古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆本稿の狙い
不平等や人間疎外という資本主義の弊害に、どう立ち向かえばよいのかを教えてくれる思想を探ってきた。今回は、松原隆一郎(*注1)の「共有資本」と「不確実性―社会的規制」について考えてみたい。
はじめに経済学の思想をおおまかに整理しておきたい。経済学には三つの大きな流れがある。世界の主流は新古典派経済学(ミクロ経済学)であり、それに対抗するのがケインズ経済学(マクロ経済学)である。この二つは近代経済学と呼ばれる。残る一つはマルクス経済学だが既に影響力を失っている(*注2)。
新古典派経済学とケインズ経済学の最大の違いは、市場経済に関する考え方にある。新古典派は、市場の機能を絶対視して皆が合理的に行動すれば市場は常に均衡すると考える。市場に問題があるのは、合理性の不足と解釈するのである。これに対してケインズ派は需要の不確実性に注目し、市場は常態だと不安定になると考える。需要が不足したとき(不景気)は、政府が公共投資(財政政策)によって需要をつくり出す必要があるとするのである。前者の流れには、政府の役割をできるだけ小さくして(小さな政府)市場経済に委ねようという新自由主義的政策があり、米国の共和党の経済政策である。一方、後者は政府の役割を重視する(大きな政府)米国の民主党の基本政策だ。1930年代の不況を需要不足だとしたケインズ派のニューディール政策によって、米国経済は復活し1950年代の黄金期を迎える。しかし、その後のベトナム戦争の影響もあり米国経済は行き詰まってケインズ派が勢力を失い、新古典派が主流となっていく歴史は前稿でご紹介したとおりである。
これに対して日本ではケインズ政策が長く継続された。この背景には、後述するように自民党による公共事業の政治的利用があったにせよ、政府の役割を重視するケインズ政策が日本社会に合っていたからだろう。しかし、その日本もバブル崩壊後の経済の行き詰まりを背景に、「構造改革」の名のもとに新自由主義的政策の影響力が増しているというのが現状である。
本稿でとりあげる松原隆一郎は、ケインズ派の経済学者であり新古典派経済学に対して批判的立場にある。新古典派経済学の理論的枠組みを「効率―公正」モデルと呼び、合理的(効率的)に行動する個人という前提に疑問を投げかけ、市場の「不確実性」を考慮していないとして批判する。そしてそれに対置するモデルとして「不確実性―社会的規制」を提唱し、「共有資本(Common Capital)」という概念を提示する。
本稿では、松原の著書『経済政策』に基づき、「共有資本」と「不確実性―社会的規制」について考えたい。なお、「不確実性」とは「(大震災のように)予期しない出来事が起きる、あるいは頻度が低すぎて確率について確かなことが言えない状況」と定義され、リスク(「確率が過去のデータ蓄積からおおよそ経験的にわかっている」)と区別される。
◆「共有資本」と「不確実性―社会的規制」モデル
●「共有資本」とは何か
松原は「共有資本」を「本源的生産要素であり、長い時間をかけて自生的に生成したもの」と定義する。前稿で取り上げた宇沢弘文(*注3)の「社会的共通資本」は、自然・社会インフラ・制度資本の三領域から構成されていたが、そこから社会インフラと制度資本を「公共財」として除いたものが松原のいう「共有資本」といえる。人工的な供給が可能な「公共財」と区別して考えるべきだとするのである。
「共有資本」は「人間関係資本」、「自然資本」、「文化資本」からなる。「人間関係資本」とは、家族やコミュニティーのように他の人々とのつながりを指す。ここから労働力が生み出されるのであり、労働法による保護(「社会的規制」)が必要とされる。「自然資本」は、土地、海洋、森林、河川など人間が余剰を取り出すことができる生態系であり、資源を生み出す。「文化資本」は文字や芸術作品であり、技術・知識を生み出す。
●「不確実性―社会的規制」モデルについて
