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『敗北を抱きしめて』―「占領による近代主義の受容」(2)
『視点を磨き、視野を広げる』第14回

2月 13日 2018年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに―『敗北を抱きしめて』について

日本はこの150年間に、「開国」と表現される国を挙げての「近代」の導入を2度経験している。最初が、黒船の来航を契機とした幕末・明治期であり、モデルはヨーロッパであった。2度目が敗戦後で、モデルは米国であった。前稿に引き続き、本稿では、占領期を米国からの「近代」の導入という視点から考えてみたい。

1945年8月15日、国民は天皇の玉音放送によってポツダム宣言の受諾を知った。それは、無条件降伏を意味し、日本は連合軍(実質的には米軍)による占領管理下に入った。米国のダグラス・マッカーサー元帥(*注1)が、連合国軍最高司令官に任命され、東京に連合国軍総司令部(以下GHQ)を設置した。最初の指令は、日本軍の武装解除・解体であった。進駐軍は、占領初期には40万人を数えた(*注2)。統治形態は、GHQが日本政府を通じて行う「間接統治方式」が採られたが、占領者であるGHQの命令は法律の制定を待たずに施行できた。

占領の目的は、日本の「非軍事化と民主化」であり、それは「国体(天皇制)」の変更とそれを定めた憲法の書き換えを意味した。当時の日本の指導層が最も懸念した点も「国体」が護持されるかどうかであった。占領は、45年8月から52年4月に独立するまで6年8カ月続いたが、最大の山場は前半の新憲法制定と東京裁判であり、後に「戦後体制」の最大の論点となっていく。平和憲法は「戦後体制」の象徴として「内なる戦後」を代表するが、政治的な論点であり続け、現在の憲法改正の議論に至る。また、戦争責任の問題は「外なる戦後」とでもいうべきもので、今も近隣アジア諸国との関係に大きな影を投げかけている。

占領期を考察するにあたって、指針として『敗北を抱きしめて』という本を選んだ。その理由は、占領期を幅広い分野の多様な階層の視点から描いていること、見解が分かれるところは両論に触れており公平であること、著者は米国人であり占領した側の資料や情報に精通しており、客観性が高いと思われることなどである。全体を通じて、米国のリベラル左派という著者の政治的立ち位置が、日本に厳しく感じられる指摘につながっているが、それは米国そのものへの批判でもあるのだというのが著者の含意であろう。著者のジョン・ダワー(1938〜)は、日本近代史を専門とする米国の歴史学者で、マサチューセッツ工科大学名誉教授。本書(1999年出版)はピュリツァー賞を受賞している。以下本書に沿って占領期はどのような時代であったのかを理解していきたい。

◆本書が示す「占領」

占領体制は、形式的にはワシントンに置かれた最高決定機関である「極東委員会(11カ国)」と助言・勧告機関として東京に置かれた「対日理事会(米・英・ソ・中)」の下に米国政府とGHQが位置づけられているが、実質的には米国が単独で占領政策を担った。

・「非軍事化」と「民主化」

米国の占領目的は、敵であった日本の「非軍事化」と「民主化」であったが、占領政策を巡る米国政府内での議論で、ニューディール・リベラルと呼ばれた進歩的改革主義者が勝利を収め、「徹底したかつ永久的な非軍事化と民主化への誘導」という「実験的占領」に変質したとする。その結果として、財閥解体、労働運動促進、農地改革の実施という予想以上に大胆な改革案が実施されたのである。

・マッカーサーの新植民地主義的革命

マッカーサーは、一般庶民とは接点を持たず、「新しい君主」としての役割を演じることでカリスマ性獲得に成功し、新植民地の「総督」となったかのように振る舞った。またGHQの政策は、「植民地の臣民を文明化する」という旧来の西欧植民地主義の思想を継承していた。本書では、日本占領を「新植民地主義的革命」と表現し、「軍事独裁から民主主義的革命が生まれるのかという矛盾」を内包していたとする。

しかし、日本人はマッカーサーを熱狂的に受け入れた。マッカーサーの在任中、尊敬と感謝の言葉を綴った手紙を送り続け(*注3)、帰国に際しては沿道の20万人の群衆が別れを惜しんだのである。マッカーサーは絶対権力者であるとともに人々に愛される存在となった。著者は、これが「民主主義を約束する権威主義的な支配という逆説」を可能にしたとする。また。マッカーサーへの膨大なファンレターに「日本人の依存的真理」を読み取る。

