引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括。ケアメディア推進プロジェクト代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など経て現職。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。
◆私たちの「描き方」
精神障がい者をメディアが描くことは難しい。表面化する「怠惰」「狂気」のような所動作はひとつの最悪の結果であり、そこまでに至る目に見えない葛藤こそが、障がい者の戦いであり、悩みだから、それを表現する方法は見当たらない。
特に「心」の問題は医師でさえ、判断が分かれる未解明の部分も多い。メディアがどんな権威をもって精神障がい者を描くかは、媒体としてのメディアのそれぞれの挑戦でもあるが、どう描くかについては、その国や社会の一般的な認識が大きく左右する。特に映画作品については、ある程度の時間をかけて吟味し練り上げられ、形作られた結果としての作品であるから、より精神障がい者(もしくはそれにまつわる障がいのある方々)を取り巻く社会風土が浮かび上がってくる。今回は各国の「障がい者」を題材にした作品を見て、その違いを考えてみたい。結論から言うと、日本は日本なりの内省的な問いかけに、障がいに向けての誠実さを示しているようである。
対象映画は「17歳のカルテ」(米国)、「人生、ここにあり」(イタリア)、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」(スウェーデン)、「オアシス」(韓国)、「あん」(日本)の5作品で、ストレートに精神障がい者を題材にしているのは、「17歳のカルテ」「人生、ここにあり」で、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」は今でいう発達障がいの可能性のある子どもの物語で、「オアシス」は、病名などはついていないが、一般社会に入れない疎外された精神性を持つ男、日本映画の「あん」は東京都清瀬市の施設に入所する障がい者の女性が主人公である。まずはそれぞれのストーリーを概説する。
◇人生ここにあり(2001年、イタリア)
イタリアは1978年に精神病患者を無期限に収容することを禁止する精神病院廃絶法が制定され、患者は病院ではなく、地域の精神保健機関で予防や治療をしながら地域社会との共存を目指す体制となった。作品はこの渦中での実話を実在のグループホームをモデルに映画化した。
舞台は1983年のミラノで、労働組合員のネッロは、強い正義感のために左遷され、異動先が廃止された精神病院から移されたグループホームであり、元患者たちで構成された協同組合であった。無気力に日々過ごす元患者たちを「改革」しようと、全員で物事を決める会議を開き、自治権を植え付け、さらに自分たちの能力を生かして社会に関わり、収入を得ようと、木材を使っての「モザイク貼り」事業を立ち上げ、奮闘する物語である。
社会から隔絶された場所から、仕事を通じて社会に進出する疾患者だが、社会の無理解と奮闘し、中には傷つく人も。
「やればできる」のか、という問題を突きつけられる内容だが、イタリアの「バザリア法」の評価を考える上で、多くの示唆を与えてくれる作品である。この作品の題材でもある法律については後述する。
◇17歳のカルテ(2000年、米、原題:Girl, Interrupted)
1967年の米国で、自殺未遂をしたことから精神療養施設に入所させられた作家を夢見る17歳の女の子、スザンナ・ケイセン。2回の入院歴のある彼女自身の回想録をもとに映画化された。「ボーダーライン・ディスオーダー(境界性人格障がい)」と診断された彼女は不安に苛(さいな)まれながら、病院で出会った患者の女性たちとの交流で自分自身を取り戻す道を見つけていく。この中の1人が退廃的かつ破壊的な考えを持ち、病院に反発し脱走を繰り返すリサであり、彼女の「狂気」に触れれば触れるほど、自分が正常になっていく中で、スザンナは文字で他者を表現する「秘密のノート」を書くことによってレリジェンスしていく。
退院が決まったスザンナは、リサに責められ、スザンナはこう絶叫する。「あんたはもう死んでいる! だから誰も押さない。なぜならあなたは死んでいるから。あんたの心は冷え切っている。だからここへ戻る。自由どころか―ここでなきゃ生きられない。哀れね」
この言葉は希望である。この映画は、なぜ少女たちが狂気になったのか、という答え探しを求めていない。日常の中でも心の病は誰でもある、それは自分の人生を見つけていく過程の一つかもしれない、というメッセージを残しているような不思議な感覚の映画である。
◇マイライフ・アズ・ア・ドッグ(1988年、スウェーデン)