企業は他社との競争が避けられず、その競争に勝つためには経済合理性(効率性)の追求が必要である。企業人として訓練されると、経済合理性の物差しで社会の慣行を眺めることが常となる。そのせいで社会慣行や規制という言葉を聞くと、条件反射的に「抵抗勢力」や「岩盤規制」のイメージが思い浮かぶようになってしまう。しかし松原は、規制には経済的規制と社会的規制があり、経済的規制は合理性で可否を判断してもよいが、社会的規制は経済合理性だけで判断してはいけないと説く。社会的規制かどうかの見極めが必要だということだ。
「社会的規制」の必要性を労働に例をとって説明したい。労働者は生活のために市場で労働力を売って対価(給料)を得る。しかし市場の競争的論理が、家族やコミュニティーという「人間関係資本」の維持を破壊してはいけない。そのため労働法という「社会的規制」によって労働条件を整備する必要があるということになる。これに対して、新古典派の「効率―公正」モデルは、どの市場も同じですべての規制はなくすべきと考えており、労働も例外ではない。「社会的規制」という概念がないのである。
「人間関係資本」を、今国会で成立した「働き方改革」関連法案との関係において考えてみたい(*注4)。同法案の骨子は、①時間外労働の上限規制②同一労働同一賃金③裁量労働制(の適用範囲拡大)④高度プロフェッショナル制度創設(以下「高プロ」)――であった。野党は①②は賛成したが、③④には反対した。与野党の対立点は、政府は③④を働き方の多様性に対応するものと主張するのに対し、野党は対象範囲が拡大されていけば一般の職場にも適用される可能性が高いと考えている点にある。私は、①②は労働を守る社会的規制なので賛成であるが、③④は野党と同じく範囲が拡大されると人間の労働を破壊してしまう可能性があると懸念している。国会は、法案の根拠となるデータが杜撰(ずさん)であったこともあって紛糾し、結局③は見送られたが④の「高プロ」が成立して野党、労働者団体側は反発している。
今回、働き方改革の動きが政府側から出てきた背景には、安倍政権の方針転換がある。政権は、労働力不足が現在の日本経済の最大の課題だと判断し、「働き方改革」を第二次アベノミクスの中心に位置づけているのである。首相の肝いりで、首相や主要閣僚、経団連会長、連合会長を含む有識者からなる「働き方改革実現会議」(*注5)を設置して議論を重ね、今回の法案につながった。このように経済環境が変化して政権側も動いているので、労働者側の要望を通す好機と言えるだろう。そうした流れの中で今回、人間の労働を守る「社会的規制」である「時間外規制」と「同一労働同一賃金」が実現したことは、大きな一歩だと評価されるべきである。今後、野党・労働者側は、「高プロ」を含めて法案実施に向けての省令のチェックや運用面での問題点把握に注力するとともに、なし崩し的な範囲拡大が起きないように粘り強く交渉を続けてほしい。
松原は、「社会的規制」について当事者の「自己規制」と「時代に沿った再編」の継続が不可欠だと指摘する。この言葉を私は次のように理解している。「自己規制」とは、企業は人間の社会のためにあるのであり、逆ではないということだ。「時代に沿った再編」とは、慣習なり制度が崩壊するとき、それに代わる大きな枠組みの形成が必要なときがあるということだ。特に労働に関してそうであり、労働者を守るという機能を果たしてきた日本型経済モデルが崩壊しつつあるにもかかわらず、それに代わる新しい仕組みが確立されていないので社会に様々な歪(ひず)みをもたらしているのだと思う。
●「公共財」と「国土強靭化」
松原は、「共有資本」のように「自然発生的・本源的」に生成される財ではなく、「人工的・二次的」に生成されるが、同様に社会全体にとって重要な財を「公共財」として定義している。「公共財」は、「私有財」と違って市場で「売買されにくい」という特徴を持つので公的機関が管理・運営に関わる。ダムや堤防、道路、警察、消防、国防などが代表的公共財とされる。松原は「競合性」と「排除性」という概念を使って「公共財」によっても違いがあることを次のように説明する。なお、「競合性」とは「消費した分だけ消滅して他人が同時に等量を消費できないこと」であり、「排除性」は「他人が消費できなくするように排除しうる、そして排除するのに費用がかからないこと」を指す。「私有財」は両方の特徴を持つが、「公共財」はこれが当てはまらない財をいう。
