小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住19年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
第2次世界大戦において日本と同盟を結んだドイツ。敗戦国として焼け野原から奇跡的な復興を成し遂げたドイツ。アルベルト・アインシュタインやヴィルヘルム・レントゲンら数多くの科学者を輩出し、カント、ニーチェ、ハイデガー、ショーペンハウエルなど有名な哲学者もいっぱいいる。文学においてもフランツ・カフカやヘルマンヘッセ、「若きウェルテルの悩み」で有名なヨハン・ゲーテら、こちらも日本で知られた名前がならぶ。
◆フランクフルト
私が趣味としている音楽においてはバッハ、ベートヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、ワーグナーらドイツ音楽なくして近代音楽は語れないほど、クラシック音楽の主流となっている。我々日本人にとってヨーロッパの中でも特に日本との共通点を見いだしやすく、親近感を持つ国がドイツであろう。少なくとも私の中では、今回のドイツ訪問までは漠然と、ドイツに対しては「日本に近い国」とのイメージを持っていた。
ドイツ訪問と言っても、今回はフランクフルトに滞在しただけである。オランダ・アムステルダムから高速鉄道に乗り、約4時間でフランクフルト中央駅に到着した。途中、大平原の牧草地帯が続くオランダからドイツに入ると、林や森が多くなって景色の変化が面白かった。ドイツに訪問するのは30年ぶりである。当時は東海銀行の支店があったフランクフルトとデュッセルドルフを訪問したが、両地とも1日ずつ支店を訪問しただけで「フランクフルトがどんな場所柄であったのか?」全く知らなかった。
フランクフルトへ到着した翌日は市内観光ツアーに参加し、初めてフランクフルトのことが少しわかった。何とフランクフルトはドイツで5番目の都市であった。欧州の銀行の中で最大のドイツ銀行やコメルツ銀行の本店があり、かつドイツのハブ空港としての機能を持つフランクフルトは「ベルリンと並ぶドイツ最大の都市」だと何となく信じていた。
ところが人口70万人ほどの中堅都市なのである。フランクフルトは第2次世界大戦中に市の85%を空爆によって消失したそうである。フランクフルトの観光名所には古いビルが建ち並ぶが、ほとんどが戦後に復興されたものだと聞くと興味が半減する。教会も大半がプロテスタント教会である。偶像崇拝を否定してきたプロテスタントの歴史的経緯から、教会内部はきわめて簡素である。イタリアやスペインで豪華絢爛(けんらん)なカトリック教会を見てきた私にはこれも物足りない。わずかに文豪ゲーテの生まれ育った家であるゲーテハウスは面白かった。18世紀の金持ちの家の様子がわかり、彼の文学の背景がちょっと理解出来たような気がした。
翌日はドイツの古都であるローデンブルグとハイデルベルクをめぐる旅である。日本人に最も人気のあるドイツの観光ツアーに「ロマンチック街道の旅」がある。ヴュルツブルグという町からフュッセンまでの366キロの街道ルートで、ドイツの観光名所を地図の上でつなげ、ドイツ政府が観光振興のためにあと付けしたコースである。12世紀に造られた中世都市のローテンブルクや白雪姫のお城としても有名なノイシュヴァンシュタイン城などを訪れる旅である。
◆ロマンチック街道
今回私達が訪れたハイデルベルクも13世紀に造られたプファルツ選帝侯の宮廷城や1386年に設立されたドイツで最も古い大学、ハイデルベルク大学の町として知られている。ライン川とネッカー川の合流する地形上極めて重要な場所に位置する中世都市である。
フランクフルトを朝9時に出発し、夜7時に帰着する10時間に及ぶ日帰りツアーで、走行距離は400キロになる。参加者は私達の他、タイ人とニュージーランド人の計8人であった。ツアーガイドはウィリーというマンハイム市出身のジョーク(冗談)好きなドイツ人。高速道路であるアウトバーンを時速200キロで、彼自らがハンドルを握る。こんな高速運転をしながら、ウィリーはジョークを交えながらドイツの観光案内をする。私にとっては「目からうろこ」のドイツ解説であった。
まず私が最初にびっくりしたのは「ドイツは地方分権体制が確立されており、中央集権国家ではない」ということである。強い軍隊と質実剛健な民族イメージがあるため「徹底した中央集権国家」なのかと全く誤解をしていた。ドイツ最大の都市のベルリンでも人口350万人と東京の1/3の規模である。100万人以上の都市はベルリン、ハンブルク、ミュンヘンと3都市しかない。日本が11都市あるのに比べても人口集中は低い。また、行政機関も幾つかの都市に分けられている。連邦議会、大統領府、外務省、財務省などは首都ベルリンに置かれている。国防省、保険省、教育省、会計検査院などはボン。ドイツ連邦中央銀行はフランクフルト、ドイツ連邦裁判所はカールスルーエなど分在している。