占領軍による政治的自由化、社会改革の実施は、インフレ亢進(こうしん)と失業増大を背景に労働運動の過激化をもたらした。こうした動きは「上からの革命」を推し進める占領軍にとって脅威と映った。当時の左翼勢力の中心は共産党であり、労働者の組織化を進めゼネスト(1947年2月1日)を計画したが、マッカーサーによって強制的に中止させられた。これによって米国は、「解放者」から「民主主義の敵」となった分水嶺的事件となった。占領政策がいわゆる「逆コース」へ転換していく契機となったが、これらの出来事の背景には米ソの冷戦構造の進行があった。

・新憲法制定と天皇制民主主義

マッカーサーは、日本の敗戦前に「天皇の戦争責任を問わない」ことを決めており(*注4)、天皇と軍国主義者を対立するものとして位置づける(「くさび戦略」)ことで、天皇の戦争責任を回避したとする。国体の維持が最大の関心であった天皇側近も「戦争は軍国主義者の陰謀であり、天皇は無罪である」という考えを広めることに協力した。日米双方の利害は一致しており、くさび戦略は合体する。「平和を愛する君主」としての天皇像は、米占領軍と天皇側近の「合作ストーリー」だとするのが著者の主張である。

天皇は退位問題を乗り越え(*注5)、「天皇崇拝の世俗化」を目的として国内各地に巡幸するが、天皇の「ぎごちなく人間的な立ち振舞」が人々を惹きつけ、「国民の苦しみと犠牲のシンボル」になるという予想外の現象を生んだとする。天皇は「新しい衣装」をまとって、「新生民主主義国家の中心に据えられた」のである。著者は、これを指して「天皇制民主主義」と名付けている。

明治憲法の改正については、GHQは当初から占領目的達成のために必要であると考え自主的な改正を促した。しかしGHQは、日本政府の改正案(*注6)は「保守的」と判断し、急きょ自ら憲法草案を作成したという経緯は通説のとおりである。

草案作成にあたりマッカーサーは三原則(立憲君主制、絶対的平和主義、封建遺制の廃止)を示したが、カリスマらしく大枠を示しただけで、解釈はGHQ民政局の「起草委員会(*7)」に一任した。委員会のメンバーは「若く、理想主義者であり、強烈な目的意識を共有」(起草委員会の秘密議事録)していた人々であった。委員会が目指したのは新しいモデル憲法であり、米国の「民主主義という政治的理想主義が刻印された作品」であったとする。

公表された新憲法は、出自はどうであれ「その理想主義で人々を魅了」し、保守党も含めて各党は賛成した。反対したのは共産党のみであった(*注8)。なお、新憲法は明治憲法の改正案として天皇によって国会に提出されたため、「天皇によって国民に与えられた」形となった。本書では、「GHQから与えられた「上からの民主主義」が「天皇制民主主義」と融合した」とやや皮肉を込めて表現している。

・勝者の裁きと欺瞞(ぎまん)―東京裁判

東京裁判は、日本の戦争指導者を裁く目的で、1945年5月から48年11月まで2年半行われた。裁判官は米・英・仏・ソ・中をはじめとする戦勝国を中心とした11人で、多数決を原則とした。被告(A級戦犯)は東条英機元首相をはじめとする25人であった。

焦点は「平和に対する罪」で、「侵略戦争を計画し、共同謀議を図った罪」とされた。これは、①「侵略戦争」と「国家防衛戦争」の区別が可能か②「共同謀議」の存在を立証できるか③それまでは国家行為とみなされていた戦争で、将来国際法のもとで指導者の責任を問えるのか――という問題を提起していたとする。

検察側の主張は、「侵略戦争の共同謀議は、1928年1月1日に始まり、その後の18年間の日本の政策決定すべてが、侵略戦争を構成する」とした。判決は、25人の被告の内23人が平和に対する「全体的共同謀議」で有罪となり、うち死刑は7人であった。法定は「共同謀議」という罪状を認めたが、それは「以前には国際法上に規定のなかった罪状について追訴される」という先例となり「法律なくして犯罪なし、法律なくして刑罰なし」の原則に反するのではないかという疑問を投げかけた。国務省のジョージ・ケナン(冷戦政策を計画したことで知られる)の「政治裁判で法ではない」という言葉が裁判の性格を表していた。

