п»ї 科学と現代『教授Hの乾坤一冊』第6回 | ニュース屋台村

科学と現代
『教授Hの乾坤一冊』第6回

9月 27日 2013年 文化

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教授H

大学教授。専門は環境経済学および理論経済学。政府の審議会の委員なども務める。「知性は、セクシーだ」が口癖。趣味は鉄道(車両形式オタク)。

いきなり私事で恐縮だが、私は旧大山(おおやま)街道(現在の国道246号線)沿いにある神奈川県のとある町に住んでいる。古い宿場町で、現在では都市化が進んでいるもののまだまだ田舎の雰囲気のある町である。この辺りは地形が独特で、少し歩くとすぐわかるように高台と低地とが交互に入り組んだように現れる。時にはだらだら坂を登るハメになるが、歩く気分は悪くない。

そんな地理的条件のせいだろうか、かろうじて開発を逃れた緑や水辺の生物相は豊かだ。うっそうと葦が茂る谷戸(やと)では、カエルの大合唱が楽しめる。トンボもたくさんいて、時にはオニヤンマも飛んで来る。運がいい場合には、キジやカワセミを見ることもできる。

ところが、である。この町の駅前になんと30階建てのマンションができたのだ。高台の公園や神社から一望できた景観が台無しになったことは言うまでもない。なぜ田舎町にこのようなノッポのビルを建てなければならないのだろうか。都心やウオーターフロントなどと呼ばれる地域ならばわかる。だが、なぜ都心と同じものを田舎町に造らなければならないのかわからない。そんな怒りとも嘆きともつかぬ思いをもっていたところに出あったのが、中村桂子著の『科学者が人間であること』(岩波新書、2013年)だ。

◆生きものを基本に人間の生き方を探る新しい「知」

すぐ後で述べるように、この本の核心は現代科学の批判的検討と生命を重視した科学観の構築にある。だが、著者は主題に入る前に、人間が生きものであることを忘れた科学観にどっぷり浸かってしまった現代人の姿をまず批判のまな板に乗せる。痛快なことに、東京圏一極集中や自然を無視した画一的都市造りが批判の矛先になっているのだ。これはまさに私の住む田舎町の駅前ノッポビルのことだと思い、「我が意を得たり」と溜飲を下げた。

しかし著者の本当に言いたいことは、現代科学の誤った行き方をただし、反科学論に陥ることなく、科学の進むべき道筋を指し示すことにある。東日本大震災で多くの研究者が自分の研究の無力さを感じたが、著者も例外ではなかった。科学者集団の言うことが信頼されなくなってしまったことがその大きな理由の一つである。

著者によれば、こうした科学の無力感と信頼喪失は、科学者が「人間も生きものであり、自然の中にあるというあたりまえのこと」を忘れたことに由来する。自然は人間の制御できるものではなく、想定外が当然なのに、科学は自然の出来事があたかも想定できるように考えていたことに誤りがあるというのだ。

一体こうした自然観・科学観の根源はどこにあるだろうか。それはデカルトやガリレオ(ガリレイ)にたどり着くと著者は見る。近代科学の創始者が、まさに歪んだ科学観の創始者でもあると言うのだ。物理学者で哲学者の大森荘蔵(おおもり・しょうぞう)の考え方を下敷きにして、著者はデカルト・ガリレイの科学観は自然を死物化(自然から生きている実態をはぎ取ること)していると手厳しい。

そして、彼らの機械論的自然観をすべて捨て去ることはできないけれど、自然を死物化しない科学を作り上げるためには、それと対(つい)になるべき自然観が必要だと言うのだ。ここで提唱されるのが、著者のオリジナルである「生命誌」だ。生命誌とは生きものの起源とつながりを探求することであり、いわば生きものの曼荼羅(まんだら)を描き出すことである。

カワセミもヒトも、本を正せば同じ生命に行き着く。しかし、今はなぜか違う生き物としてこの地球上に存在している。そうした生きものの歴史の全体像を捉えようとするのが生命誌だ。著者はこの描き方を略画的という言葉で表現する。密画的であった従来の科学(個別要素に還元して分析する科学)との対照性がはっきりする。略画と密画がそろって初めて、人間が生きものであることを認識した科学が可能になるというのである。科学には略画と密画の重ね描きが必要というわけだ。

◆経済学にも必要な略画と密画の重ね描き

略画と密画のそろった科学、それは自然の豊かさを私たちに伝えてくれるに違いない。同時に科学的探求の面白さ、素晴らしさも認識させてくれる。また、ただ単に便利さだけを追求した画一的都市造りとは一味も二味も違った世界観に導いてくれるだろう。著者の主張は、新しい世界観の提唱にもつながるのだ。

著者は、DNAだとかRNAだとかを分析する、素人には難しい分子生物学という研究の第一級の研究者である。その人が従来の科学的世界観を批判的に検討し、新しい道筋を提唱するのだから説得力がある。加えて、この書の批判は評者の専門である経済学にも見事に当てはまることも付け加えておきたい。実体経済の豊かな相(そう)を知らず、モデル解析や実証分析に明け暮れるだけでは経済の実相は見えてこない。経済学にも略画と密画の重ね描きが必要ということなのだ。

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