SurroundedByDike(サラウンディッド・バイ・ダイク)
勤務、研修を含め米英滞在17年におよぶ帰国子女ならぬ帰国団塊ど真ん中。銀行定年退職後、外資系法務、広報を経て現在証券会社で英文広報、社員の英語研修を手伝う。休日はせめて足腰だけはと、ジム通いと丹沢、奥多摩の低山登山を心掛ける。
前々回の第37回、前回の第38回に続き、米誌ザ・ニューヨーカー(4月8日)の記事「The day the dinosaurs died(恐竜が死んだ日)」を紹介します。筆者はアメリカ自然史博物館のライター兼編集者のダグラス・プレストン氏で、前文(リード)には「ひとりの若手古生物学者が、地球上の生命の歴史で最も重要な出来事の痕跡を発見した可能性がある」と書かれています。この種のテーマはおよそ門外漢の私ですが、話の内容が衝撃的で興味を持ち、つい引き込まれてしまった形です。
原文記事(本稿末尾にリンク先を明示)には興味深い写真も何枚か掲載されており、ぜひご覧いただくようおすすめします。なお、原文記事はかなりの長文にわたるため、今回は計3回のうち、前回の第38回に続く最後となる「下」を紹介します(以下、抄訳)。
◆採取された標本が物語るもの
私はこれまでに多くの古生物学発掘現場を見てきたが、この場所におけるように標本がかくも多く、かくも素早く見つかった事例を知らない。
たいていの発掘は退屈なものである。何日も、何週間もほとんど成果が得られないまま過ぎてゆく。デパールマ氏は30分おきに注目すべき発見をしているように思われる。デパールマ氏がこの現場を初めて訪れたとき、最もよく知られたトリケラトプスに代表される白亜紀の恐竜種の腰骨が、地表にその一部が露呈しているのに気づいた。
何年も前に業者が採掘を試みたのである。その場に放置され長い間の雨風にさらされバラバラになっていた。デパールマ氏は最初それを「ゴミ」として無視しながらコレクターの無責任さを非難した。しかし、後になって重い骨がどのようにして、洪水の水面の高さに近い点にまで運ばれたのかを不審に思った。
彼は言う。「それは浮いた状態で流されたに違いない。それも乾燥した組織に包まれた状態で。これは隕石衝突の瞬間に少なくとも1頭の恐竜種が生きていたはずであることを示唆しているのだ」
彼は後で腰骨に付着していた、ケラトプス恐竜のスーツケースくらいの大きさの化石化した皮膚を見つけている。ある時点において、デパールマ氏は砂によって洗い流されて露出している堆積層の写真を撮ろうとした。
彼は断面を縦にうまく削り取って、色を判別するために噴霧器の水をふりかけた。底の部分の層は色々入り混じっていた。最初の水流の力で泥、砂利そして岩の層がはがされ、数片の焼け焦げた(あるいは燃え続けていた状態の)木が現れた。
次にデパールマ氏は、水差しのような形の痕跡がうっすら残る堆積土の壁面に近づいてじっくり見た。それはKT層の最上部でトンネルが始まり下に行くにつれ、太くなっていく丸い穴となり、それには周りとは色の違う土が詰まり、硬い砂岩の底部で止まるまで続いていた。底の部分より下の層は何の影響も受けていない。トンネルは小動物が土を掘り進んでつくった隠れ家のように見えた。「それは動物のねぐらだろうか?」と、私は尋ねた。
デパールマ氏は大型ナイフでその部分の土を薄くそいで噴霧器で水をかけた。彼は「あなたの言う通りですよ。小恐竜のねぐらではない。ほ乳類のものだ」と指摘した(動物のねぐらはそこに住む種ごとに違った形をしている)。
彼は岩から数インチの距離まで目を近づけて凝視し、大型ナイフの端で触れながら探った。「驚いた。ねぐらの主はまだ中にいると思う」
彼はねぐら全体をそれごと壊さずに取り出し、持ち帰ってCTスキャンにかけ、中身を見ることにした。彼は「白亜紀の哺乳動物のねぐらは信じられないくらい稀だ。でもこれについてはあてはまらない」と言う。「KT境界層の真下から掘り出されたのだ。ねぐらの主の哺乳動物は多分、隕石衝突を生き延び、凍える暗闇の世界は逃れたもののやがて死んだのだ。白亜紀に生まれ暁新世(ぎょうしんせい)の時代に死んだことになるのだろう。考えたら笑えるよ。6600万年後に、汚い猿人が、何が起きたかを知りたくて掘り出しているのさ。もしそれが新種と分かったら、あなたの名前を付けてあげましょう」(抄訳続く)
