古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆はじめに:本稿のねらい
米中対立が続き、ロシアがウクライナに侵攻した。新しい冷戦の始まりという捉え方は現実感を増している。地政学的に見れば、覇権国米国の衰えは隠せず、中国の台頭による国際秩序の変化は明らかだ。また、経済においても、ベルリンの壁崩壊以降約30年続いたグローバリゼーション(グローバル化)の時代が転換期を迎えている。
こうした「変化」は、グローバル化を支えるイデオロギーである新自由主義の退潮をもたらしている。2021年10月に発足した岸田政権が「新しい資本主義」を掲げて新自由主義からの転換を打ち出しているのは、それを象徴している。政権が掲げる「成長と分配の好循環」によって格差の縮小が進むことを期待したいが、前稿で米国の経済学者ブランコ・ミラノヴィッチ(ニューヨーク市立大学大学院客員教授)の『資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来』を読んで、「格差」の問題は「分配」だけでは解決できないという思いを強くした。今回はその続きを考えてみたい。
ミラノヴィッチは、米国に代表される現在の資本主義を「リベラル能力資本主義」と呼ぶ。「リベラル」は機会の平等の確保を意味し、「能力(主義)」は誰もが能力と努力によって評価されることをいう。このリベラルな能力主義が社会の仕組み(システム)として定着しているのであるが、そのシステムが不平等を拡大している、とミラノヴィッチは指摘する。
一方、米国の哲学者マイケル・サンデル(ハーバード大学教授)もリベラルな能力主義についての本を書いている。その著書『実力も運のうち――能力主義は正義か?』(原題は「The Tyranny of Merit〈能力の専制〉」)においてサンデルは、システム要因は認めつつも、リベラル能力主義の原則――機会が平等であれば勝者(敗者)はその勝利(敗北)に値する――が根底に抱える暗部――驕(おご)りと屈辱――に焦点を合わせる。
両者ともに米国の経済や社会を対象に論じながらも、普遍的な問題を提起している。本稿で2人の考えを検討し、次稿以降で日本の現状について考えてみたい。
◆ミラノヴィッチの「リベラル能力資本主義」について
- 「能力」の意味
本書の「リベラル能力資本主義」は「Liberal Meritocratic Capitalism」の日本語訳だ。この「Meritocratic」の「Merit」の日本語訳は「長所」「価値」「実績」「功績」、動詞では「(評価に)値する」である(英辞郎on the WEB)。ここでは本書に従って「能力」とするが、日本語で能力というと「知能」が思い浮かぶので、そうではなく本書やサンデルの本ではもっと幅広い意味で使われていることを確認しておきたい。
- リベラル能力資本主義の特徴
ミラノヴィッチは、現在の米国の「リベラル能力資本主義」は次の特徴を持つという。
特徴1:「資本豊富な金持ちが、労働所得から見ても金持ちである」
現代のエリート層は、大学を卒業して高収入の職業(大企業の幹部、投資銀行家、専門職エリートなど)につき高所得であるだけでなく、資産を増やしてそこからも、より大きな収入を得ている。古典的資本主義の時代には、資本家は莫大(ばくだい)な資産収入を得ていたが、労働所得には興味がなかった。一方で労働者は資本を持たなかった。労働者が大きな資本所得を持つ現代の資本主義は、マルクスが全く想定していなかった新しい資本主義の形だ。
特徴2:「金持ちの高学歴の男性ほど、金持ちで高学歴の女性と結婚する傾向にある」
エリート層は、思想的にはリベラルで多様性や人種、ジェンダーの平等を重んじており、女性の社会進出に賛成だ。そして出自や学歴、ライフスタイルを同じくする相手から配偶者を選択する傾向が強く(子供の時から同類が多い環境で育つため)、配偶者も高収入の職業についていることが一般的である(古典的資本主義の時代には「釣り合わない結婚」や「妻が労働に参加しない結婚」が普通であった)。ハイインカム同士の同類婚が多いということであり、競争社会の厳しさを知っているこうしたカップルは、子供の教育にも熱心でお金をかけて「学歴」獲得を支援する。
- リベラル能力資本主義の問題点
問題点1:「構造的不平等」
特徴1から導かれる問題点は、高所得の人が資本所得からも高い所得を得れば「不平等が深刻化する」ということだ。フランスの経済学者トマ・ピケティ(1971〜)が指摘するように、長期的に見れば資本の収益率は国民所得の成長率より高いので、高い労働所得に加えて金融資産を多く持つ人は、同時に大きな資本所得を得られるため、労働所得しかない人との格差が拡大していくのである。
ミラノヴィッチは、こうした不平等の構造化の背景には、ICT(情報通信技術)革命の進展により高等教育を受けた労働者へのスキルプレミアムが上昇したこと、グローバル化に伴う生産のアウトソーシングの進行、脱工業化の下で分散型の労働が増えた(労働組合の弱体化を招いた)ことによって、一般労働者の賃金が伸びなくなったことなどを挙げている。
問題点2:「固定化された上位層の出現」
特徴2から導かれるのは、同類婚や子供の教育への熱心な投資、あるいは(同類の)親からの相続によって格差は拡大するだけでなく、上位層の固定化が進んでいることである。これはリベラル能力資本主義の根幹をなす社会的移動性という「価値観の要となる部分の裏切り」につながるとしている。システムの自己否定になるということであり深刻な問題だ。そしてこうした状態が進むと、米国の繁栄と民主主義を支えた中間層が没落し、「エリート層と非エリート層の二極化」が進行して政治的不安定性が増すと懸念するのである。