また、日本の知識人にとって国家指導者にだまされたという論法は、民主主義者への「転向」の理由に利用され、マスコミもこの流れにのった。一般の国民にとっては、自分たちをだました軍国主義者は、「理性と真実」を欠き集団的非合理性に染まった集団であり、その無能が「科学と応用技術における日本の後進性を理解し得なかった」ことになる。かくして「敗北の責任」は「科学技術の欠如」であり、日本の未来は「科学技術」が鍵になるという固定観念が生まれた。こうして「平等で、民主的で、合理的な社会」を目指すべきだという信念が国民の間で形成された。近代主義思想の積極的受容の条件が整ったのである。

・占領の負の遺産

占領は負の遺産も残した。それは、平和憲法、講和条約(分離講和)、日米安保条約からなる戦後日本の枠組みであり、米国への従属的独立構造である。米国の占領下にあった日本は、講和条約により独立を果たすが、それは米国を中心にした西側諸国との講和(分離講和)であり、同時に調印された日米安保条約によって米国の庇護(ひご)の下にあることを明らかにしていた。日米安保条約は、米軍基地の存在を交換条件とした日本の安全保障確保が目的であったが、非武装を謳(うた)う憲法9条(平和憲法)の下で自国の安全保障を確保するため必要な手段であった。こうした憲法9条、講和条約(分離講和)、日米安保条約は、戦後体制の基軸を成すが、相互補完性ゆえに存在し、同時に相互矛盾を有する存在でもあり、「罠(わな)」のような構造だというのがダワーの主張である。

エピローグにおいて、ダワーは米国リベラルの立場から、平和憲法を与えたのは米国であったが、「逆コース」に転換した米国の再軍備要求に、日本は可能な限り抵抗し、憲法9条を守ってきたのであり、占領初期の理想は、「民衆の政治意識の中に生き続けてきた」とする。しかし、国際環境の変化と「戦後日本システムの崩壊によってその「非軍事化と民主主義化」の理想は捨て去られようとしている」と結んでいる。

◆「占領による近代主義の受容」を考察する

占領による近代主義受容は、与える側と与えられる側による共同作業的性格を有していた。与えられる側の日本人は、敗戦の原因は合理的精神の欠如と科学技術の軽視にあったと考えた。そして民主主義は、当時の日本人が最も欲した「平和」をもたらすものと映った。一方、米国側のニューディーラーたちは、米国で実現できなかったような理想主義的な民主主義を打ち立てようという熱意を持っていた。こうして双方の条件が合致して実現した「占領による近代主義の受容」を、政治、経済、文化面から考察したい。

・民主主義:「上からの民主主義」は成功したのか

占領による民主化は、「上からの民主主義」であった。本書では、与える側の米国人たちは、「一般大衆の「思想」を「民主的」にすることを使命と考えていた」として、「民族的優越感に基づく宣教師のような情熱が政策全体を支配していた」と表現している。彼らの中に「人種差別的な上から目線の宗教的使命感」と「崇高な人類共通の価値を実現しようという理想主義」のどちらを見るかで評価は違ってくるが、両方が渾然(こんぜん)一体となった情熱が憲法起草委員会を動かしていたのだと思う。その結果として、近代主義の理念を体現した進歩的な憲法が生まれたのである。

米国側の働きかけに対して、日本側からも「下からの民主主義」の動きが呼応していった。日本には、明治維新以降の議会制民主主義の歴史と基盤があった上に、戦争の悲惨さを、身をもって経験した日本人は、平和を渇望しており、民主主義は平和をもたらせてくれると信じていた。また、政治的民主化は経済的民主化を伴わなければ安定しない。途上国の性急な民主化が失敗するのはこのためである。この点において、日本には経済的民主化を進める経済基盤(資本家、経営者、労働者の存在と効率的な官僚組織)があった。こうして、日米両者の条件が整い、憲法は「出自」に関わりなく受け入れられ、「上からの民主主義」は、定着していったのだと思う。