◆デパールマ氏の研究室で見たもの
それからさらに5年間、デパールマ氏は同じ現場で発掘を続けた。そして、世間を騒がせない形で、ウォールター・アルバレス氏を含む5、6人のKT層に関する著名な権威者たちと彼が発見した内容を共有し、その人たちからの支援も得た。冬の間、現場に行かないときにはデパールマ氏は、ボカラトンにあるアトランティック大学に勤める同僚の研究所で標本の分析を行った。
2014年4月に初めて研究所を訪れた際、長さ3フィート幅18インチ(90センチ×46センチ)の岩の塊が明るい照明を受け大きな拡大鏡の下、テーブルに置かれていた。岩塊はチョウザメとヘラチョウザメを、多くの小さい魚の化石と、なかにテクタイトがある一つの完全なクレーターとともに取り込んでいた。岩塊の下の部分は、大乱気流の中で飛散し、着地した破片物、骨の細片そしてテクタイトを含んでいた。
岩塊は衝撃について、微少な生態系において何が起きたのかを物語っている。 彼は「それは最悪の日だった。この2匹の魚を見てください」と言いながら、チョウザメの背中にある鋭いウロコを示し、これらはヘラチョウザメの身に突き刺さっていると説明した。つまり、一つの魚がもう一つに貫通しているのだと。
ヘラチョウザメの口は開かれ、テクタイトがエラの位置にまで押し込まれていた。恐らくその魚は呼吸をしようとして吸い込んだのであろう。デパールマ氏は「この魚は津波に襲われてからしばらく生きていたのだろう。口に入ってくる激流に抗い、生き延びようとむなしくもがくのに十分な間だけは」と話した。
デパールマ氏は徐々に大災害について起こり得た全容を解明した。たくさんの石炭、焦げた木、そして琥珀が現場で見つかっていることから判断して、発掘現場が水没するまでに周囲の森林ではすでに火災が起きていたと考えられる。
水はサーフィンをやるための渦巻き状態のようではなく、高くけたたましい濁流となり、どこにいるのかを見失った魚、植物、引き裂かれた動物の体の一部などを巻き込み、たどり着いたのである。そして、流されてきたそれらの動植物は、デパールマ氏の立てる仮説によると、水の流れが落ち着き、引いたのに伴って堆積物として残ったのである。
研究室でデパールマ氏は私に堆積物の断面を拡大して見せてくれた。そのほとんどの層の模様が垂直であったのに対し、いくつかは渦巻き状あるいは炎のような模様を見せていた。
デパールマ氏は5組のそのような模様層を発見した。彼は後ろのテーブルに置かれている岩塊に向き直り、拡大鏡をもってテクタイトに合わせた。平行に流れる線がその表面に識別できた。シュリーレン線(注1)であり、二つの異なるタイプの溶解したガラスの滴りが大気中に弧を描いてできたものである。(注1=岩石において主体部分とは組織や構成が異なる縞状の部分)
彼は立ち上がって、「さあ、これから特別なものをお見せしましょう」と言った。そして、木箱を開けアルミホイルで包まれた物体を取り出した。16インチ(約41センチ)の羽の化石の包みをほどいて、アールヌーボー様式のラリックグラスを扱うように(注意深く)自分の手にのせた。
彼は「最初に羽を見つけた際、私は驚きで20秒ほど言葉を失った」と話す。デパールマ氏は、鳥類の祖先であるクレタケオスに関する、世界に知られる権威者のラリー・マーチン氏の指導下で研究し、たくさんの翼の化石を見てきたのであり、このとんでもない物体に出合ったとき、すぐにその重大さを理解した。
