古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆本稿の狙い
今回は、野口悠紀雄(*注1)の『1940年体制―さらば戦時経済』を取り上げる。野口は、「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別組合」「間接金融優位」といった特徴をもつ「日本型経済システム」は、自然に形成されたのではなく戦時期の総力戦体制下で政府によって意図的に作られたとして「1940年体制」と名付ける。松原隆一郎(*注2)は、同システムは制度・規制・慣行の集積であり戦後に形成されたとしており、これが通説である。しかし野口はシステムの起源を探ることで、その本質を明らかにしようとするのである。
初めて本書を読んだときには衝撃を受けた。当時は既にバブルが崩壊し「日本型経済システム」への否定的な意見が多く出ていた。わたしもその影響を受けて、日本のシステムは欧米先進国と比べて遅れており変更すべきだが、文化や伝統に基盤を持つので簡単に変えられないと信じていた。そうした常識的見方に対し、野口は戦時の総力戦体制の中で政府によって強制的に作られたシステムであることを明らかにし、だから変えることができると強く訴えかけたのである。後で知ったことであるが、歴史学者の間では1980年代から戦後体制の原型を戦時期に求める「総力戦体制」論が盛んに研究されていたようだ。その意味で野口だけの主張ではないのであるが、経済学の観点から「日本型経済システム」の本質を明らかにし、その後の環境変化に合致しなくなった同システムを変えるべきだという主張は大きなインパクトを与えたのである。
本稿では、「日本型経済システム」の原型が戦時体制下でどのように形成されたのか、なぜ占領期を生き延びて戦後の高度成長に最適なシステムとして機能したのか、また野口の問題意識はどこにあるのかを探りたい。
◆「日本型経済システム」の形成
「日本型経済システム」は、戦後の高度成長を支えた。したがって当然戦後生まれだと思い込みがある。敗戦による戦前の全否定と、占領による民主化政策の輝かしい成果という二項対立的構図がわたしたちの脳裏に刷り込まれているからだ。
しかし野口は、思い込みをものの見事に否定する。戦前と戦後は太い線でつながっているというのだ。すなわち、戦後の産物と思っていた「日本型経済システム」は、1940年前後に戦時体制整備のために政府によって強制的に作られたとして、その形成過程と背景を次のように明らかにする。
・日本型企業:戦前の工場労働者は職能給で流動性が高く勤続年数は短かった。1920年代に国家要請による生産増強が求められた重化学工業の大企業に、従業員の定着率を高めるための終身雇用制や年功序列賃金体系が始まった。政府は、「国家総動員法」(1938年)を敷いて、物価統制の一環として初任給から定期昇給まで全ての賃金を統制した。こうした戦時経済体制によって年功序列賃金体系や終身雇用制が全国に広がった。また同法は、配当制限(固定率の適正配当を保障)、株主権利の制約を行い、利益の剰余分は経営者や従業員への報酬、社内福祉に分配された。この結果、企業は利潤追求組織から従業員中心の組織へ変質したのである。また、企業別労働組合は戦時の「産業報国会」に起源を持つ。製造業の下請け制度も、軍需産業の増産の緊急措置として導入された。こうして「日本型」と呼称される企業形態が形成されていった。
・間接金融:戦前の株式市場の規模は戦後と比較しても対GDP(国内総生産)比で大きい。この事実が示すように、企業の資金調達は株式と社債による直接金融が主体(1931年は86%が直接金融)であった(*注3)。しかし政府の配当制限によって株式市場が低迷したため、長期資金を銀行融資で供給する必要が生じ、政府主導で間接金融優位に移行していく(1945年には93%が間接金融)。間接金融は戦時体制にある政府にとって、資源を軍需産業に傾斜配分するために適していたこともこうした動きの背景にあった。統制は次第に強化され、軍事産業の「指定金融機関制度」がとられたが、これが戦後の金融系列の始まりである。また統制の一環として銀行の整理統合が行われた。銀行数は、466行(1935年末)→186行(1941年末)→61行(1945年末)と激減した。この体制は戦後もそのまま残され長く続いた(*注4)。
