小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住20年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
東南アジア華僑の「大立て者」で、タイ最大の銀行であるバンコック銀行のチャトリ・ソーポンパニット会長(以下チャトリ会長)が2018年6月24日永眠した。享年84歳であった。
チャトリ会長は1934年2月28日、中国広東省潮州市出身の華僑2世としてバンコクで生まれた。18世紀初頭より徐々に西欧列強に侵略されていた中国・大清帝国は、1840年から始まる英国とのアヘン戦争で決定的な敗北を喫する。この後、合法化されたアヘンにより中国は著しく荒廃し、力を失っていく。福建省や広東省北部は元々山岳地帯で耕作面積が多くなく貧しい土地である。この地の人々はアヘン戦争以降、貧しき地域に耐えかね、香港や東南アジアなどに働き口を求めて移住していった。これが中国の第三次海外移民である。バンコック銀行の創始者であるチン・ソーポンパニットもこうした中国系移民の一人であった。
◆厳しい状況下の華僑に救いの手
チン・ソーポンパニットは当初、バンコクの中華人街に進出済みの同郷華僑商人のもとで、荷物運び人(強力〈クーリー〉)として仕事を始めたと聞いている。当時、華僑の大半は依然として本拠を中国本土に構えて出稼ぎに来ていたのである。
1937年に日中戦争、1941年に第2次世界大戦が始まり、タイは日本の同盟国となる。西欧列強による植民地化を免れたタイは、日本の同盟国となることにより、日本軍による進駐を受けず独立を守った。こうした第2次世界大戦のさなか、1944年にチン・ソーポンパニットは軍人・役人など総勢6人の株主の1人としてバンコック銀行の設立に参加する。それまでの既存銀行が預金集めにしか興味がなかった時代に、いち早く商人間の決済業務に目をつけたようである。
1945年8月15日、日本の全面降伏により第2次世界大戦が終結。タイは同盟国協定書「日泰攻守同盟条約」の書類不備などを理由に、同盟国協定の無効を主張し、戦勝国から認められて占領を免れる。一方、中国国内では再び、中国共産党と中国国民党による内戦が勃発。1949年10月1 日に中国共産党による中華人民共和国の建国が宣言された。同時に、海外に移住した華僑たちが中国国内に帰ることが禁止される。東南アジアなどに展開した華僑にとって「帰る場所」を失った瞬間である。バンコック銀行の創始者の一人であるチン・ソーポンパニットはバンコクに残り本業であった建設資材販売会社の運営に専念していたが、1953年にバンコック銀行の2代目頭取を任される。
一方、タイ以外の華僑には過酷な運命が待ち受けていた。西欧列強の植民地と化したタイ以外の東南アジア諸国において、西欧列強は華僑を通して現地住民の支配を行った。このため、華僑は長期間にわたって現地住民弾圧の最前線に立たされていた。しかしこれが東南アジア諸国各国の独立により、立場が逆転したのである。
華僑は現地住民からの「憎しみ」と「妬(ねた)み」の対象となり、現地住民からたびたび襲撃を受ける。こうした厳しい状況下の華僑に救いの手を差し伸べたのが、チン・ソーポンパニット率いるバンコック銀行だったのである。
1954年の香港支店、1955年の東京支店を皮切りにバンコック銀行はアジア各国にいち早く支店を開設し、東南アジア華僑の貿易決済ならびに貿易関連貸出を担っていく。バンコック銀行が東南アジア全体の「華僑繁栄の立役者」となるのである。
◆プレーム議長への恩義に常に報いる
私が東海銀行国際企画部次長だった1996年、当時の西垣覚(さとる)頭取の随行として、フィリピン最大の銀行であるメトロ銀行を訪問した時のことである。メトロ銀行創始者であるジョージ・ティー会長が「私はバンコック銀行のチャトリ会長をよく存じ上げている」と唐突に自慢されたのをよく覚えている。フィリピン最大の銀行の会長が自慢げにバンコック銀行との関係を公言するほど、バンコック銀行ならびにチャトリ会長の名声はアジア中に響きわたっていたのである。
チャトリ会長は香港の大学を卒業後、1969年に弱冠30歳の若さでバンコック銀行の役員に就任。チン・ソーポンパニットの大番頭であったブンチュー・ロッチナサティアニ元頭取のもとで英才教育を受け、47歳の時だった1980年に頭取に就任にした。
