小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住21年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
のっけから物騒なタイトルで申し訳ない。これはナポリの美しさを表したイタリアのことわざである。今年の夏、そのナポリに行ってきた。ナポリは私にとって何となくなじみを感じさせる都市である。今から60年近く前にクラシックの歌唱を習い始めた時、藤原歌劇団のソプラノ歌手であった先生から初めて与えられた課題曲が「サンタルチア」であった。「星影白く、海を照らし」と始まる「サンタルチア」の歌詞は今でも頭の中に残っているが、いまクラシック歌曲集の「サンタルチア」を見ても、この歌詞は残っていない。いつの間にか日本語の歌詞も変わってしまったようである。しかしナポリ湾に面する「サンタルチア」の海岸の美しさを謳(うた)ったこの歌から、私は勝手にナポリのイメージを作っていた。
◆その歴史をたどる
6年前のことだが、私は60歳を目前にして東京に“終(つい)の棲家(すみか)”を得た。この家の近くにイタリアレストランがあるが、店のオーナーシェフはナポリで料理の修業をしてきたという。イタリア料理と言えば、スパゲティやピザが定番であるが、このレストランに行くと豚肉の煮込みなど私の知らないイタリア料理にお目にかかれる。シェフはナポリ料理だと説明してくれる。また、このレストランにはイタリア南部のカンパニア州やシチリア州などなじみの薄い土地のワインが置いてある。ナポリとはいったいどんなところなのだろうか。
そもそもナポリは紀元前6世紀に、古代ギリシャ人の植民地として建設された。ギリシャ語の新しい都市「ネアポリス」にナポリの名前は由来する。紀元前3世紀には共和制であった古代ローマの支配下に入る。ヴェスヴィオ火山の噴火によって、一夜にして埋もれてしまったポンペイの町は、このナポリから24キロのところにある。
このポンペイも、ローマの貴族の別荘地として繁栄していたようである。476年に西ローマ帝国が滅亡すると、ナポリはその後、東ゴート族・ランゴバルド族に支配され、6世紀にはビザンチン帝国の属州となる。その頃、ナポリに隣接するアマルフィは海洋都市国家として最盛期を迎える。西端にあるポジターノを含むアマルフィ海岸は、いまやナポリ観光のハイライトの一つとして多くの観光客が訪れるが、切り立った山と海岸線の自然美で名高い。10世紀から11世紀のイタリアではアマルフィ、ピサ、ジェノバ、ベネチアの四つの海洋都市が地中海の支配権を競っていたようである。現在はこの4都市によるヨットの対抗レースが年に1回開催されていると聞く。
11世紀になると、バイキングの名前で知られるノルマン人が南イタリアに侵攻。イスラム教徒が支配していたシチリア島を征服しシチリア王国を建国。1073年にはアマルフィ公国が、1140年にはナポリ公国がノルマン人に支配され、シチリア王国に併合される。シチリア公国はその後、神聖ローマ皇帝やフランスの王族であるアンジュー家の王をいただく。
その後、1282年に発生した住民反乱「シチリアの晩鐘事件」でシチリア王国は二つに分割され、半島南部は「ナポリ王国」となる。「ナポリ王国」はその後イタリア半島南部を領土としたイタリア最大の王国として1816年まで続く。しかしその王家はフランス、スペイン、オーストリアなどの王家から送り込まれ、フランス、スペインなどの間接的統治を受けた。
ナポリ王国は1816年にシチリア王国と統合し、両シチリア王国となるが、1861年にジュゼッペ・ガリバルディ将軍により両シチリア王国は滅亡する。当時オーストリア帝国の支配に反発したイタリア都市国家はサルディーニャ王国を中心に同盟を結成。ガリバルディ将軍は、征服した両シチリア王国の土地をサルディーニャ国王に献上することにより、1861年にイタリアはイタリア王国として統一、独立した。
さて、ナポリと言えばカンツォーネの故郷である。前述した「サンタルチア」のほかにも「オーソレミオ」「帰れソレントへ」「フニクリ・フニクラ」「海に来たれ」「マリア・マリ」など、ナポリを由来とする歌はたくさんある。サンタルチア海岸、ソレント、カプリ島などナポリの周辺は景勝地にあふれている。こうした美しきナポリへの感動から、カンツォーネが生まれたのであろう。
