п»ї 「資本主義の矛盾」(2)宇沢弘文の思想・「社会的共通資本」(2) 『視点を磨き、視野を広げる』第20回 | ニュース屋台村

「資本主義の矛盾」(2)宇沢弘文の思想・「社会的共通資本」(2)
『視点を磨き、視野を広げる』第20回

7月 11日 2018年 経済

LINEで送る
Pocket

古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆本稿の狙い〜「社会主義の弊害と資本主義の幻想」

前稿に続き、経済学者の宇沢弘文(1928〜2014)の社会的共通資本について考えていきたい。

19世紀末のローマ法王レオ13世の回勅(カトリック教会の指針を示す公的書簡)は、当時の資本主義の問題点の顕在化と社会主義への期待を背景に「資本主義の弊害と社会主義の幻想」と題された(*注1)。それから100年後の20世紀末に、法王ヨハネ・パウロ2世は新しい回勅「社会主義の弊害と資本主義の幻想」を出した。宇沢はこれを「社会主義の内部崩壊と市場経済制度への警鐘」であり、「人々が理想とすべき(社会主義でも資本主義でもない)経済体制は何かという問題提起であった」と解釈する(*注2)。そしてそれに応えるものが社会との関わりを重視する制度主義経済学だとするのである。

本稿では、制度主義経済学の中心概念である「社会的共通資本」について、その定義、社会的共通資本が直面する危機的現状と克服へ向けての宇沢の提言を知るとともに、今後の課題について考えたい。なお、本稿においては、前稿に続いて宇沢の『社会的共通資本』『経済学の考え方』『人間の経済』を参考とした。

◆社会的共通資本とはなにか

●社会的共通資本の定義

社会的共通資本とは、「社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準に従って管理・運営される」資本であると定義される。具体的には「自然環境」(土地、大気、土壌など)、「社会インフラ」(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)、「制度資本」(教育、医療、金融制度など)の三つに大別される。

社会全体の共通の財産という性格から、その管理・運営は、市場経済的な利潤追求型ではなく、各分野の職業的専門家によって、専門的知見と職業的規律にしたがって行われるべきだとされる。管理、運営はfiduciary(信用)の原則に基づいて信託されていると考えるのである。また、資本主義経済のもとでは、財・サービスは市場機能を通じて供給、分配されるが、社会的共通資本は、「市場を通じて取引されないで、社会的に管理され供給、配分される」と定義している。

このように市場機能に委ねない取引に社会的共通資本の特徴があるが、宇沢は、現実には資本主義的市場経済のもとで、社会的共通資本に対して市場化(=効率性基準の適用)が進められた結果、社会的共通資本は大きな問題を抱え本来の機能を十分に果たせなくなっていると批判する。特に農業、都市、学校教育、医療、金融制度、地球環境の分野に大きな問題が存在するとしており、その中で宇沢の主張が最もよく表れている自然環境、農業、金融における問題を具体的にみていきたい。

●社会的共通資本としての自然環境

社会的共通資本と聞いて最初に思い浮かぶのは自然環境であり、今や人類共通の財産であるという認識は世界的に共有されているといっていいだろう。しかしそこに至るまでには、工業化の進展の過程で生じた公害問題に苦しみながら克服してきたという歴史がある。宇沢にとっては、水俣病との出会いの衝撃が「経済学に対する考え方を根本的に変えた」(*注3)としているように、公害問題が「社会的共通資本という理論的枠組に到達する契機となった」とする。

現在、自然環境における世界的な課題は「地球温暖化」である。宇沢は国際会議で各国の所得水準に合わせた課税を基本とする「比例的炭素税(*注4)」を提案するなど各国の合意形成に努力を続けた。その根底には、化石燃料の大量消費による地球温暖化は「産業革命の必然的帰結」であるという問題意識がある。なぜなら伝統的な社会では自然資源を持続的な形で利用することで資源の保全を図ってきたが、産業革命(=資本主義化)によって、利潤獲得のために自然の生産手段化が行われたからである。したがって資本主義システムそのものの変革がなければ、自然の持続的な利用はできないと考えて社会的共通資本という枠組みを構想したのである。