・官僚体制:明治以来の近代的官僚制度は、民間経済活動の保護・育成を主眼としていた。しかし、昭和恐慌(1930〜31年)を契機に経済統制が始まった。1930年代半ばから「事業法」による事業活動への介入が強化される。業界団体の「統制会」が作られ、それを通じて官僚が経済統制を行った。主導したのが革新官僚(*注5)と呼ばれる官僚たちであった。彼らは、「企業目的は(利潤追求ではなく)国家目的のための生産性向上という思想」をもっていた。また革新官僚は、政治家や財界に対して強い不信感を抱いていたが、これはそのまま戦後の官僚に継承されている。現在の官僚たちは、明治時代以来の伝統的官僚ではなく「戦前期の革新官僚の子孫」といえる。なお経団連のルーツも、この「統制会」にある。
・財政制度:戦前期は地租や営業税など外形標準課税が中心であったが、1940年に戦争に備えて税収安定を目的に給与所得の源泉徴収制度が導入された(*注6)。また法人税が導入され直接税中心の税制が確立された。こうして税財源の中央集中化が図られ、補助金を通じて地方財政をコントロールする体制ができて現在に至るまで続いている。
・土地制度:「食糧管理法(1942)」によって地主の地位が低下した。「借地法・借家法(1941)」は、借地・借家人の権利を強化した。こうした土地制度の変革によって、(i)大地主がいない社会(大衆社会)となった、また(ii)大多数の世帯が地主となった。(i)は、「経済成長が社会全体の目的」となることで、(ii)は「政治的な保守性と現状維持志向の基本的条件」を形成することで、戦後日本社会の基本的性格を規定した。
◆戦後の高度成長に最適なシステム
戦後の日本経済の発展は占領軍による経済民主化政策(農地改革、財閥解体、独占禁止法、労働立法)が基盤を作ったとされる。また、平和憲法と日米安保が可能にした軽軍備・経済重視政策が優秀な官僚によって主導され、長期政権による安定的政策遂行があいまって高度成長をもたらした。これが「戦後日本がなぜ高度成長ができたのか」という問いに対する一般的な答えである。
しかし、野口はそうした要因の寄与を「無視できない」としつつも、「経済の基幹的部分では、「1940年体制」がはるかに重要な役割を果たした」とする。戦後の日本経済は、重化学工業、輸出産業が主導したが、「1940年体制」によって確立された「日本型企業」と「間接金融システム」が、両産業の成長に次のような働きをしたとするのである。
「日本型企業」における終身雇用と年功序列賃金を軸とした雇用慣行は、技術革新による職種転換を可能としたし、労働力の定着力の高さが企業内研修による技能向上を効果的にした。また、企業別労働組合によって新技術導入に対して労組が協力的であったし、共同体としての企業は、内部昇格と手厚い福利厚生を通じて勤労意欲を高めた。
間接金融方式による資金供給は、高度成長期に必要とされた成長分野(重化学工業、輸出産業)への資源配分を可能にした。戦前期(1930年代半ばまで)の産業資金供給は株式と事業債が中心であったが、既にみたように1930年代後半から貸し出しが増えて比率は逆転する。総力戦体制下では間接金融方式での資金の流れを統制によってコントロールする必要があったからであり、戦後も同様の理由によって継承された。人為的低金利政策がとられ基幹産業と輸出産業に資金を重点的に供給した。人為的低金利政策は金利規制と行政指導による競争制限のための店舗規制によって実現された。また「外国為替管理法」によって国内金融を国際金融から遮断(しゃだん)した。こうした「戦時体制」を維持した金融統制によって資本集約的戦略産業(重化学工業)や輸出産業への資金の重点配分が可能となり、高度成長実現の条件が整備されたのである。
◆「1940年体制」は占領時代になぜ生き残ったのか
敗戦により日本は連合軍の占領下におかれた。占領の目的は敵国であった日本の非軍事化であり、将来の脅威を排除するために政治、経済の民主化を推進した(*注7)。経済民主化においては、公職追放(民間企業の経営者を含む)、内務省の解体(戦争遂行の中心官庁)、財閥解体(海外市場を欲し戦争の原因をつくった)のように戦争を起こした要因とみなされたものが排除され、日本経済の仕組みが大きく変わった。しかし、官僚機構そのものは生き残った。野口は「政府機構における戦前との連続性は驚くべきものである。消滅したのは軍部だけであり、内務省以外の官庁は、殆どそのままの形で生き残った」とする。大蔵省の役人であった野口は、自分の経験から人事の年次序列が戦前から完全に連続性が維持されていたと述べている。