メディアによって伝わるニュース、それは多くが不幸で、自分はそれよりもましだと考える。ソ連(当時)の人工衛星スプートニクに乗せられたライカ犬はやがて餓死してしまう哀れな存在で、主人公のイングマル少年はそれが不憫(ふびん)であると嘆きながら、自分は「まし」だと確かめている。その彼は、母親の病気が悪化したことから田舎の叔父に預けられ、男の子のふりをしている女の子と仲良くなり、毎日を楽しく過ごしながら、風変わりな村民との交流が温かい視点で描かれている。
思春期の子供が地方のコミュニティにある性差や年代差、子ども、大人、「精神障がい」が分け隔てながら、しかし交わっていくさま、すべてを包み込む社会を見るときに、人が織りなす社会の姿について考えさせられる。
これは1950年代のスウェーデンの田舎を舞台にした作品で、主人公に「障がい」の事実はないが、発達障がいの可能性と、村人のひとりに明らかに疾患者と思われる住民が登場することから、これも社会の一部として障がいが描かれているところが興味深い。
◇オアシス(2004年、韓国)
兄の身代わりで交通事故の過失致死罪で服役していたジョンドウは2年6か月ぶりに出所したが、家族はいなくなっていた。社会人として何をやってもまともに勤まらないジョンドウは明らかに家族からも社会からも見放された存在。自分勝手の行動は何らかの社会不適合性を伴う障がいの可能性があるものの、映画では明確な説明はない。
ストーリーは、死亡させた被害者の家族におわびに行くと、この家族は引っ越しの最中。そこにコンジュという重度の脳性マヒの女性がいた。兄夫婦は、二度と来るなとジョンドウを追い払うのだが、実は兄夫婦の引っ越し先は、コンジュ名義で申し込んだ障がい者家族のための公営マンション。コンジュには自立の機会として、これまでの古びたマンションに一人で暮らさせるのだが、心配になったジョンドウが花束を抱えて彼女の家を再び訪れ、紆余曲折(うよきょくせつ)しながらも、社会から疎外された2人は親密になっていくのである。
親密にある2人の空想シーンがある。ここで2人は普通の恋人として交じり合い、それまで、脳性マヒで体がこわばり、表情もひきつったままの彼女が、障がいの無い状態で車いすから立ち上がるのである。突然に「正常」になる衝撃は映画のクライマックスでもある。同時に今まで私は「何を見ていたのか」との問いを突き付けられる。
韓国社会の光と影を同時に見せられるようなこの作品に、私は韓国という国のダイナミズムを感じてしまう。
◇あん(2015年、日本)
縁あってどら焼き屋「どら春」の雇われ店長として単調な日々をこなしていた千太郎のもとに、その店の求人募集の貼り紙をみて、働くことを懇願する一人の老女で元ハンセン病患者の徳江が現れ、どらやきの粒あん作りを任せることになる。徳江の作った粒あんはあまりにおいしく、みるみるうちに店は繁盛。しかし病気に関する心ないうわさにより徳江は店をやめることになり、やがて死期が訪れる。
舞台は、桜並木の街路樹が美しい西武線沿いの住宅地の一角。徳江は元ハンセン病患者の入所施設、国立療養所多磨全生園(東京都東村山市)で暮らしていた。東京都内にありながら雑木林、樹木に囲まれて自然豊かな場所であるが、それはかつての「隔離政策」の名残り。映画は、ハンセン病への過去の差別と現在に続く偏見を描きながら、自然とのふれあいで浄化しようとする人の「力」を静かに訴えているようで、それが「障がい」がなくてもあっても、普遍的な試練でもあるあのように訴えかける。
公式ホームページのキャッチコピーは、「たくさんの涙を超えて、生きていく意味を問いかける 」 とし、映画のクライマックスで徳江が語りかける言葉である「私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。だとすれば、何かになれなくても、私達には生きる意味があるのよ。」 を強調する。
この差別への表現は日本特有の婉曲(えんきょく)的であるが、それが日本人の心になじむゆえの、作品としての仕上がりなのだろう。重要なポイントは自然との調和、回復しようとする心、そしてつながろうとする意志の普遍性、であり、それは日本独特の雰囲気を帯びている。(※〈下〉に続く)
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■精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
http://psycure.jp/column/8/
■ケアメディア推進プロジェクト
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■引地達也のブログ
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