「公共財」のうち、非競合性と非排除性を同時に満たす財・サービスを「純粋公共財」(国防、伝染病の検疫、防災計画、NHKの地上波テレビ放送)と呼ぶ。また排除性はあるが競合性がない財を「クラブ財」(有料道路、衛星テレビ、映画館)、排除性はないが競合性がある財を「コモンプール財」(道路、公園、図書館)に分類する。(*注6)
公共財は社会の福祉や利便性の向上に役立つが、それを生み出す公共事業という言葉には、無駄な施設をたくさん造ってきたという芳しくないイメージがある。この背景には戦後の経済政策が公共事業の景気浮揚策としての側面に重心を置いてきたという歴史がある。もっとストレートに言えば、自民党によって利益誘導や選挙対策といった政治利用されてきたということだ。松原は、公共財の整備が一段落した1970年代に政策転換が必要だったと批判するが、現在では公共事業費は大幅に削減されており、政府による公共事業の「費用と便益分析」が機能しているとみる(*注7)。むしろ将来の不確実性への対応という観点から、政府が取り組む国土強靭(きょうじん)化(national resilience)計画の重要性を指摘する。これは震災のような大災害(不確実性)が起こった場合に被害を最小限にとどめるために焦点を絞った公共投資が必要だという考えだ。「resilience(レジリエンス)」とは強い「しなやかな強さ」という意味で、首都圏直下型(死者最大1万1千人、経済被害112兆円)や南海トラフ型(同32万人、同220兆円)クラスの地震が起こっても、「致命傷回避」「被害最小化」「回復迅速化」を図ろうという計画である。「国土強靭化」においては堤防や耐震化といったハード面は公共財が担うのであるが、同時に人間関係資本(絆)や自然資本(自然との共生)といった共有資本が持つソフト面の貢献が必要だと訴えている。今回の西日本豪雨においても、地域でのコミュニティー単位の防災意識の違いが生死を分けた事例が報告されているように、ソフト面の重要性が再認識されている。
●「共有資産」としての労働
「共有資本」の概念においては、自然とならんで労働や文化が重要視される。しかし小泉構造改革以降、労働を単なる生産要素と考え、市場原理の一層の導入を図ろうとする動きが続いている。松原は、この結果、現在の日本では雇用に関する不安が高まっており、経済にも大きな影を投げかけているとみる。非正規雇用の拡大と正規雇用との格差、正規雇用であっても成果を求める過大なプレッシャーや慢性的な長時間労働の存在は、働く人々の心に不安を生みだし「労働」の将来像を不安定なものにしている。今は良くても、いつ何時、突然の支出の増加や収入の減少がわたしたちを襲うかもしれないという不安だ。こうして不確実性が高まり、人々はお金を使わなくなり需要が縮小する。これが日本経済の現状だとするのである。
こうした労働に関する将来不安の解消こそが、「不確実性」の軽減につながるのであり、そのために必要な「社会的規制」が政策に反映されるべきという意見である。全く同感であり、今回の働き方改革をその第一歩と位置づけ、労働に対する不安解消に地道に取り組んでいく必要がある。ただしその際には、戦後の日本において社会的規制として労働を守ってきた日本型経済モデル(*注8)が崩壊しつつあるという全体的な視点が必要だと考えている。労働だけの問題ではないということだ。日本型経済モデルの評価については、次稿で考察したい。
◆結論
松原が提起する最も重要な論点は、主流派経済学である新古典派経済学の「効率―公正」モデルが前提とする「経済合理性の追求が人間に幸福をもたらす」という思想への批判にある。すなわち経済合理性の追求は、行き過ぎると社会慣行をすべて非合理的存在として押しつぶしてしまうからである。「共有資本」は、効率性の追求だけでは枯渇する分野を意味しており、そこには自然だけではなく労働や文化が含まれている点が重要なのである。