しかし、温暖化対策を巡っては先進国と途上国の利害は対立しており国際的な合意形成は容易ではない。温暖化対策に尽力した宇沢は2014年に亡くなったが、地球温暖化のための国際的な枠組みである「パリ協定(*注5)」は、交渉難航の末、当時のオバマ大統領の主導によって2015年12月に成立した。しかし、その後トランプ大統領に代わって米国は離脱を表明し、協定の実効性に懸念がもたれている。

●社会的共通資本としての農業

宇沢は、日本の農業は存続の危機にあると考える。戦後の農政(農業基本法1961年)は農業を一つの資本主義的産業ととらえて効率性基準を適用した。一戸一戸の農家を独立した生産単位(経営単位)として考えたのである。しかしこれでは規模の経済が生かせず、社会的分業の誘発効果発生の余地にも乏しいため、農家数、農業従事者は減少し農業は衰退したとする。

また、農業は工業部門と異なり、自然と共存しながら生産活動を行い、それは主体的意思に基づく生産活動であるから「自己疎外」がないことが強調される。前々稿『マルクスの思想』でみたように、人間の社会は本来は人と人との関係によって成り立っているが、私的所有を前提とし分業と機械化によって特徴づけられる資本主義的生産様式にあっては、人と人の関係が、(労働力の商品化を通じて)物と物の関係になることによって、人間が(過去の慣行の集積である)社会から分離されるという「自己疎外」が起こる。人間本来の「生」を取り戻したいと望みながら、資本主義的生産様式のもとでは労働力を提供せざるを得ないために「生」から分離され苦しむのである。

米国の社会学者ダニエル・ベル(1919〜2011)は、わたしたちが生きる現代社会は、資本主義経済が求める「効率性」と近代主義文化が求める人間らしくありたいと願う「生き方」の相克が生じていると指摘するのも同じ意味であり、資本主義が抱える矛盾である(*注6)。それを救うヒントが農業にあるという宇沢の主張への共感の拡がりは、都会でのサラリーマン生活を捨てて田舎で農業を始める若者が増えているという事実が示しているのではないだろうか。

しかし宇沢は、農業が現代社会で生き残るためには、市場機能のネットワークの中に何らかの形で存在しなければならないと考える。そのための鍵が、「コモンズ」という概念にある。「コモンズ」とは共同利用地を意味し、日本においては「入会(いりあい)」(*注7)がそれにあたるが、宇沢は農業を農家という経営単位ではなく、農村(100戸前後の規模を想定)でとらえようという意味で使っている。こうしてはじめて工業部門における工場や企業と対等な立場で市場経済的な競争が可能となるからだ。コモンズのルールは国家権力が介在するのではなく、管理、運営はコモンズを構成する人々の集団(コミュニティー)から「fiduciary(信用)の原則」に基づいて信託されていると考える。日本の森林の入会制、灌漑溜池、農業の協同組合がその例として挙げられている。

戦後の日本農業は、新古典派的効率性重視の立場から常に批判的に語られてきた。こうした流れに対して農協を中心に抵抗しつつも次第に譲歩を強いられ、効率性要素の導入が進んでいるのが現状だ。批判する側は新古典派的「効率性追求」を正義とした議論を繰り広げ、一方農協は既得権益化している分野の防衛にのみ目がいき、日本の農業のあるべき姿が真剣に議論されないのである。

宇沢は、こうした現状を憂い、前述のように農業を「農村」単位でとらえるべきだという考えに基づき、新しい事業形態である「農社」に期待をかける。「農社」は、生産だけではなく加工、販売、研究開発も含めた活動を行う会社のような存在だ。それは一定の規模と経営的観点を持つ組織をもつことで市場経済の中で存続しうることを目指している。