平和な社会の到来を求めた当時の国民の強い思いと民主主義を受け入れる基盤の存在が、上からの民主主義を成功させたといえる。しかしながら、民主主義を平和の象徴と信じたことは、日本人のナイーブさの表出でもあった。なぜなら世界には民主主義を守るための戦争(「正義の戦争」)という論理が存在するのである。米国は、その論理によってベトナム戦争にのめり込んでいき、その後もアフガニスタン、イラクに侵攻する。日本では、戦後今日に至るまで、こうした民主主義と平和と戦争に関する冷徹な現実を踏まえた冷静な議論が、政治レベルでも、知識層レベルでも広く行われたわけではない。負の遺産としての米国への「従属的独立構造」は、日本人の民主主義と平和への願いが、現実となんとか折り合いをつけた「いびつな姿」といえるかもしれない。

・資本主義:占領と「経済的民主主義」の成功

占領による「指導された民主主義」は、政治だけではなく経済においても「非軍事化と民主化」の実現を目指した。財閥解体、農地解放、労働者の基本的権利の保障、教育改革といった民主化政策は、経済面における民主化を促進し、その後の生活水準の向上、所得分配の平等さ、失業率の低下、社会保障制度の充実となって、日本型の「豊かな社会」の実現につながっていくのである。

また、こうした戦後の日本経済の成長を牽引した要因とされる「日本モデル」と呼ばれる経済システムも、占領の成果物であった。戦時中の総力戦用に作られた官僚による統制システム、産業と金融の一体化(間接金融へのシフトと系列化)、労働者の自発的参加と管理の仕組み(企業別組合、終身雇用、年功序列賃金など)は、占領に利用されることで温存、強化され、結果として「日本モデル」を形成していく。ダワーはこれらを日米交配モデルと呼んでいる。

歴史の連続性の観点からは、明治維新以降の法治国家としての基盤、資本蓄積の厚み、義務教育の普及などの要素に戦後復興の理由を見出すことができるであろう。また、「日本モデル」に見られるように、「近代」の制度を導入しても、入れ物は「日本モデル」を使うという、明治期にも見られた日本式の近代受容であった。しかしながら、こうした点を考慮しても、占領期に行われた諸改革の貢献の大きさは認めざるをえないであろう。

こうして日本は経済復興を果たしただけでなく、その後の高度成長によって先進国の仲間入りを果たす。日本は2度目の「近代」受容にも成功したのである。しかし、この強い成功体験によって、現在直面する諸課題に対し、近代主義の基本理念とも言うべき「合理的思考」と「科学技術」のいっそうの追求に、打開策を求めることしか思考が及ばなくなっているように思える。そうした近代主義の行き着く先に何があるのだろうか。例えば、経済について言えば、資本主義はどこに向かおうとしているのか。不平等が拡大する世界の現状を見るにつけ悲観的にならざるを得ないのであるが、この点については、次稿以降で考えていきたいと思っている。

・個人主義:米国文化の流入と伝統的文化の変質

軍国主義教育が追放され、教育の民主化が行われたことは、学問研究を発展させ、戦後の文化水準を向上させただけでなく、経済成長にも寄与した。しかし、一方で占領軍は大規模かつ秘密裏に(公然の秘密であったが)「検閲」を行っていたのである(*注9)。検閲対象は、当初は軍国主義者であったが、占領政策の変更とともに、左翼に変わっていった。言論の自由を謳いながら、自分に反対する者を検閲するというのは、米国流の「自由と民主主義」の押し付けであるとともにその傲慢(ごうまん)さの表れであり、米国を相手にするときはきれいごとの裏に隠された「偽善」を常に疑わなければならないことを私達に教えてくれる。

また、敗戦後、米国は個人主義で日本は集団主義というステレオタイプの日米国民性比較が見られた。そして、日本は個人主義が確立していないので「だめ」なのだという議論に誘導されていく。しかし、本書では、敗戦後数年間のベストセラーをとりあげて、最も人々に支持されたのは夏目漱石であったとしている。漱石の描く世界では、「個人の愛情が常に社会の要求よりも高い位置に置かれた(それが苦悩や破滅を招くとしても)」とし、「こうした漱石の「個人主義」の道は、敗戦後、知的・心理的危機に直面していた多くの日本人の心をとらえた」としている。個人主義の基盤は存在していたのではないだろうか。

NHKの「戦後70年に関する意識調査」(*注10)によると、「戦後の日本人の変化」として「強まったもの」のトップは「個人主義」であり、回答率は68%である。そして「弱まったもの」で最も多いのは「自己犠牲」であった。日本人の大部分が、戦後、個人主義が強まったと考えているのであり、反対に「自己犠牲」が弱まったことを残念に思っているのである。