「これを見てください」と彼は言う。ヘルクリークで彼が発見した恐竜の一つの種であるダコタラプターのものと思われる前足の化石を研究室のテーブルからつかみ出し、その骨にある一連の隆起箇所を指した。「これらはおそらく羽軸なのでしょう。この恐竜は前足に翼を生やしていたのです」。精密なコンパスで羽軸の直径、そして次に翼の化石の羽軸部分の直径を測った。両方とも3.5ミリだった。 彼は「合っている。このサイズの翼がこの大きさの脚とつながりがあることを物語っている」と指摘した。
彼はまた、隕石衝突に関連づけられる六方晶ダイヤモンド(ロンズデーライト)のきれいな見本をたくさん見つけていた。それは、隕石の中の炭素が衝突により、激しく圧迫されて何兆個にも及ぶ微細な粒子となって結晶化され、空中に爆風とともに吹き上げられ、やがて地上に降ってきたのである。
発掘現場での他のいくつかの発見についても挙げた。溺れたアリをいまだに閉じ込めていたり、微細テクタイトで詰まっていて水没したりした形跡のあるアリの巣、ハチの寝床、複数のトンネルや地下道を持つまた別の哺乳類の隠れ家、サメの歯、大きなウミガメの大腿骨(だいたいこつ)、少なくとも三つの新種の魚、巨大なイチョウの葉とバナナ科に属する植物、十数種に及ぶ新種の動物と植物、他のタイプの形状の動物のすみか――などである。
重い砂利とテクタイトが混ざり合っている堆積土の底に、デパールマ氏は欠けた歯と、ヘルクリークで見つかっているほとんどすべての種類の恐竜種の孵化(ふか)途上状態が確認できるものを含む骨、及びプテロサウルス翼竜の残滓を発見していると言う。
そしてそれらはすべて、それまではKT境界層より下の層で目撃されていたものである。研究価値の極めて高い化石としての、胎児を一つ抱えた孵化前の卵もそのままの形で発見している。それら卵と残留物によって、恐竜や主な爬虫類は運命の日においてはまだ絶滅の途上にはなかったことが示唆される。デパールマ氏は、ただ一度の試みで3メートル問題の解決と化石記録のギャップを埋めることに成功したのかもしれない。(抄訳続く)
◆決定的証拠の欠如と研究者の間に残る疑念
2013年の発掘可能な季節終了時点までに、デパールマ氏は現場が隕石衝突の衝撃によってつくり出されたと信じるに至った。しかし、それがいわゆるKT衝撃であると見なせる決定的証拠を欠いていた。それはKT衝撃ではなく似た時期に起きた別の巨大隕石衝突の結果だったかもしれない。
彼は「超絶の発見にはそれに見合った超絶の証拠が求められる」と述べた。もし、彼が集めたテクタイトが、チクシュルーブ衝突隕石と同様の地球科学的性質を示すのであれば、彼の主張は十分な論拠を持つことになる。チクシュルーブのテクタイト残留物は希少である。
その中で最も状態がいいものは、1990年にハイチの未開地を切り開いて通された道路から仰いで見る崖の上で少量塊収されたものである。2014年1月末、デパールマ氏はその地に行ってテクタイトを集め、彼自身が発掘した現場からのテクタイトと共にカナダの独立系研究所に送った。標本は同時に同じ機器を使用して分析された。その結果、両テクタイトの地球化学成分はほぼ完全に一致することが示された。
デパールマ氏の発見から最初の数年間は数えるほどの科学者だけがそれについて知っていた。そのうちの1人がカンザス大学でデパールマ氏の論文指導を行ったデビッド・バーナム氏であり、バーナム氏はデパールマ氏の発掘現場は少なくとも向こう半世紀の間その分野の専門家たちを忙殺させるだろうと予言している。
「ロバート(デパールマ氏)はこれまで聞いたことがないものをすごくたくさん手に入れている」とバーナム氏は話す。「テクタイトを含んだ琥珀だなんて、全く驚きものだ。恐竜の翼は素晴らしいが、動物のねぐらだって頭が混乱するほどすごいことだ。古生物学の『レガースタッツ』と言う用語は、多種の標本がほぼ完璧に保存されていて、言うなれば、化石で生態系が見られるような発掘現場のことを指す。有名な発掘現場になるだろう。教科書にも載るだろう。KT滅亡を描くレガースタッツになることだろう」と彼は続けた。