●社会的共通資本としての金融

宇沢は、20世紀末から現在まで世界の金融は危機的状況にあると考え、1930年代の大恐慌時の米国の金融危機にそのルーツを見いだす。当時の米国はニューディール政策によって危機を乗り越えたのであるが、就任したルーズベルト大統領がまず取り組んだのが金融システムの改革であった。制定された「1933年銀行法」(グラス=スティーガル法)法は、中央銀行の権限の大幅な強化、金融と証券業務の分離、預金金利の上限設定、銀行持株会社の規制、預金保険制度の創設を主な内容とした。宇沢は、これらの政策は「銀行制度を一つの社会的共通資本とみなし、経営に社会的な基準を設けて銀行が果たすべき本来的な機能が発揮できる条件を整備したものであった」とし、さらに「ニューディール政策は、リベラルな政治的運動の形成によって可能となったが、その背後にはソースティン・ヴェブレンを中心とする制度学派経済学の考え方があった」としている。

しかしその後のベトナム戦争による経済的、社会的混乱を背景に、マネタリズムや合理的期待形成仮説などの反ケインズ経済学が勢力を増し政策に影響力を及ぼしていった。金融の規制緩和は1970年代に進められ、1980年には「預金金融機関規制緩和・通貨管理法」が成立し、金融機関に対する大幅な規制緩和が行われた。その後も金融自由化の流れは止まらず、仕上げは銀行と証券の分離を撤廃した1999年の「金融サービス近代化法(ブラム・リーチ・ブライリー法)」であった。これによってニューディールの金融規制は姿を消し金融自由化は完成した。宇沢は、その帰結が2008年9月のリーマン・ショックであったとするのである。

では金融自由化の何が問題であったのか。リーマン・ショックに例をとって考えてみたい。金融機関は社会的厚生の増大(消費者にとって利益)という表看板を掲げて金融自由化を求めるが、真の目的は資本の要請による収益拡大にある。しかし、自由化は他産業からの新規参入を容易にして競争が激化し、むしろ利ざやは縮小する。銀行を中心とした既存の金融機関は、それを回避するために、より利ざやの大きな(リクスの高い)分野への融資を増やす。そうした流れの中で生まれた商品の一つが金利の高い低所得者向けの不動産担保融資(サブ・プライムローン)であった。また、大手金融機関は海外業務を増やしユーロドル取引(ローン、債券)が拡大したが、これによって金融市場のグローバル化、一体化が進んだ。それは米国の金融危機が、米国内にとどまらず瞬時に世界に波及することを意味した。そうした流れに拍車をかけたのが、ローンの証券化であり金融工学を活用したデリバティブ取引(金融派生商品と呼ばれるスワップ、オプションなどの取引)であった。

詳しい仕組みは拙稿第5回『世紀の空売り』を参照いただきたいが、サブプライムローンの最大の問題点は、ローン債権を証券化することで案件を組成・販売する側は誰も責任を取らない仕組みであったこと、最終投資家から原債権が見えず損失の所在が不明確になったこと、購入した商品は市場性がなく価格も投資銀行が算出した価格を信用するしかなかったため問題が顕在化しにくい構造であったこと――が挙げられる。この結果、著しいモラルハザード(倫理観の欠如)が生じた。さらに金融工学を利用して既存の証券化商品を裏付けとして人為的に債券をつくり出して保険会社や欧州の金融機関に販売するに至って、被害が遥かに大きく複雑なものになってしまったという特徴を持つ。金融のグローバル化の中での金融危機は一国の問題にはとどまらなくなっているのである。

サブプライムローンによって米国の投資銀行をはじめとする金融機関は巨額の収益を手にしたが、自ら作り上げた錬金術的虚構に幻惑され、仕組みが破綻した時に莫大な損失を計上して世界の金融システムは危機に陥った。米国政府は巨額の税金を投入して金融機関を救済したが、その代りに、再びこうした金融危機を招かないように銀行に厳しい規制をかけた(2010年のドット・フランク法)。

利益を上げれば上げるほど増す資本の要請、業界が複雑かつ専門的で儲けが大きいほど起こりやすいモラルの崩壊、手段であるはずの貨幣に魅入られた人間の愚かさ(貨幣の物神化)といった金融危機に表れる特徴は、米国だけの話ではなく日本のバブル期においても見られたものだ。危機対策で巨額の税金が投入され、責任をとった関係者はほとんどおらず、弱い人達が被害にあったという点もうり二つであった。