ところが、ベネチアでゴンドラに乗ると、船乗りが「オーソレミオ」を歌うサービスがある。ゴンドラに乗った観光客は大喜びであるが、「オーソレミオ」はナポリの曲である。「オーソレミオ」にはナポリ語の歌詞とイタリア語の歌詞の2通りがあるが、現在でもナポリ語で歌われるのが一般的である。わざわざナポリ語で歌うため、さぞかし古い民謡なのだろうと思ったら1898年の作曲である。さらに調べてみると、「サンタルチア」が1849年、「フニクリ・フニクラ」が1880年、「帰れソレントへ」が1902年と、いずれも100年から150年ぐらい前の歌なのである。
歴史を振り返ってみると、イタリアが統一されたのは1861年と、これもまだ150年しか経っていない。それ以降、標準言語を含めイタリアの統一化が進められているはずである。
しかし、476年の西ローマ帝国崩壊以来、1400年以上も分裂が続いてきたイタリア。国家の統一化は容易な作業ではないことは簡単にわかる。直近のイタリア政治を見れば、工業化が進み豊かな北部を基盤とした「同盟」、農業が中心で貧しい南部を基盤とした「五つ星」、中部を基盤として中道的政治を求める「民主党」など依然として地域代表の様相が強い。世界の政治はポピュリズムと地元利益優先の流れにあるが、イタリアの歴史を考えると「むべなるかな」と思ってしまう。
◆「お国自慢」はどこから来るのか
今回、ナポリ滞在中にポンペイ、カプリ島、アマルフィ海岸といった観光地を見て回った。アマルフィ海岸の観光ツアーは私たち夫婦だけしかおらず、ニーノさんというナポリ出身の若い観光ガイドからさまざまなナポリの話を聞いた。ニーノさんのナポリに対する思い入れと誇りは半端ではない。恥ずかしながら、本稿のタイトルで使った「ナポリを見てから死ね」は、ニーノさんから教えてもらった。とにかくナポリの美しさを力説する。ポンペイ観光の際に日本人ガイドから「サンタルチアはイタリアのどこにでもある海岸だ」と言われたことを話すと、躍起になって反論してくる。「早朝のナポリの高台が見えるサンタルチア海岸はとても素晴らしい。世界一美しい海岸である」。彼があまりにも力説するものだから、私たち夫婦も翌朝早くナポリの高台に上った。太陽の光がサンタルチアの海に反射してキラキラ輝く。確かに絶景であった。ニーノさんが言ってくれなかったら、私たちはこの風景に出合うことはなかっただろう。
ニーノさんは言う。「ナポリの大学はイタリアで一番古く、ナポリの銀行もイタリアで一番古い」「ナポリ王国は中世ではローマより大きく、イタリア最大の領土を持っていた」。しかし以前、ボローニャを訪問した際、ボローニャ大学がヨーロッパで古い大学であると聞いたことがある。日本に帰って調べたところ、ボローニャ大学やパリ大学などは11世紀ごろに研究者たちが自然発生的に集まったギルドのような集団であった。これに対しナポリ大学は、1244年に国家の意志によって作られたヨーロッパ初の設立型大学のようである。
ナポリ銀行についても、英語のウィキペディアでは世界最古の銀行の一つとあるが、私の認識では、世界最古の銀行といえば、ジェノバで1148年に設立されたサンシェルジュ銀行である。しかし、預金と貸し出しの機能を両方をそろえた銀行はナポリ銀行が最初であったようである。解釈によっては、ナポリ銀行はイタリア最古の銀行となる。
ナポリ王国についても既に見てきた通り、領土的にはイタリアでは最大であったが、その実態は他のヨーロッパ列強諸国の覇権争いの舞台となり、他国の傀儡(かいらい)政権であった。それでも、ナポリっ子にとっては、ナポリ王国は誇りとなるようである。イタリアは1861年まで各地方が分裂していた。イタリアの各都市に行くと、その土地の人は「お国自慢」を始める。イタリアの人たちは国家への帰属意識より、都市や地方への帰属意識が強いと感じる。
◆堪能した多彩な料理とお酒
ニーノさんのもう一つのお国自慢は、ナポリの料理である。旅行の最大の楽しみの一つは現地のおいしい料理を食べることである。私もその例外ではない。早速ニーノさんにナポリ料理について聞いてみた。
ナポリっ子にとって最も大切な食べ物の一つは、エスプレッソコーヒーのようである。そう言えば、ナポリのエスプレッソは味が濃く、量も少ない。この濃厚なエスプレッソこそナポリ名物なのである。いったんナポリのエスプレッソに慣れてしまうと、普通のエスプレッソは物足りなく感じてしまう。
ナポリっ子は一日にこのエスプレッソを7、8杯飲むという。多くの人は朝食をエスプレッソだけですます。小腹がすいていれば、スフォリアテッラという焼きパンを食べる。スフォリアテッラはイタリア語で「ひだを何枚も重ねた」という意味で、アマルフィの修道院が発祥である。パイ生地の中にチーズやカスタードクリームなどを入れて焼き上げたもので、パリパリの食感がとてもおいしい。
