイツ人が難民の支援を自主的に申し出、メディア各紙が国の人道的垂範を褒めはやす高揚した「歓迎文化」の動きと平仄(ひょうそく)をあわせるものであった。メルケル夫人は、今もその方針を崩してはいないように、深刻に救済を要する難民の受け入れ数限度を示すことを拒んだ。

しかし、責任倫理信奉者(メルケル夫人自身が通常それに属する)たちが予測した通り、雰囲気はじきに変わった。他のヨーロッパ人たちは、ドイツのGesinnungsethik(信念の倫理)の裏側としての「道徳帝国主義」を非難した。そして多くのドイツ人があまりに過大に社会に求められていると感じた。ある人々は、ウェーバーなら驚くことがなかったような事の成り行きの渦中で外国人を嫌うようになった。

昨年の出来事は、このようにメルケル夫人が自身の信念を裏切ることなく責任倫理信奉に回帰しようとする試みである、とみなすことができる。それは、ますます権威をかざす度合いを強めているが、移民の流入およびほかの道徳的妥協を減らすために協力が欲しい相手であるトルコとの交渉に際し、言いたいことを我慢して口を閉ざしていることをも含んでいる。マックス・ウェーバーなら彼女の抱えるこのジレンマを格別興味深く捉えたであろう。彼は(その著作で)述べた。「責任倫理信奉者であっても時には『今、自分はほかにもうやりようがないところにいる』と言わざるを得ない局面に至ることがある。それは本当の人間らしさであり、感動させることだ」と。(以上、抄訳終わり)

◆倫理(ethic)と道徳(moral)

ドイツ人およびドイツという国のヨーロッパにおける特殊性をアングロ・アメリカンの視点から突き放し、かなりの皮肉を込めて怜悧(れいり)に観察している内容と読めた。それと同時に、日本の社会、政治においても類似の、理想と、必要な現実的対応とのギャップは大きいと思える。そしてその原因が過去の歴史から引きずっている点でも似ている。もっと、ドイツのこと、ヨーロッパのことを知らねばと思う。

なお、英語原文中に、ethicsとmoralという言葉が出てくる。文の内容に重要なカギとなる言葉なので深く文意を掘り下げ、通常の訳語にこだわらずその本当に意味するところを正確に訳出したいところだが、この種のトピックの読み込みに必要とされる専門語彙の正確な理解には難しいところがある。

内容が抽象的に高度になればなるほど日本語に変換するには専門家に確認するプロセスを経ることなく普通の辞書レベルの訳出では意味がしっくりこない、と感じることが多々ある。また、原文作成者はこちらが考えるほど厳密に考えていないと思われる文章にも出合う。今回、せめて心がけたのは、原文での使い分けにそれぞれ対応する日本語の倫理(ethic)と道徳(moral)を忠実にあてることした。

※今回紹介した英文記事へのリンク
http://www.economist.com/news/europe/21707959-why-many-germans-think-impractical-idealism-immoral-tale-two-ethics

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