これは歴史的にドイツが地方分権によって成立してきたからだ、とウィリーは言う。ドイツ人は地方への帰属意識が強い。観光ガイドのウィリーもハイデルベルクの近くのマンハイム市の出身。カール・ベンツが世界最初の自動車を製造した土地である。マンハイムをこよなく愛するウィリーは小さい頃に時々遊びに来たハイデルベルクについては愛着をこめて説明するが、フランクフルトについてはぼろくそに話す。フランクフルトからローデンベルクに行く途中にロマンチック街道の始点であるウェルツブルクがあるが、その隣町のインゴルシュタットにドイツの自動車メーカー、アウディの本社がある。
ほとんど林の中を走って行くと突然アウディの工場が高速道路から見えてくる。「こんな辺鄙(へんぴ)な町に?」と思う場所にアウディの本社がある。ところが世界に冠たる自動車メーカーの本拠地は、これもまたドイツ国内に点在しているのである。フォルクスワーゲンがヴォルクスブルク、BMWがミュンヘン、ダイムラーがシュトゥットガルト、オペルがリュッセルスハイム、そしてアウディがインゴルシュタットである。
自動車でアウトバーンを走ってみるとドイツの町が森の中に点在してあることが良くわかる。各都市が孤立しているからこそ地方分権が成立したのであろう。ちなみにドイツの主要20都市の位置を調べてみると、いずれもライン川やエルベ川、マイン川やラベ川などさまざまな川のそばに位置していることがわかる。ドイツ国内を縦横に走るアウトバーンが出来たのはナチスが台頭してきた1933年以降のことであり、それまでのドイツは水路による交通が一般的であったと想像される。各都市・各地方の自立意識が強いのも「むべなるかな」である。
◆ゲルマン民族の血塗られた歴史
ドイツの歴史をひもとくと、民族・宗教の血塗られた歴史が見えてくる。もともとドイツ北部、デンマーク、スカンジナビアにいたゲルマン民族は紀元前3世紀ごろからライン川やヴィスワ川、更にはドナウ川などを下って居住地域の拡大を図る。4世紀後半にはゲルマン民族の大移動が始まり南ヨーロッパに部族国家を形成し、西ローマ帝国の領土にも侵入する。481年にはフランク王国が建国され、843年のヴェルダン条約により王国が3分割されると現在のドイツに位置する東フランク王国が成立、962年にはローマ教皇ヨハネス12世から「神聖ローマ帝国」の称号を得る。
1096年に十字軍が始まると神聖ローマ帝国もこれに参加。この十字軍に参加した民衆はハンガリーやビサンチン帝国などでイスラムを攻略することなく、ユダヤ人虐殺を繰り返す。12世紀から13世紀には東方のスラブ人居住区への植民(東方植民)が行われ、ドイツ騎士団がバルト海沿岸を征服。ブランデン・プロイセン公国となった。しかし神聖ローマ帝国の実態は依然として、各地方の「諸侯による連合体」であった。
一方、1517年カトリック教会による免罪符販売に異を唱え始まったルターによる宗教改革は、ローマ教皇からの支配から逃れようとするドイツの各諸侯にまたたく間に広がった。そもそもオランダの独立戦争として始まったヨーロッパ内部の80年戦争は、ドイツの神聖ローマ帝国ではプロテスタント対カトリックの宗教戦争となる。この30年戦争とも呼ばれる宗教戦争で「1600万人いたドイツの人口は600万人まで減少した」といわれている。いかに戦慄(せんりつ)的な殺戮(さつりつ)が行われたかということである。ゲルマン民族の領土拡張に対する執念ならびに残虐な殺し合いの歴史については全く私が知らない事実であった。
◆巧みな外交能力の素地
こうした血塗られた歴史があるからこそ、一方でドイツ人は巧みな外交能力が身についているのではないだろうか。第2次世界大戦の責任を全てナチス・ドイツに押し付け、ドイツ国民の戦争責任があまり議論されないのもその一つである。ナチス・ドイツはアドルフ・ヒトラーならびに国家社会主義労働党(ナチ党)による支配体制を指すのだが、そうした支配体制を築き上げたのは「ドイツ国民」そのものではなかったのだろうか。日本政府が戦争犯罪者まで靖国神社にまつり、毎年政府関係者の参拝でもめるのとは大きな違いである。
また、第1次世界大戦後の兵器開発についても大変興味深い。第1次大戦時の戦争は兵士が塹壕(ざんごう)に閉じこもり、兵士同士がぶつかりあう肉弾戦が主流であった。最終的にドイツはロシアの最新の戦車軍団に敗北をした。この後敗戦国としてドイツは軍備をもつことが禁止されていたが、ひそかにロシアと密約を結び、ロシアで戦車の開発を行ったと聞く。第2次世界大戦が始まると、その戦車軍団により一挙に欧州各国を攻め、一時はイギリスとソ連を除くほぼ全域を掌中におさめた。こうした他国を欺く手腕も厳しい歴史の裏返しなのであろう。
翻って日本。我々は第2次世界大戦を除いては本格的な戦争を経験したことはない。この第2次世界大戦であっても「人と人がぶつかりあう殺し合い」は日本国外で行われた。また第2次世界大戦以前も日本国内では本格的な殺し合いなどほとんどなかった。戦国時代の戦争だってやくざの殴りこみ程度のものだったと聞いたことがある。私達日本人は戦争や殺し合いにはほど遠い人種なのである。
しかし世界がこれだけ狭くなった中で、日本人だけが独立して生きていける時代は終わってしまった。私達はもっと積極的に世界に出て行かなければ、他国との競争に負けてしまう。「生き抜くためにはどんなことでもする」強烈なDNAを感じたドイツ訪問であった。
※写真はどれも筆者撮影
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