2016年9月にデパールマ氏はコロラド州での全米地質学協会の年次会合で発見について短く発表した。彼は、ガラスの小滴、衝撃鉱物と化石を産出したKT洪水地層の堆積物を見つけた、とだけ述べた。彼はその現場を古代エジプトの町にちなんで「タニス」と名付けたが、そこは映画「レイダース・失われたアーク(聖櫃)」で契約の櫃(ひつ)が眠っていた場所である。
短い発表ではあったが波乱を巻き起こした。ニューヨーク州ストーニーブルック大学海洋・大気科学大学院のカーク・コクラン教授はデパールマ氏が発見の内容を発表したとき聴衆から驚きのどよめきが沸き上がったのを憶えている。
(しかし、)何人かの科学者は慎重な反応だった。スミソニアン国立自然博物館のディレクターであるカーク・ジョンソン氏は、彼自身1981年以来同じ場所を調べており、ヘルクリークをよく知っている、と私に語った。彼は「私は注意信号を明るく赤く点滅させている。私は彼の話にかなり懐疑的で、作り話だと信じている」と言う。ヘルクリークにあるKT層の地図を作製してきたジョンソン氏は、自分の研究結果ではタニスはKT層の少なくとも45フィート(約13.7メートル)下の、KTよりもおそらく10万年は古い地層であると指摘する。さらに続けて「もしそれが彼の言う通りだとしたら、とてつもない発見なのだ」と。しかしジョンソン氏は、デパールマ氏の論文を読むまでは「(自分の考えは)定まらない」と明言した。
米国西海岸の著名な古生物学者でKT衝撃の権威でもある人物は「私はその発見には疑念を抱いている」と話した。「そのような発見については、様々な主張を様々な方法で学会に発表がなされてきた。何かすごいことを見つけたのかもしれないが、彼には針小を膨大にするとの評判がある」と。
例として、デパールマ氏のダコタラプターについての論文を取り上げた。その中でデパールマ氏は、骨は基本的にすべて一つの地域で塊集されたもので、そのうちの一部が恐竜で、また一部はカメのものであったが、彼はそれらをすべて一緒にして一つの動物の頭部としていた。その古生物学者はまた、外部の科学者がデパールマ氏の主張を評価することを難しくしている、タニスをめぐるデパールマ氏の過剰な秘密主義にも反対していた。
ジョンソン氏もまた、透明性の欠如とデパールマ氏の芝居がかった人格面に不安感を感じている。そして、「彼のプレゼンテーションのやり方には、彼の信ぴょう性にプラスにならない演出のあざとい一面が見られる」とも話す。
ほかの古生物学者たちは、デパールマ氏とその共同執筆者たちの批判が記録に残ることをよしとしていない。彼らはみな、来週発行される、米国科学アカデミーの会報に掲載される最終報告を見たいと願っている。
全米地質学協会での発表の後、デパールマ氏はタニスで起きたことについての彼の理論に根底的な問題があることに気づいた。KT津波が時速百マイル(約160キロ)以上の速さで移動したとしても2千マイル(約3200キロ)離れた発掘現場に到達するためには何時間もかかったであろうことが想定されるのだ。
しかし、(彼の説では)ガラス物質の大量降下は大地衝突から1時間以内に終わっていることになる。 そして(隕石粒子としての)テクタイトはまだ動いている津波の流れに降り続けていたことになる。タイミングの順序が全く合わないのだ。そして津波はタニスで35フィート(約10.6メートル)の水位の上昇を生じさせるには、その長い道のりの間に勢いが弱くなってしまっていたはずであった。(抄訳続く)
◆2011年3月の東北地方太平洋沖地震が与えたヒント
そこで、学会出席者の1人、リチャーヅ氏はセイシュ(注2)として知られる、奇妙な現象による波であろうとの説を掲げた。(注2=風・潮の流れ、地震、気圧などの変化によって周期的に起こる湖、内海、湾などの水面振動)。
大地震では地面の揺れが池、水泳プールや浴槽での水の揺れを起こす。リチャーヅ氏は2011年3月、日本の東北地方太平洋沖地震が、その30分後、津波など届くはずのない、ノルウェーの、さもなくば全く静かなフィヨルドの水面に、不可思議な5フィート(約152センチ)の波を生じさせたことを思い出した。
