SurroundedByDike(サラウンディッド・バイ・ダイク)
勤務、研修を含め米英滞在17年におよぶ帰国子女ならぬ帰国団塊ど真ん中。銀行定年退職後、外資系法務、広報を経て現在証券会社で英文広報、社員の英語研修を手伝う。休日はせめて足腰だけはと、ジム通いと丹沢、奥多摩の低山登山を心掛ける。
今回は、米誌ザ・ニューヨーカー(9月1日)のヴィンソン・カニンガム記者が執筆した「ジョン・マケイン氏の葬儀がアメリカイズムの(権化であってそれを説いた)高僧を追悼し、異端者の首領を譴責(けんせき)した」(JOHN MCCAIN’S FUNERAL MOURNED AMERICANISM’S HIGH PRIEST AND REBUKED ITS CHIEF HERETIC)という記事の内容を紹介したい。
最近はあまり話題とならない過去の人のイメージの米共和党の重鎮マケイン上院議員の葬儀を感傷的に使って、トランプ大統領への怒りをあらわしている。その意味で、リベラル系メディアが激化させているトランプ氏への攻撃の典型記事とも言える。しかし、それと同時に、アメリカが世界の中心である意識を支えてきた理想とか大義が現職大統領によって無残に踏みにじられているとの焦りも読み取れる。そして、アメリカの良識、価値観はこんなにもろいものだったのか、と最後に括(くく)られるこの記事は、まさに難問山積の近時の世界にあって、アメリカ知識層の無力感と不安を感じ取れるものである。以下、全訳を紹介する。
◆アメリカ主義を説いた高僧マケイン氏
きちんとたたまれた星条旗に覆われたアメリカ合衆国上院議員ジョン・マケイン氏の棺(ひつぎ)は、彼の葬儀が行われる国立大教会へ土曜日の朝移動されるのに先立ち、議事堂の建物の中で丸屋根に覆われた部分の真下、ロタンダの中央に安置され、丸い輪になったの照明の下、赤と白の花に埋め尽くされた花輪に囲まれていた。そこに常時飾られている独立戦争の戦士たちや建国の父たちを顕(あらわ)す絵画や彫像は、同志愛をもってその柩を見下ろしているかのように見えた。その会場の設営に込められたメッセージは明らかである。彼が深甚な信頼の対象としてきたアメリカという国家と遂に一体となったのであり、彼の葬儀が進められる間、あるいはその後の時点において彼に寄せられたどんな称賛も、アメリカのより偉大な栄光に寄与することであろう。
土曜の早朝(9月1日)、ミネソタ州選出の民主党議員でマケイン氏同様退役軍人であるティム・ウォルツ氏は柩を訪れて写真を撮った後、ツィートした。「私は親しい友でかつ助言者に最後の敬礼を行う名誉に浴すことができた。上院議員マケイン氏の生涯はアメリカの精神を体現したのであり、彼の功績、犠牲ならびにリーダーシップに対し永遠に感謝するものである」と記した。ウォルツ氏の、友に対する明白で見事な親愛の情と最後に今一度彼の傍らにたたずみたいとする気持ちは、福音書の中で、(キリストの復活につながっていくエピソードである)イエス・キリストの墓を訪れる女性たちの話を思い出させるものである。
マケイン氏の政治家としての資質を一つ挙げるとすれば、それは困難な法案を好んで議会で通過させることではなかった。今では致命的に弱められてしまったマケイン・フェインゴールド法(選挙運動資金調達関連法)を成立させたことはむしろ例外というべきだろうか。あるいはあからさまに、注目度の高い選挙に勝利することを狙ったものというより、彼が一人の高僧として、そして今や聖人として、自らを重ね合わせた対象としての「アメリカという宗教」の教義を説き、かつしばしばそれを演じてみせることを好んだのである。
ウォルツ氏の早朝のツィートは、マケイン氏の巡礼の旅の証しとでもいうべきものであった。ウォルツ氏がマケイン氏逝去の後まもなくして公表した、マケイン氏による辞世文の中の神への恭順の言葉はこの上なく明白でわかりやすいものであった。
「わたくしが、軍隊で、また政治家として充足した人生を送ることができたのはアメリカのおかげである」。そして「自由、平等な正義、すべての人の尊厳に払われる敬意を包含するアメリカの大義につながっていることでつかの間の快楽よりも崇高な幸福がもたらされる」と、したためたのである。さらに、「われわれがわれわれである主体性、そしてわれわれの価値観がわれわれ自身のためではなく、より大きくすぐれた大義のために尽くすことによって制限されることもなく、より偉大なものに引き上げられるのである」と述べている。