なぜ官僚機構が生き残ったのかについて野口は、①占領政策が間接統治方式であり官僚機構を必要としたこと②占領軍の改革方針は不明確で日本の経済システムを根底から変える意図はなかったこと③冷戦の激化で占領政策が民主化から共産主義への防波堤作りへと変化したこと(「逆コース」)――を理由にあげている。さらに、米国には日本の官僚制度に関する十分な知識がなかったことやGHQ(連合国軍総司令部)内部での意見対立も背景にあったとしている。
官僚機構と並んで生き残ったものが金融制度であった。野口の解釈は、当初占領軍は、間接金融から米国型直接金融中心への抜本的な金融改革案をもっていたが、大蔵省・日銀の抵抗と連合軍総司令部の無理解もあって実現しなかったというものである。中でも、独占的支配力のある企業の分割を目的とした「集中排除法」の適用を金融機関が免れたことによって、戦時体制の金融構造が温存されたとするのである。
◆野口の問題意識―「1940年体制」の何が問題か
野口は、「1940年体制」が「高度成長実現の基本的要因」となったこと、成長がもたらした豊かさが「あらゆる階層の国民が等しく享受した」ことを積極的に評価する。問題は、「高度成長が終了したあとも、そこから転換がなされなかったこと」だとするのである。
日本経済に関する野口の問題意識は、東アジア(特に中国)の発展という環境の大変化に対応するためには、大量生産中心の製造業からの産業構造の転換が不可欠だという点にある。目指すべきはハイテクや情報処理などの高付加価値産業であるが、「1940年体制」が構造改革の障害となっていると批判する。特に「日本型企業」は、1990年代以降、終身雇用の実質的崩壊、非正規雇用の増加などによって変化がみられるとしつつも、依然その閉鎖性が企業間の労働移動を阻害している点が問題だと考える。第一の問題点として、企業間の労働力移動、特に経営者の移動が無いことを指摘する。市場が存在しないのは、大企業の幹部は「経営の専門家でなく、その組織の内部事情の専門家」であるからだと辛辣である。第二の問題点は、「利益の獲得を罪悪視し、従業員の共同体的性格が強い組織の存続を何よりも重要な目的とする」点にあるとする。また財界も、外資を排除することに熱心で、資本主義の論理を否定しているとする。人と資本で日本を外に向けてもっと開くべきだと主張するのである。
日本型企業の雇用慣行は、新古典派の「効率―公正」モデル(市場を通じた効率性の追求)の前提が通用しない雇用慣行であった。野口はグローバルスタンダードに合わせて雇用慣行を変更すべき時期だと訴える。その論拠として、「1940年体制」という戦時体制の特殊性を強調し、「日本的なもの」というのは思い込みに過ぎないとする。そして本書を「グローバリゼーションの中で、鎖国から脱却しよう」と結んでいる。
◆前編のまとめ
本書の論点は二つある。第一は「1940年体制」という視点をどう捉えるべきか、第二は、同体制の特徴である資本、労働の閉鎖性が日本経済の長期停滞の原因であり開放型に転換すべきという主張についてである。
二つの論点に関する野口と前回取り上げた松原隆一郎の主張は対照的なので、両者を比較することで本書の論点を整理したい。まず、松原は「日本型経済システム」を自然発生的な制度・規制・慣行の集積と見ている。野口は、システムの諸要素の原型は戦時体制に適合するように政府によって強制的に作られたと考える。「日本型経済システム」が高度成長に貢献したと評価する点は同じであるが、松原はそれらの「構造」が市場の不確実性を縮減させることで高度成長に寄与したとする。一方野口は、システムが大組織による垂直統合型大量生産に適していたからだと考える。さらに、その後の経済環境の変化に対する対応についても意見が分かれる。野口は、「1940年体制」は生産者優先主義の理念を持ち製造業の大規模生産に適していたが、新興国の台頭で先進国の製造業が優位性を失った。日本は脱工業化の進展を図り、垂直統合型大企業システムから分権システムへの移行が必要だが、最後に残った日本型企業(終身雇用、年功序列賃金、産業別労働組合など)がもつ人材と資本の閉鎖性がその障害となっていると考える。しかし松原は、日本型経済システムの崩壊によって市場の不確実性が増加していることが将来不安につながり消費が伸びない原因であると経済への影響を指摘する。さらに労働分野において人間労働を守るために不確実性を抑制する仕組み(社会的規制)が必要だと説く。
