引地達也(ひきち・たつや)
特別支援が必要な方の学びの場、シャローム大学校学長、一般財団法人福祉教育支援協会専務理事・上席研究員(就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括・ケアメディア推進プロジェクト代表)。コミュニケーション基礎研究会代表。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般社団法人日本不動産仲裁機構上席研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。
◆引きこもりはきっかけ
川崎市のJRと小田急の登戸駅近くでの殺傷事件と農林水産省元事務次官が息子を殺害した事件は、「ひきこもり」をキーワードとして、一方では加害者(川崎の事件)の一方では被害者(元事務次官の事件)の、どちらもこの世にいない人の「異常な」心理性を語る中で、多くの人にとって導きやすい理解に押し込めようとして、結論を急ぐパターンをまた繰り返している。
ちょうど内閣府が中高年の引きこもりの推計が61万人と発表したことも手伝って、今回の事件に関係する2人がこのカテゴリーに入るのではないか、との分類により、議論は引きこもりに流れてしまったが、再度立ち止まって考えてみたい。
やはり引きこもりとは、何かをきっかけにして存する状態であり、その何かを考えることが今の私たちに求められているのだと思う。
◆思いに賛同、筋に共感
社会が出るに値しない、つまらない世界なのか、人との交流は煩わしく、回避するべきものだろうか、日本国憲法で権利として明記されている幸福の追求を求められないほど、日本社会は夢や希望がないのだろうか。
私が疾患や障がいのある方々との対話では、答えは「イエス」であり「ノー」である。つまり状態によって、答えは変わる。世の中を生きていくのは大変なことだ。お金を稼がなくてはならない雰囲気だし、年金も減らされそうだし、老後の資金を準備しろ、と無茶な発言も出てきた。誰でも引きこもりたくもなる。
だから、引きこもりたい気持ちは共感できるし、多くの人は無理矢理に社会に「働かされている」のかもしれない。だから、引きこもりたい気持ちには全面的に賛同する。
引きこもりが悪いことと思っていない前提で、引きこもっている人の家を訪問し、部屋にノックしたりしながら、当事者と対話をしていると、誰もが原因があることに気付かされる。素因となったストーリーが明確にあるのだ。それらの多くは、筋書の通った共感できる物語だ。
その結果として、引きこもっている現在もストーリーの中にあるから、人生は続いていく。ここから、どうしたいのかが、大事な物語だ。
結果的に引きこもっても、それは事後、冬眠期間だったと振り返られれば、よい経験にもなる。この過程で、世の中を「くそったれ」と罵(ののし)ってもよいのだが、他者に危害を加えるメンタリティーになるのは、やはり社会悪になるので、避けたい。問題はここである。
◆大きな絵の中で
引きこもりではなく、社会に対し危害を加えようとする心のケアが現在問われているのである。
川崎の事件での加害者の心に宿した「殺す」という決意、元農水次官の事件での、「周囲に危害を加えるのではないか」に至る周囲の暴力を仄(ほの)めかす発言と、殺害という手段を選ぶ父親の心の閉そく感、すべてが不健全な形に帰結してしまっている悲劇を注視する必要がある。
不幸な状態を抜け出すために、人に危害を加えるメンタリティーを形成するメカニズムに迫る必要があるのだが、これは付け刃のような政策では対応できない。自殺対策でも、無差別殺人でも、「人間の命」と「公共性の在り方」を社会科学の視点から語れる場を作るべきであろう。
それは一方的に誰かが教えるのではなく、話し合って気づき合うポリフォニー的対話ではないだろうか。殺意のココロをほぐすために真剣に考える必要がある。それを実現するには、自由に語れる環境が必要だ。
大きな社会の絵の中で、引きこもりも受け入れつつ、命を守る守られることに重点を置く視点こそが悲劇を繰り返さないための第一歩だと思う。
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