自己超越を通して達成できる幸福と理性の成長は通常、国を愛するためではなく神にささげる祈りのために大事に留保され、マケイン氏の言う自由、正義そして敬意は、トーマス・ジェファーソン思想で解釈した聖パウロの善行リストに列挙される信心、希望と愛のようにも読める。マケイン氏は控えめに自己を表現するプロテスタントであって、聖書での神についてはさほど言及していない。しかし、アメリカイズム(アメリカ主義)を一つの教義と理解するならば、真のマケイン氏を全米をカバーする舞台
国立大聖堂で執り行われ、そしてその場所はいみじくもその名称が含意する哲学概念としての「総合」(synthesis)の一つの事例であったのだ。数曲の当たり前の讃美歌が歌われたが、「わが祖国汝の国」と「リパブリック賛歌」は最も敬虔(けいけん)な調子で、聞く人に訴えた。
宗教関係者がそこに列席し、キリスト教の教えに根差した言葉を述べたのであるが、マケイン氏の考えを思い起こさせる世界観から派生するもっと情熱的な式辞がジョー・リーバーマン氏、バラク・オバマ氏そしてジョージ・W・ブッシュ氏らの政治家たちによって述べられたのである。そして、最も感動的で、的を射た言葉はマケイン氏の娘で、父親と密接なのは父が抱く米国との一体感を深く理解しているからだろうと思わせる、そんなメガンさんから発せられた、イエス・キリストのように生き、行動しようとすること(Imitatio Christi)を最高の理想とする信者のごとく、マケイン氏は彼の挙動がアメリカ主義を繰り返し強調するとき最も彼らしく見えたのである。そのため、メガン・マケイン女史が「私たちはここにアメリカの偉大さの権化が去ったことを悼むために集まった。父が躊躇(ちゅうちょ)なく差し出した犠牲には決して近づこうとしなかった人物の安っぽいレトリックなどではなく、本物の言葉をなくしてしまった」と述べたことは至極当然である。(以下、全訳続く)
◆理想の異端者トランプ氏
それはもちろん、ドナルド・トランプ氏へのジャブである。そしてそのような「ジャブ」は葬儀において他の列席者から何回も繰り出され、最後にはそうすることがその儀式の目的のすべてであるかのように思えた。しかし、ここにマケイン氏の娘がその後に続いて弔辞を述べたどんな人物よりもうまく、正確に、彼女の父の信奉者たちが、着席していた大統領に対し軽蔑のまなざしを向ける当然のわけを語ったのである。
マケイン氏が、もし少なくとも象徴的にアメリカ主義を説く高僧だとするなら、トランプ氏は今やその理想の異端者である。そしてもし、マケイン氏の惜別の辞を最後の言葉として受け入れるとするなら、次のことが言える。トランプ氏は自分自身についてさえも含む、いかなる人の公平さ、自由そして尊厳に関しても省みることがないのだ。崇高さとは永遠に縁遠い人物なのだ。彼が大統領の座に上り詰めたことが、ある喪失を意味することもまた真実である。
彼の醜悪さと愚かさについての記憶は、将来に語り伝えられるとまではいわなくとも、存在するあらゆる世代の政治家たちを、野心的な理想を掲げることだけでは、深い尊敬はおろか、たとえうわべだけにしても敬意を払うに値する、良識ある市民あるいは政府の行動を担保するものとは信じさせないに違いない。
名前を直接に言及されることはなかったものの、トランプ氏に対し山と積み上げられたありとあらゆる軽蔑にもかかわらず、葬儀において答えが見つからずに残った点がある。まず、人は、相通ずるところが全くない国において権力の座に就くことが本当にあり得るのか? 白人の福音主義者たちと、詐欺的な「繁栄の福音書」の支持者によって最も熱烈に信奉されているトランプ氏は、マケイン氏と同程度にこの国に本来固有なアメリカ人であると考えるのが正しいのではないだろうか? トランプ氏はマケイン氏の説くものと同程度にアメリカに根差す一つの原理選択肢である、常に不安を感じて求める貪欲さ、深く考えることへの嫌悪、そして限りない拡大を体現しているのである。
ならば、次のことも言えるのではないだろうか。もし、アメリカ主義が善良で確かな永遠の真実を内に含むのであったとしても、それがいともあっけなく危機に瀕(ひん)し、激しくひっくり返されるとするなら、それはいったいいかほどに堅固であったものなのかを問わねばならない。(以上、全訳終わり)
※今回紹介した英文記事へのリンク
https://www.newyorker.com/culture/annals-of-appearances/john-mccains-funeral-mourned-americanisms-high-priest-and-rebuked-its-chief-heretic
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