引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括。ケアメディア推進プロジェクト代表。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般社団法人日本不動産仲裁機構上席研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など経て現職。
◆現実的な「戦争」
北朝鮮の挑発行為に対して「戦争」が現実味を帯びた未来として語られるようになった。いつの間にか、という感覚の中で海上自衛隊が米国の空母の護衛につき、その任務の支援を行っている。2001年の米中枢同時テロを受けての米軍主導のアフガニスタン攻撃の際、海上自衛隊はインド洋で米軍への給油活動をしたこともあったが、今回は同じアジアの海域で朝鮮半島をめぐる問題の対処として位置づけられているから、「私たちを守るため」という雰囲気を醸し出しながら、何となくの戦いがすでに始まっているのかもしれない。
日清戦争、日露戦争、そして日中戦争から太平洋戦争まで、どの戦争の歴史は庶民にとっては何となく始まった感覚が伝えられているから、多くの方が指摘しているように、今は戦後ではなく、戦争以前、ということである。
日常が突然、戦争の世になることは、最近ではシリア内戦やウクライナなどでも知っているはずだが、それは遠く欧州や中東の話だった。今は隣国の出来事である。日常に入り込んだ戦争に私たちは抗う術(すべ)はないから、今から考えなければならない。
日清、日露、日中、太平洋戦争も世論の多くは戦うことを拒否しなかった。権力により世論は作られたにせよ、大きな抵抗は消された。例えば、内村鑑三が日露戦争に反対し萬朝報(明治・大正期の日本の有力日刊紙)を辞したのは事件となったが、それが潮流を変えることにはならなかった。そして、今、身を挺(てい)して警告を発する人さえいない。
それは悲しい。となれば市井の方々が声をあげるしかない。そんな思いでいたら、ある障がい者が「話をしたい」と私のもとにやってきた。
◆憎悪のマグマ
「反対を通り越して、憎悪のマグマです」
そう切り出したその男性。障がい者はマイノリティーの立場で、政策に取り残される疎外感に抗い、その立場を主張するイメージが定着しているが、実は「障がい者も権力にすがらなければ生きていけない人もいるから、声を上げない、または権力に密着する人も多いのです」と言う。
特に安倍晋三首相は敵と味方を明確に分けて、世論を二分して巧みに反対意見の牙を抜いていくことに長けている。だからいつの間にか障がい者の「仲間がいなくなった」と嘆く。だから、「マグマになるしかない」と言う。最近の政権による次から次へと繰り出される「弱い立場」を愚弄(ぐろう)するかのような振る舞いから、なお更に怒りは蓄積するばかり。安保法制や対テロ法案で障がい者が感じるのは、「命を守る」国、ではなく、「命が守られない」国に対する不安であろう。
例えば車いすの男性が、けんかに巻き込まれた場合、男性はその身体的ハンディゆえに苦戦を強いられる。足が不自由であれば、逃げるのにも苦労がいるだろう。このけんかにおいて、男性はやはり逃がしてもらうことを考えるべきで、けんかの中で男性が逃げることを許されるには、その仲間たちが、その男性を優先的に助けるという文化がなければならない。不自由な状態にある方々の命を守る意志は、制度や仕組みではなくフィロソフィーの問題である。命を守る、という高い倫理観。この考えを突き詰めれば、戦いの回避に力が注がれるはずだ。
◆国民は守られるか
今、日本はその高貴な倫理観を持ち合わせて国民を守る、とは到底思えず、むしろ、弱者を顧みず自分の戦いを優先し、マッチョな姿で国際社会から尊敬されたいという欲望に満ちているように思う。
その結果として、守られる、という確証よりも、守られない、という可能性が広がっているのではないだろうか。
この論の展開は通常、左右のイデオロギー対立へと誘導されてしまうのだが、政権が繰り出すそれぞれの法案への違和感はイデオロギーという政治思想や仕組みの問題ではなく、命をどのように大切にするか、という倫理観の問題だ。
今の政権が繰り出す法案も国会での答弁もすべては、人を大切にしているようには思えない。だからいまだに噴火しないマグマとなって、今その時に向けてエネルギーをため込んでいるのだ。
精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
http://psycure.jp/column/8/
■ケアメディア推進プロジェクト
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■引地達也のブログ
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