宇沢は、金融は高度に専門化しており、職業的専門家によって管理・維持されなければならないとするが、同時に「職業的規範を明確化し、市場における構造的、制度的条件を整備し、経済循環の安定性を確保することは至難のことである」と嘆く。また「金融制度が国際的な広がりを持つためその困難度は一層高まる」と警告している。しかし、現在の金融規制によって収益機会を奪われたと考える米国金融機関はむしろ規制緩和の圧力を強めており、トランプ大統領はそれに応えようとしている。資本の自己増殖本能は人間の欲望を刺激することで、再び同じ歴史を繰り返そうとしているのである。

◆おわりに〜社会的共通資本の課題

●社会主義の弊害と資本主義の幻想

冒頭のローマ法王ヨハネ・パウロ2世の回勅「社会主義の弊害と資本主義の幻想」が意味するものは、社会主義は大きな問題を抱えて自壊したが、資本主義も矛盾を内包していることを常に念頭に置くべきという警句であった。その後の現実は法王の指摘の通りとなり、資本主義のもたらす不平等の拡大は現在の世界が直面する大きな問題となっている。そうした現状を克服し、資本主義でも社会主義でもない第三の道を目指す試みが社会的共通資本の制度である。

資本主義の矛盾とはなにか。資本主義は、経済成長を生み出して社会を豊かにするが、それによって不平等を拡大するという矛盾を内在している。政府の役割を拡大し財政支出で需要を創造しながら、社会保障を拡充することで痛みを緩和しようというケインズ政策は、いったんは成功したかに見えた。しかしこの政策は経済成長を前提としており、市場が成熟して成長率が低下すると持続が困難になってくる。そうした状況変化を背景に世界的に成長重視の新自由主義的な経済政策が採られた結果、再び不平等が拡大しているのが現在の先進国の現状だ。そうした資本主義の弊害を緩和するために社会的共通資本という概念を明確化し、「各人がその多様な夢とアスピレーション(願望)に相応(ふさわ)しい職業につき、それぞれの私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で安定的な家庭を営み、安らかで、文化的水準の高い一生を送ることができるような社会」を目指すべきだというのが宇沢の主張だ。

では社会主義の弊害とはなにか。社会主義国の失敗の原因の第一は、私有を否定して国有としたが、国有だと一生懸命に働く動機を失うという人間の性質を見誤った点にある。原因の第二は、計画経済における非効率性を克服できなかったことである。さらに計画経済を精緻(せいち)に実行しようとすれば管理社会になってしまうというジレンマを抱えていた。宇沢は、こうした社会主義の失敗を教訓として、社会的共通資本による公有という概念を提起する。私有でも国有でもない公有におけるルールを設定することで、効率性と自由のバランスをとろうという仕組みであり、社会主義の非人間的な側面をなくそうという試みなのである。

●社会的共通資本の課題

宇沢が目指す社会的共通資本の理想は、崇高、至誠で、「人のため、社会のため」に生きた宇沢の姿勢と相まって心を打たれる。しかしながら、理想を実現するには様々な課題が思い浮かぶ。最も大きな課題は、資本の自己増殖運動には時間的、空間的限界がないという点にある。資本は容易に国境を越えて活動していく。特に貨幣というフィクションのうえに成り立っている金融はそうである。金利や為替は、国が違っても相互に関連しあい、世界は一つの市場として機能している。

しかし制度主義においては、上部構造(政治、文化)が下部構造(経済)を規定すると考えるため、社会的共通資本の管理は一国の「経済社会の制度的特質を表現したもの」になるとする。したがって本来的に一国内の論理であることから国際間の連携が課題となる。特に金融は各国の政策連携による適切な規制が不可欠な分野である。しかし、国によって金融の発展度合いや経済に占める位置づけは大きく異なり、金融システムの優劣によって利害が対立することが多い。また米国にとって金融分野は優位にあることから、自由競争の論理を前面に出して他国に対して規制緩和を求めることが基本戦略だ。米国資本主義にとって金融分野は、さらなる富を生み出す最重要フロンティアの一つであるからだ。こうした環境の中で金融分野における国際的協調による規制強化を志向することは、社会的共通資本にとって今後の大きな課題と言えよう。