「1980年代初頭は、バンコック銀行はタイ国内の金融業務シェアの80%を占有していた」と何かの本で読んだ記憶がある。まだ貨幣経済が農村に浸透せず、かつバンコク都内の華僑取引をバンコック銀行が一手に引き受けていたことを考えると、この80%という数字はあながち間違いではないだろう。
ところが、80年代初頭にタイ経済は大不況に見舞われる。当然のことながら、バンコック銀行も倒産の危機に遭う。この時、自らテレビ出演し「バンコック銀行は絶対につぶさない」と宣言してくれた人物が、当時のプレーム・ティンスーラーノン首相(現枢密院議長。以下プレーム議長)である。
プレーム議長は1978年から2年間陸軍司令官を務めた後、1980年から1988年の長きにわたってタイの首相を務めた。それまで内紛に明け暮れていた軍部の一本化に成功したプレーム首相は、プミポン前国王の判断を仰ぎつつ積極的に国民融和を図り、プミポン前国王の権威を高めていった。一方、タイ国内で当時地下活動を行っていた共産主義勢力に対し、懐柔策を用いて徐々にその勢力を抑えて平和構築を実現。「半分の民主主義」と呼ばれるタイ独特の政治体制を築き上げ、最終的に民政移管を成し遂げたタイの歴史に残る名宰相である。この名宰相がバンコック銀行を救ってくれた。当時のプレーム首相の一言が預金引き出しに走るタイ国民の心を鎮め、引いてはタイの経済を救ったのである。もしあの時、バンコック銀行が破綻(はたん)していたら、タイの国家そのものも破綻していたかもしれない。
この一大事以降、チャトリ会長はプレーム議長への恩義に常に報いるようにしていた。プレーム氏は首相退任後、バンコック銀行の役員に就任。チャトリ会長はほんの数年前まで毎月1回、プレーム議長を招いて昼食会を開いていた。私がたまに行内の役員エレベーターでチャトリ会長およびプレーム議長といっしょになると、チャトリ会長は必ず私をプレーム議長に紹介してくれたが、その度にプレーム議長は穏やかな笑顔を私に向けられた。チャトリ会長はその強面(こわおもて)な顔つきとは裏腹に「昔受けた恩義は絶対に忘れない」という信義あふれる人物であった。
◆「世界3大優良銀行」の一つに育て上げる
頭取就任直後にタイの大不況に遭遇し危機を乗り越えたチャトリ会長は、その後東南アジアの発展とともにバンコック銀行を東南アジア最有力の銀行に育て上げていった。私は東海銀行入行以来、10年弱の現地勤務を含め主に米国関連の仕事をしてきた。このため1980年代のアジアの動きはよくわかっていない。しかし当時の東海銀行国際部のアジアグループの最大の関心事は「いかにバンコック銀行との取引を深耕させるか」にあった。もちろん、シンガポールやインドネシアなどとの取引も志向していたが、職場の中でアジアグループの人たちから最もよく聞く銀行名はバンコック銀行であった。
これは何も東海銀行だけの話ではなかった。三井銀行、東京銀行、日本興業銀行、富士銀行など当時の多くの邦銀は、バンコック銀行との関係がいかに親密かを誇示し合っていた。この現象は邦銀だけでなく欧米の銀行も同様であった。米モルガン銀行やアメリカ銀行の東京支店長からもバンコック銀行の名前はたびたび聞かされた。タイの国力を反映して規模は大きくないものの、圧倒的な収益力と財務基盤、国内シェアなどから80年代から90年代半ばまでバンコック銀行は「世界3大優良銀行」に選ばれていたのである。
このようにバンコック銀行ならびにチャトリ会長の名声はアジアに響きわたっていた。当時のタイは、銀行ならびに行員による一般事業会社の株式取得に制限がなかった。民間企業への融資とともに、株式を取得するのが一般的であった。さらに将来の支店開設に備えて不動産投資も積極的に行っていた。こうして株価や不動産価格の上昇により、90年代初頭にはチャトリ会長は「アジア最大の金持ち」と見なされていた。
1997年1月、私は前述の西垣覚東海銀行頭取(当時)の随行として今度は返還前の香港に出張した。チャトリ会長の実兄にあたるロビン・チャン氏が経営する亜州商銀集団の新年パーティーに出席するためである。パーティーの前日には特別客だけの夕食会が催された。私はここで初めてチャトリ会長にお会いした。アムヌアイ・ヴィラワン前大蔵大臣などを臣下のごとく引き連れ、その威風堂々とした態度に圧倒された。「さすがにアジア最大の権力者である」と感心したのを、今でも鮮明に覚えている。(以下次号に続く)
(注)チャトリ会長の生前の正式な役職は「役員会議長」だが、本稿では日本人一般になじみの深い「会長」とした。
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