日本文化の伝統的価値観は、経済的合理主義という近代主義理念と折り合いをつけて、戦後も生き続けたが、バブル崩壊以降の「失われた20年」において、日本がだめなのは、合理主義の徹底が不十分だからだという米国流の新自由主義的価値観の攻勢によって、変質を余儀なくされていく。前述の世論調査で「強まったもの」の第2位は「お金が一番」という考え方であることが、日本人の倫理観の変質を示しているのではないだろうか。

◆おわりに

1952年4月、日本は独立を果たす。6年8カ月にわたった占領が終わったのだ。しかし、日本には米軍基地が残り、現在でも約4万5千人の米軍人が駐留している。日米安保条約があるからである。次稿においては、ダワーが日本を閉じ込める「檻(おり)」のようだと表現する平和憲法と安保条約の補完的関係について、その背景と成立の経緯を整理し、何が問題かについて考えてみたい。

<参考図書>
『敗北を抱きしめて(Embracing Defeat)上・下 増補版』(ジョン・ダワー著、三浦陽一・高杉忠明訳、岩波書店 2004年〈初版は2001年、原書出版は1999年〉)

(*注1)ダグラス・マッカーサー(1880〜1964)は、米国陸軍元帥。日本占領時の連合国軍最高司令官。1945年8月30日に厚木飛行場に降り立ってから1951年4月にトルーマン大統領解任されるまで約6年間同職にあり占領を代表する人物であった。野心家で大統領選挙への出馬を目指したが果たせなかった。なお、GHQは「General Headquarters」の略。

(*注2)進駐軍は1946年初めの段階がピークで40万人を数えた。その年の終わりには20万人、翌年は12万人に減少していく。

(*注3)本書では、5年間で44万通としている。また、日本の各地から多くの贈り物も届けられた。

(*注4)本書では、マッカーサーの方針に最も影響を与えたのは、マッカーサーの軍事秘書官であり、戦争中は対日心理戦の責任者であったボナー・F・フェラーズ准将だとしている。フェラーズは戦時中のレポートで「天皇の処刑は、日本人全員の大きく激しい反応を呼び起こす」とし、軍国主義者との間の「くさび戦略」を主張した。なお、フェラーズの従姉妹グエンは日本の外交官寺崎英成の妻であり、寺崎はGHQとの交渉のパイプ役となった。映画『終戦のエンペラー(原題:Emperor)』(2013年日本公開)はハリウッド的脚色を加えてあるものの、このあたりの背景を真面目に描いており、日本に好意的だという印象を持った。その分、米国での興行成績は散々だったようである。

(*注5)本書では、「天皇が退位問題を真剣に考えていたことは明らか」としている。東久邇宮(天皇の叔父、当時首相)の「退位の勧め」や、知識人から戦争の道義的責任を問う声もあった。しかし、最終的に自ら「退位しないことを決めた」とする。GHQは退位を求めることが出来たが、マッカーサーの方針は「(退位は)不要」であった。

(*注6)幣原内閣は1945年10月、法律学者の松本烝治を委員長として憲法問題調査委員会を設置した。松本案は天皇の統治総覧権を維持しており、GHQは委員会に憲法の抜本改正の意思はないと判断したとしている。なお、近衛も改正案作りに動いていたほか、各政党や在野の研究会から改正案が発表された。

(*注7)GHQ民政局の憲法起草委員会のメンバーは24人で軍人(職業軍人はいなかった)16人、民間人8人で構成された。本書は、「政治的立場は、共和党支持者のホイットニー准将から、ニューディール派のケーディス大佐まで多岐にわたっていた」とする。

(*注8)新憲法に対する日本共産党の反対理由は、①天皇制の存続は反民主的②自己防衛の権利の放棄は非現実的――であった。

(*注9)占領期間中、GHQ民間諜報局の民間検閲部(CCD)は、6千人のスタッフを抱えて秘密裏に検閲を行った。検閲運用基準は公表されず、GHQの削除命令をみながら禁止基準を想像する自主規制が身についたとしている。また本書では、原爆関連文書の削除命令は国民にタブーを認識させ原爆関連文書は姿を消し、フィルムは徹底的に隠蔽されたとしている。

(*注10)NHKが2014年に実施した「世論調査で見る日本人の特徴〜戦後70年の意識調査」。

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