リチャーヅ氏はかつて、KT衝撃により地球上全体に生じた地震は、人類が過去に経験したうちの最大のものに比して1千倍は威力があったであろうことを推定している。その基準を当てはめてリチャーヅ氏は、その地震波はタニスに6分、10分そして13分後にそれぞれ到達したであろうとの計算結果を得た(地震波はそのタイプが違えば速度も違う)。
(隕石衝突による)無慈悲な地震は巨大なセイシュを引き起こすに十分な威力を備えており、ガラス物質の上空からの降下は北アメリカでも数秒、数分の後に始まったことであろう。ガラス物質は、セイシュの波が襲い、そして引いていくのが繰り返される中、降り続け、波が引く都度、堆積土の中にテクタイトを閉じ込めたのである。タニス発掘現場で起きたことは、端的に言って衝撃の最初の日にずっと続いたのではない。多分、最初の1時間くらいのことだったであろう。
もしそれが真実なら、発掘現場は以前考えられていたよりはるかにもっとすごい意味を表すことになる。地球の歴史で最も重要な60分についての精緻(せいち)な地質学上のシナリオが、何百年もの時を経て、石の見事な層の中にまるで高速、高解像度で記録されたビデオのように存在しているのかもしれないということは、ほとんど我々の想像の域を超える。もしタニスが隕石衝突地点からこれ以上近くても遠くてもこの素晴らしい偶然は起こり得なかっただろう。リチャーヅ氏は私に「世界中でこんなことはほかには見られたことがない」と話した。(抄訳続く)
◆6600万年前に思いをはせて
6600万年前のある日、地球上の生命は破壊的な終末を迎えた。衝突のあと現れた世界はうんと単調な何もない状態になっていた。日差しがかすみを通しやっと現れたときそれは地獄のような風景を照らしていた。海に海水がない。陸上には灰が漂っていて、森は焼け焦げた。
温室効果が始まると、極度の暑さが寒冷気候に取って代わった。生命体は敷物状になった藻と肥大化したカビだけである。衝撃のあと何年もの間、地球は植物としてはシダを除けばほとんど存在しなかった。こそこそと動き回るネズミに似た哺乳類が薄暗い低木の下にすんでいた。
しかし、最後には他の生命が再び現れ開花したのである。 KT衝撃は、それが地球に残した灰の痕跡がその存在を物語る忘れ形見であるため、引き続き少なからぬ科学者の興味を引き続けるのである。
スミット氏は笑いを交えて言う。「隕石が落ちていなかったら我々がこうして電話で話すこともなかったのですから」と。デパールマ氏も同様に感じた。小惑星(隕石)激突以前の時代、最初の数億年にわたる期間において哺乳類は恐竜の足元をちょこちょこと動き回る、取るに足らない存在だった。
デパールマ氏は言った。「しかし、恐竜がいなくなると、彼らは解放されたのだ」と。次の時代に、哺乳類は適応放射(adaptive radiation)の爆発的プロセスを経ることによって、驚くべき多様性に富んだ種類に広がり進化していったのであり、小さなコウモリから巨大なチタノテリウム類、馬からクジラ、見るからに怖いクレオドン怪獣から物をつかむことができる手と及び時間の経過を認識することができる知能とを持ち、大きい脳を備えた霊長類などに進化していったのである。
「私たちの起源をその出来事にさかのぼってたどることができる」。デパールマ氏はさらに続ける。「実際に、この場にいて、見て、その日に自分(の考え)をつなげてみることは特別なことです。(あなたの目の焦点を)地層一つ上にずらすだけで、まさに翌日に移すだけで、それは暁新世、哺乳類の時代、そして私たちの時代なのです」
※この記事は、「地球が死んだ日」の見出しで2019年4月8日の印刷版に掲載のものです。(以上、抄訳終わり)
※今回紹介した英文記事へのリンク
https://www.newyorker.com/magazine/2019/04/08/the-day-the-dinosaurs-died
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