しかし、朝から甘い菓子パンとコーヒーの組み合わせであることにびっくりした。次にサラダについて聞いてみる。水牛のモッツァレラチーズはイタリア南部の特産であり、南部のトマトと相性が抜群である。そう、日本でも有名なカプレーゼサラダである。ところが、ナポリでカプレーゼ以外のサラダを頼むと、ルッコラなどの緑色野菜がぽんと出てくるだけである。ナポリには「ドレッシングがないのか?」と聞くと、「ない」と言う。ナポリの人はそもそも緑色野菜をあまり食べない。食べても、オリーブオイルとバルサミコ酢だけで十分おいしいと主張する。なるほど、ルッコラなどイタリア野菜は十分に味が濃いし、その素材の味を生かすためにはオリーブオイルだけで十分である。今では私もオリーブオイルだけでサラダを食べる。
ナポリの食べ物の最大の名物はなんと言ってもピザである。ナポリはピザ発祥の地といわれている。ところが、私のピザに対するイメージがあまりよくなかった。米国勤務当時、妻が病気になったりすると、子供たちの食事にデリバリーのピザを頼んだ。ドミノピザなど米国のピザは味が画一的で、かつデリバリーピザは冷めている。ピザはまずいものであるという先入観念がすっかり刷り込まれてしまったのである。
ところが、ナポリのピザは本当においしかった。ナポリ名物のマルゲリータはモッツァレラチーズとトマトバジルだけのシンプルなピザである。しかし薄くパリッと焼き上がったピザは素材の味が生きている。ナポリに来てピザのおいしさを初めて知った。
海洋都市であるナポリは、魚介料理もこれまた名物である。日本ではイカのフライ「カラマリ」が一般的だが、ナポリでは「魚介類のフリット」という料理で、エビ、イカ、小魚がカリッと揚がっている。小麦粉だけで揚げていて、フライというより天ぷらに近い。塩とレモンだけで食べるのだが、これも素材が新鮮なので素晴らしくおいしい。魚介類はスパゲティにも使われる。イタリアのパスタは奥が深い。日本でも最近さまざまなパスタが紹介されている。スパゲティはもちろんのことフェットチーネ、リングイーネ、エンゼルヘアー、ペンネ、ラビオリなどはだれにもおなじみだろう。
しかし、イタリアの地方にはその地方独特のパスタがあることを今回の旅行で知った。アマルフィには魚介類とよく交じり合うレモン風味のシャラティエッリというパスタがある。うどんのように太く、もちもちとしていて魚介類のエキスを吸い込んでパスタそのものがおいしくなる。ナポリではパッケリという巨大なパスタがある。私の家のそばにあるイタリアレストランでも、シェフが時々パッケリ料理を作ってくれる。パスタが巨大なため、ゆで上がるまでに20分以上かかる。手間がかかるため、料理人としてはあまり提供したくないメニューだと言う。
ニーノさんに、この日本人シェフが作ってくれるパッケリを使った豚肉の煮込み料理について話してみた。すると、ニーノさんは私がその料理を知っていることにびっくりし、うれしそうに話してくれた。その料理は「ジェノベーゼパスタ」と言うのだそうである。ナポリでジェノベーゼパスタとは不思議な気がする。するとニーノさんは続けて、「その昔、ジェノバが海洋国家として繁栄していた頃、ジェノバの船乗りたちは頻繁にナポリに寄港していた。ジェノバの船乗りたちはこの料理が大変気に入り、かつ保存が効くことから、大量に買い込んで船内で食べた。こうしたことからジェノバの船乗りの食べ物という名前がついたそうです」と説明してくれた。ちなみに、私たち日本人が知るバジル風味の「スパゲティジェノベーゼ」は、本場ジェノバでは「スパゲティペスト(緑)」と呼ばれている。
最後に、ちょっとだけお酒の話をする。私は今回のナポリ旅行までは、イタリア南部のワインを馬鹿にしていたが、これも大きな間違いであった。日差しが強くかなり暑いが、カラッとした気候のナポリ地方でおいしい魚介類を楽しむにはカンパニア州の冷えた白ワインは最高のお伴であった。料理に合わせたワイン選びというが、その土地の気候や風土もワインのおいしさに影響する。さらにナポリ近郊の名物にレモンチュロがある。この地はおいしいレモンの一大産地である。そのレモンで作るレモンチュロもおいしい。
しかし、飲み方を間違えていた。レモンチュロは冷蔵庫ではなく冷凍庫で冷やすのがおいしい飲み方がだと今回教えてもらった。レモンチュロは冷凍庫でも凍らないのである。ギンギンに冷えたレモンチュロを同じく冷やしたグラスに入れてナポリの暑い昼間から飲むと、至福の時が訪れる。
今回の旅行でナポリを見たが、まだ十分に味わい尽くしたとは思えない。「もう一度ナポリを見なければ、まだ死ねない」。私の現在の心境である。
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