わたしたちが生きる現代社会は、「近代」思想を「正しい」という前提で形成されてきた。近代思想とは、経済においては資本主義、政治においては民主主義、文化においては個人主義を基本とする(*注9)。松原は、新古典派経済学の「効率―公正」モデルは、市場の自由に立脚する効率性の追求と民主主義的「公正」を絶対的な「価値」としている点で、「資本主義+民主主義」モデルに「馴染みやすい」と指摘する。豊かで民主主義的な社会で生活したいと考えるならば資本主義が必要だということだ。しかし、資本主義が求める合理性(効率性)の追求は、自分らしく生きたいという個人主義文化と対立する。例えば働き方改革の問題に置き換えてみると、資本主義が要請する合理主義の徹底は、労働における際限のない「選別と序列化」に行き着く可能性がある。正規と非正規の「選別」であり、それぞれの雇用階層の中で「生産性で人を測る=評価」を通じての「序列化」である。これに対して自分らしく自由に生きて自己実現を図りたいという価値観を貫こうとすれば、自己分裂を起こすしかないのである。
ここで資本主義の矛盾の問題に立ち戻ることになる。今までの論考で、「現代資本主義の危機」と表現したが、資本主義は環境変化に合わせてどんどん変化して生き延びる強さをもっていることがわかった。その資本の自律的な自己増殖運動の過程でわたしたちの生の場である社会を壊していくことが問題なのである。資本主義の危機ではなく、わたしたちの社会の危機ととらえたい。
資本主義は格差や人間疎外といった問題を引き起こして社会を不安定化する。その矛盾を解消するとして期待された社会主義は失敗し、現在までのところ資本主義に代わるシステムは存在しない。松原の「不確実性―社会的規制」モデルは、資本主義の私的所有と市場機能の活用を前提とした経済システムという基本的な枠組みは認める。そして、わたしたちの社会が積み上げてきた慣習や制度のうち「共有資本」と呼べるものを見極めて、法律の枠組みを伴った社会的規制によって、資本主義の論理の適用から守るべきだというのである。それによってしか、わたしたちの生きる場所を確保していく方法はないのではないかと考えている。
<参考図書>
『経済政策―不確実性に取り組む』松原隆一郎著 NHK出版、2017年
『日本経済論―「国際競争力」という幻想』松原隆一郎著 NHK出版新書、2011年
(注1) 松原隆一郎(1956〜)は社会経済学を専攻する経済学者。東京大学名誉教授、放送大学教授。本人はケインズとハイエクの影響を強く受けているとしている。
(注2) 拙稿第16〜18回『マルクスの思想』を参考されたい。
(注3) 宇沢弘文(1928〜2014)は数理経済学者。シカゴ大学教授、東京大学名誉教授。詳しくは拙稿第19、20回『宇沢弘文の思想』を参照されたい。
(注4) 働き方改革関連法案は、労働基準法をはじめとする8本の労働法の改正を目的に今国会に提出され、今年6月に成立した。
(注5) 働き方改革実現会議は、安倍首相を議長とし、榊原経団連会長や神津連合会長のほか、有識者から成る。10回開催され議事録が首相官邸のHPに公開されている。新聞報道によれば、神津会長は連合にとって悲願の「残業上限規制」と交換条件で「高プロ」を容認したが、後に内部から批判され一転して反対に回ったとされる。
(注6) 共有資産の危機は私有財の侵食によって引き起こされるが、松原は、公共財のうち「コモンプール財」も「共有資本」と対立する可能性があることを指摘する。例えば、ダム建設によって魚が遡上できない、街が再開発によって賑わいを失うなどである。街の景観や賑わいは共有資本と考えるからだ。
(注7) 公共事業の規模は、平成10年の14兆5千億円をピークに減少し、平成30年は6兆円であった(財務省HP)。
(注8) 日本型経済モデルとは、戦後の日本経済、社会を特徴づける慣行の集積をいう。「終身雇用制」、「(賃金の)年功制」、大企業と下請け企業の「長期的取引慣行」、「株式の相互持ち合い」などである。松原は、それは結果として労働を守ることになったと評価している。
(注9) 拙稿第3回『資本主義の文化的矛盾』(ダニエル・ベル)を参考されたい。
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