п»ї 「共謀罪」をメディアは伝えられないのか、市民が受け止められないのか 『ジャーナリスティックなやさしい未来』第110回  | ニュース屋台村

「共謀罪」をメディアは伝えられないのか、市民が受け止められないのか
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第110回 

5月 30日 2017年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

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コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括。ケアメディア推進プロジェクト代表。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般社団法人日本不動産仲裁機構上席研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など経て現職。

◆誰の問題か

朝日新聞や毎日新聞など反対する立場のマスメディアの表現を借りれば「『共謀罪』の趣旨を含む組織的犯罪処罰法改正案」が、衆議院本会議で可決した。法案を実施するに向けての内容の脆弱(ぜいじゃく)さや国会審議の不十分さなど様々な不備を筆者も感じてはいるが、イデオロギーで対応すると潰されてしまいそうだから、慎重に、そして純粋に国民にとって有益な法律かどうかの観点で考えてみる。

それでもやはり問題は多いと思うから、ここではその問題点が市民の間で「問題」として認識されず、そして、問題が広がらなかったのは何故かの問いかけをしてみたい。それは伝える側のメディアの問題なのだろうか。伝えられた側のオーディエンスの問題なのだろうか。

4月から客員教授として学習障がい者ら向けの法定外の「見晴台(みはらしだい)学園大学」での「メディアと社会」の講義をしながら、障がいのある学生らが情報を取得するに際して、その選択肢は多様であり、それは無意識のうちに得られやすく、読みやすい情報に向かい、そして受け入れていくという傾向に気づく。

◆王様ではないマスメディア

今となってはテレビも新聞も情報伝達媒体の王様ではない。若者の動向を見る限り、もはやゲートキーパー理論も死滅したと言えるのかもしれない。そして、これは評論家の宇野常寛さんの言うところの「リトル・ピープル」の物語の「現在」でもあるのだろう。しかし、リトル・ピープルを統合する物語が見当たらない。物語の書き手・語り手として機能していたはずのメディアの王様は、そのアクセスの大半を折られただけではなく、核であるはずのファクトを描き切れないまま、ビッグ・ブラザーの時代に生きているような印象さえある。だから、受け手との融合が図れない。

今回の法案は「対テロ対策」という名目ではあるが、政府が描く大きな思想の中に、市民はいない。それはメディアも政府も同じように、安全な場所でモノを考えているような気がしてならない。その事実にメディアは無自覚であるのも問題だ。

1960年代半ばに鶴見俊輔は、専門化したマスメディア企業のジャーナリズム以外に、市民のジャーナリズムというものがあるべきで、両者はつながり合うべきとの主張を行っている。しかし、明治の近代国家建設とともにマスメディアは新聞・テレビを中心に企業ネットワークにより構築化され制度化された一方、市民の入る余地はなかった。

結果的に市民の言論活動は停滞したまま現在に至った。市民にとっても発信はマスメディアがやるものだという意識でいるものだから、「共謀罪」に対する危機意識が薄い。問題点を指摘し、考え、討議し、発信する、という行為が他人事だから、仕方がない。言論に誰もが携われる社会であるならば、この法案は上程すらできなかったであろう。

◆リテラシー向上の怠慢

つまり、そんな社会を私たちはつくってきてしまったのである。加えて、メディア・リテラシーを構築してこなかったのは、意図的なのかメディアの怠慢なのか。水越伸・東京大教授によると、リテラシーは三つのフェーズがあって、「メディアの使用能力」「メディアの受容能力」「メディアの表現能力」に分かれる。そしてそれは、「三つの能力はどれかが中心で重要だというような性格のものではなく、たがいに関係しつつ全体としてメディア・リテラシーの総体を構成している」(水越教授)という。

今の日本社会に置き換えれば、スマートフォンやパソコンの普及により使用能力は高水準だが後者の二つの能力はほとんどないに等しいだろう。その教育をどこも担ってこなかったからである。結果として、この三つがそれぞれの能力水準をかけ合わせて相乗効果で総体の「力」を発揮するところが、後者の二つがゼロ、もしくはマイナスだから、総体の値は上がらない。
だから、共謀罪を受けとめる市民にメディアの論理は響かないのであろう。かといって嘆いてばかりでは仕方がない。この教育を、どこかでやらなければならない。さもなければ本当に手遅れになってしまう。共謀罪が悪用されないためにも、私たちはまだやることは多い。メディアには、市民の中の、という意識への覚醒を求めたい。

精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
http://psycure.jp/column/8/
■ケアメディア推進プロジェクト
http://www.caremedia.link
■引地達也のブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/kesennumasen/

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