п»ї 積分形式の美意識、もしくは圏論としての哲学 『WHAT^』第12回 | ニュース屋台村

積分形式の美意識、もしくは圏論としての哲学
『WHAT^』第12回

12月 26日 2018年 文化

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。


中国系の作家リー・キット(※参考1)の美意識は積分形式だと思う。ニュートン力学に慣れ親しんだ世代の美意識は微分形式であり、変化や運動が主題となる。形式的な美意識について深く探究したセザンヌは、腕のない胸像のように、キャンバスにも描かれない部分を残した。その描かれない部分が作家と鑑賞者の立場を逆転して、描かれないことすら感知できない作品がリー・キットの作品だ。安価なプロジェクターが描かれないスライドを写しているかのように見える壁面は、作家が密(ひそ)かに作った壁面で遮(さえぎ)られている。

関数の最大値を見つける問題を古典的に解くのが微分形式のニュートン法で、現代的に解くのは積分形式のモンテカルロ法であり、変数の数が100を超えるような問題で、乱数を大量に作成して計算するモンテカルロ法の威力は破壊的ですらある。微分形式の美意識を破壊してみよう。リー・キットは政治活動が苦手と言っているし、古い道徳観を持っているとすら発言する。しかし作家の政治意識は微分形式の民主主義を破壊して、すぐれて現代的な問題を見据えている。選択肢が限定された多数決でしかない微分形式の民主主義ではなく、過去から未来への全ての可能な経路を網羅する積分形式の民主主義は可能なのだろうか。

最近の哲学の場合、すでに微分形式や積分形式といった解析学の呪縛(じゅばく)から離れ、すぐれて代数化されている。マルクス・ガブリエルの「新しい実在論」は、多世界の中の実在を認めるけれども、世界を全て集めた「世界」は否定する。集合の集合は集合ではないと明言できるためには、集合論の束縛を離れ、圏論(カテゴリー)の言葉が必要だ。マルクス・ガブリエルは抽象的な哲学用語ではなく、日常言語で議論を進める。もちろん圏論の言葉は使わない。しかし、彼の論理は明らかに集合論や古典論理の限界を知り尽くして乗り越えようとしている。万能計算機は古典論理を愚直に実行しているのだから、古典論理はとても役立っている。しかし量子力学の論理やウイルスの論理は古典論理ではなさそうだ。圏論の論理はプログラムの論理的分析(意味論)に役立っている。ウイルスの意味論ではどうだろうか。「新しい実在論」はプログラムの実在やウイルスの実在を認める立場だ。哲学でも新しい志向性や感受性(哲学意識)が必要になっているし、新しい哲学として活躍している。

(参考1) リー・キット「僕らはもっと繊細だった。」(2018年、原美術館)https://www.haramuseum.or.jp/jp/hara/exhibition/243/

(参考2) マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(2018年、講談社選書メチエ)

WHAT^(ホワット・ハットと読んでください)は何か気になることを、気の向くままに、写真と文章にしてみます。それは事件ではなく、生活することを、ささやかなニュースにする試み。

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