第一の論点である「1940年体制」についての本書の分析は説得力がある。その視点は、現在の経済や社会の仕組みの背後にある本質を射抜く力を持っていると思う。ものの本質が明らかになると、所与としていた経済や社会の仕組みが違って見えてくる。政府が強制的に作ったものならば、変えることも可能だと分からせてくれたことは大きな功績であり、野口の視点は貴重だ。こうした戦時体制に現在につながる諸要素を見いだすという手法は、「総力戦体制」論と呼ばれる歴史学者の議論と深い関連を持つ。しかしながら、野口の主張には「総力戦体制」論が提起する歴史観と大きな隔たりがあるように感じる。そしてそれが次の第二の論点に関する野口の主張への違和感につながってくるのである。
第二の論点に関する野口の主張、すなわち労働市場をグローバルスタンダードに合わせるという意見には同意し難い。野口は前稿で見た「効率―公正」モデルの立場に立って市場を通じた合理性、効率性の徹底を説いている。これに対し松原は「不確実性―社会的規制」モデルの立場から労働に関する社会的規制の必要性を主張するのであり、松原の主張により納得性を感じるのだ。
今回の二つの論点については、後編でさらに考えたい。
参考図書
『1940年体制―さらば戦時体制』野口悠紀雄著 東洋経済新聞社(2010年増補版、なお初版は1995年)
『経済政策―不確実性と社会的規制』松原隆一郎著 NHK出版(2017年)
(*注1)野口悠紀雄(1940年〜):大蔵省出身の経済学者。一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論、日本経済論。
(*注2)松原隆一郎(1956年〜):放送大学教授、東京大学名誉教授。専攻は社会経済学、経済思想。拙稿第16回マルクスの思想で松原の『経済思想入門』(ちくま学芸文庫)を参考図書とした。
(*注3)戦前期日本の株式市場の規模はGDP比で1前後あり(1934年には約2.5あった)、戦後のそれ(高度成長期に0.2〜0.3)より格段に高い。また国際比較でも上場株式時価総額/GDP、株式売買高/GDPのいずれの比率においても米国より高い。(参考資料:『戦前日本における資本市場の生成と発展』 一橋大学経済研究:岡崎哲二、浜尾泰、星岳男、2005年)
(*注4)日本の銀行の歴史を調べると、多くが戦時期に合併を経験している。例えば三井銀行と第一銀行が合併して帝国銀行となったのが1943年。同じ年に三菱銀行が第百銀行を吸収合併しているし、三和(1933年)、東海(1941年)、埼玉(1943年)、協和(1945年)の各銀行は大合併によって生まれている。戦時期に形成された体制は、1990年代終わりの金融危機による長期信用銀行、都市銀行の再編まで続いた。地方銀行の再編は、金融環境の変化を背景にこれから本格化するものと思われる。
(*注5)革新官僚とは、国家の統制を強化することで日本を変えようとする官僚を指す。その政策は計画経済など社会主義的な要素があり、財界と対立した。岸信介(後の首相)、星野直樹(企画院総裁、A級戦犯)らが知られるが、戦後自民党だけではなく社会党(例えば和田博雄)に入って活躍する点に革新官僚が持つ社会主義的要素が現れている。
(*注6)源泉徴収制度は、18世紀末にナポレオン戦争の戦費調達を目的とした英国の例があるが、国民大衆を対象とした制度はナチス・ドイツが始めた。日本の制度はこれに倣ったとされる。(出所:Wikipedia)
(*注7)第13回〜15回の『敗北を抱きしめて』を参照されたい。
『視点を磨き、視野を広げる』過去の関連記事は以下の通り
第15回『敗北を抱きしめて』―占領と近代主義の全面的受容(3)
https://www.newsyataimura.com/?p=7262#more-7262
第14回『敗北を抱きしめて』―「占領による近代主義の受容」(2)
https://www.newsyataimura.com/?p=7218#more-7218
第13回『敗北を抱きしめて』——占領による近代主義の受容(1)
https://www.newsyataimura.com/?p=7130#more-7130
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