引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括。ケアメディア推進プロジェクト代表。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般社団法人日本不動産仲裁機構上席研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など経て現職。
◆誰の問題か
「暗黒」の時代を見ているような気がするのは私だけではないはずだ。学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設に関する問題で、前文部科学事務次官が文部科学省内で作成されたとされる安倍晋三首相への忖度(そんたく)と受け取られる文書を「本物だ」とし、一連の手続きについて「行政がゆがめられた」と会見したのを皮切りに公表された証言に対し、政府の対応は、「前次官が証言した」という事実に正面から向き合わず、それをのけ者にするような態度を取り続けている。
隠そうとする態度からなのか、釈然としない薄気味悪い政府の態度は、いつか見た「いじめ」の態度のようである。その悪意が満ちた政府の情熱は計り知れず、恐ろしささえ感じる。それはやはり自由が奪われた「暗黒」の中にいることの実感なのだろう。
◆「ひめゆり」の自由
年に話はさかのぼる。戦争末期の沖縄戦は、米軍の猛攻撃の前に壮絶で凄惨(せいさん)な結末となった。奇跡的に生き残った元「ひめゆり」隊の女性の証言によると、米軍の攻撃の最中、女子学生は、軍人から突然自由を言い渡されたという。洞窟の外に出れば砲弾の標的になるだけの中での「自由」に、女子学生は、どこに行けばいいのかの「ご指示」を仰ぐが、「おまえたちは自由なんだ!」と日本軍は言い残して、どこかへ行ったという。
社会学者の見田宗介(みた・むねすけ)さんは「この時女子学生たちは、自由だろうか。自由というのは何であろうか。自由であるということはどこに行ってもよいということである。けれどもこれだけでは現実的に自由であるということにはならない。どこかに行けば幸福の可能性があるということ。『希望』があるということでなければ、現実的、実際的に自由であるということにはならない」(現代思想2016年9月号)と書いた。
もうすでに自由はないのかもしれない。
文科省の文書の存在はともあれ、当事の事務方トップが「ゆがめられた」という、その発言の事実そのものは重い。ゆがみの原因をつくった政府の反省はなく、ただ排除しようとする権力のあり方は、独裁国家と同じである。元総務相、元鳥取県知事の片山善博・早稲田大教授は朝日新聞のインタビューで、「安倍1強」で自民党内でも異論が出ず、大臣も物言う役人を守ることもなくなったとし、それは14年の内閣人事局発足以降の風潮だと説明した。その上で「役人にとって人事は一番大事。北朝鮮の『最高尊厳』、中国の『核心』。そして今回の『官邸の最高レベル』。似てきてしまったのかなと思います」とコメントをしている。
こんなコメントをする片山教授を政府はやはり攻め立てるのではないか、という不安も出てくる。となれば、すでに言論の自由など無くなったのかもしれない。
◆叡智を確かめ体力を
何をすればよいのだろう。本稿で何度も言うようだが、イデオロギー対立の時代は終わった。自由であるはずの国家の中に生きながら、実は沖縄戦末期の自由なのかもしれないという危機感を、今回の「役人が自由にものを言えない」状況から感じ取るべきなのであろう。
今何が脅かされそうになっているのかを考えた場合、精神疾患者や障がい者とともに過ごしている私は、社会的にケアが必要な視点、弱い立場にいる人の視点を尊重しながら、多くの方の幸福や生きやすさを描いていくために、日々当事者と向き合いながら、言論なりメディアなりを構築していきたいという決意が生まれてくる。
そのために、体力を付けたい。その体力とは私たちが築き上げてきた叡智(えいち)を確かめ、時代に対応させて説明していく力のことである。
より多くの人の不幸を減らし、幸福になる人を増やしたいという純粋な気持ちのまま問題に向き合い、その思いを押しつぶそうとする権力による行為には徹底的に抗いたい。
精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
http://psycure.jp/column/8/
■ケアメディア推進プロジェクト
http://www.caremedia.link
■引地達也のブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/kesennumasen/
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