また、宇沢が理想とするものと現実とのギャップがあまりに大きいと感じる点も指摘しておきたい。宇沢の理想主義的姿勢の基本には人間理性への絶対的な信頼があると思う。ここで宇沢がコモンズを理解するための例としてあげる「共有地の悲劇」の例をとりあげたい。これは、米国の生物学者のガーレット・ハーデンが提起したもので、「(例えば共同利用する牧草地のような)共有地を(放置しておくと)必然的にそのキャパシティを超えて過剰利用され、再生の能力を失って崩壊せざるを得ないという命題」だ。この例を巡っては、経済学の流れのなかで正反対の二つの考え方が主張されてきた。一つ目は、新古典派の考えで、「共有地の悲劇」は希少資源(*注8)の私有制が欠如しているために起こるとする。共有地を構成員に配分して私有地にしたほうが、各人が工夫をこらして効率化に努めるので全体としては生産性が上がるという主張である。もう一つが、制度学派の考えで、私有にするから過剰利用につながるのであり、共有地の利用に管理ルールを設けることでそれを防ぐという考え方だ。社会的共通資本の概念は後者の主張に立脚している。

しかし、社会的所有がよいか私的所有によって効率を高めるほうが良いかの線引きは、簡単ではない。また人間は不完全な存在であり、欲望に弱い。そして資本主義はその人間の欲望を最大限に利用して資本の自己増殖を図るシステムなのである。人間理性への絶対的信頼だけで、資本主義システムに打ち勝つことができるのであろうかという疑問が残るのである。

宇沢の社会的共通資本には強い共感を覚えるのであるが、大きな課題があるのも事実であり、現実的かつ具体的な解決策を模索する試みの継続が必要である。次稿では、宇沢の社会的共通資本を発展させた松原隆一郎の「共有資本」の概念について考えてみたい。

<参考図書>
『経済学の考え方』宇沢公文著 岩波新書、1989年
『社会的共通資本』宇沢公文著 岩波新書、2000年
『人間の経済』宇沢公文著 新潮新書、2017年

(*注1)1891年5月にレオ十三世によって出された回勅「レールム・ノヴァルム(新しきこと)」は、「資本主義の弊害と社会主義の幻想」という副題がつけられ、宇沢は「経済学の考え方に大きな影響を与えた」としている。

(*注2)1991年5月にヨハネ・パウロ2世は新しい回勅を出し、それは「社会主義の弊害と資本主義の幻想」と題された。なお回勅作成に当たり、宇沢は法王にアドバイザー就任を求められ、この副題を意見具申したことを感動的な思い出と記している。(『人間の経済』より)

(*注3)1970年に米国から帰国した宇沢は水俣病の患者と初めて接し、衝撃を受ける。「高度経済成長の影の部分を直視させられた経験は、…人生観まで変えた」としている。

(*注4)「比例的炭素税」は、大気中に放出される二酸化炭素の排出に対して税を徴収する「炭素税」の税率を、一律ではなく一人あたりの国民所得に比例させる制度。先進国と途上国の公平性を保つために構想された。

(*注5)「パリ協定」は、2015年12月にパリで開催された第21回気候変動枠組条約締約国会議(COP21)で採択された多国間の協定。2017年製作の米国のドキュメンタリー映画『不都合な真実2』(同年11月日本公開)に舞台裏での先進国と途上国の駆け引きが描かれており興味深い。なお、2017年6月に米国のトランプ大統領は離脱を表明した。

(*注6)拙稿第3回『資本主義の文化的矛盾』を参照されたい。

(*注7)「入会(いりあい)」は特定地域の住民が、慣習に基づいて、一定の山林原野または漁場を共同で利用し、草・薪炭材・魚介などを採取すること。(出所:コトバンク;デジタル大辞泉)

(*注8)「希少資源」とは、利用可能量が欲求にくらべて相対的に限定されている資源。財・サービスを生産するために、希少資源を効率的に配分するメカニズムを研究することが経済学の課題。(出所:コトバンク;世界大百科事典)

コメント

コメントを残す