- ではどうすれば良いか(ミラノヴィッチの解決策)
ミラノヴィッチは、①富裕層への課税強化②公教育への公的支出の拡大③政治への資金提供の厳しい制限――を挙げる。①に関しては、所得税が累進税率でありながら、富裕層は節税手法を駆使することで実際の税率は、非富裕層の税率よりも低いことを指摘し、課税強化を唱える。資産への課税も選択肢の一つとなる。しかし富裕層は、政治献金などを通じて影響力を行使することで、有利な税制の導入を図ってきており、③はこうした政治への資金提供の規制強化を訴える。②は、貧富の格差で機会の平等が損なわれてはいけないので、公教育の拡充によって機会の平等を図る政策である。
これらの提案は能力主義を前提とし、それによって生じる問題を①税制や③政治資金規制によって軽減しようとしている。②は能力主義が、親の経済的な格差によって損なわれることを修正するものであり、能力主義が徹底されるようにしようという政策である。
これに対してサンデルは、より根本的な問題を提起する。能力主義そのものに道徳的問題があることを指摘するのである。
◆サンデルの「能力主義」への道徳的批判
- サンデルの問題意識:能力の専制
能力主義(Meritocracy=能力による支配)は、能力に基づいて評価、処遇し、能力の高いものが統治することをいう。能力が重要視される理由は、生まれによって全てが決まる前近代社会と比べて、能力を基準とすることで仕事の効率を上げたり、公正であったりする点において優れている点にある。また才能と努力によって上昇できることは社会に活力を与え、階層間の移動性を高めることにもつながる。
能力主義の問題点は、一般的には、教育機会の平等が十分確保されていないといった能力主義の不徹底にあるとされてきた。しかしサンデルは、そうではなく問題は能力主義の原則そのものにあるという。能力主義的理想の暗部に焦点を当てるのである。
- 能力主義の原則:能力と努力による選別/機会の平等と自己責任
新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)でリモートワークがすっかり定着した。パンデミックが終息してもリモートワークが無くなってしまうことはなさそうで、働き方を変えていく契機になるだろう。これはパンデミックの影響の良い面と言えるかもしれない。しかし一方で、リモートワークができない人々がいたことを忘れてはならない。彼らの多くは職場へ行かないと仕事にならない人たちである。当然ながら自宅勤務が可能な人々と比べてウイルスに感染するリスクが高くなる。サンデルは、コロナの死亡率は単純労働者が多い有色人種(ラテンアメリカ系と黒人)の比率が白人よりはるかに高かったとしている。経済的な格差は職業の差を反映するものであり、それは収入だけではなく、健康や命にまで影響を及ぼすという現実をパンデミックが垣間見せたということである。
こうした職業による差はなぜ生まれるのか。本書でいうようにグローバル化とテクノロジーの発達によって必要なスキルが高度化、専門化したにもかかわらず人材が不足している一方で、現場で肉体を動かす仕事の労働予備軍は豊富だからだ。それを反映して高度な仕事のスキルプレミアムは上昇を続けるが、単純労働の賃金はあまり変わらない。こうして所得格差は拡大していく。
高所得の職に必要なスキルを得るためには教育が不可欠である。能力主義社会では出世の階段を上るための競争に参加するには、資格が求められる。それを与えてくれるのが教育(特に高等教育)である。米国では企業の採用に性別や年齢で差別することは禁止されている(履歴書に書く欄がない)が、大卒資格は職種やポジションによっては必須である。誰でも才能と努力によって成功できる社会であるが、高所得の職は競争に参加するには大卒資格(以上)が必要なのである。
この本の原題は「能力の専制」である。「能力の専制」とは、能力主義の原則が社会において支配的な状態を指す。能力主義の原則とは、
・能力によって選別される:大卒資格が競争参加への条件
・努力によって選別される:競争に参加できたとしても絶え間ない競争と評価にさらされる
・機会の平等:機会が平等であれば勝者はその勝利に値する
・自己責任:機会が平等であれば敗者はその敗北に値する(=自己責任である)
ここに挙げた原則のうち、能力や努力によって評価されることは、実力主義ということであり、当然である。しかし、機会の平等と自己責任になると同意することに躊躇(ちゅうちょ)してしまう。特に自己責任はそうだ。ここに能力主義の暗部が隠されているのである。
- 能力主義の暗部:勝者の驕りと敗者の屈辱
サンデルは、本書で英国の社会学者マイケル・ヤング(1915〜2002)の説を紹介する。ヤングは、小説形式で発表された彼の著書(*注1)によって、初めて能力主義という概念を示したとされる。ヤングが想定するのは――誰もが自分自身の能力だけに基づいて出世する真に平等な機会を手にした――社会である。しかしそうした社会は、「勝者の中には驕りを、敗者の間には屈辱を生む」というのである。
なぜなら――階級社会であれば、明白な不公平が存在するので、親の地位や資産のおかげで出世した人はそれを自覚して驕りに自制が生じる。一方労働者は、恵まれない立場であったとしても、それは自己責任ではなく階級制度のせいだと考えることで精神的には救われる――からである。
しかし、完全な能力社会では、勝者は、それは自分の能力と努力の結果だと考える。それは次第に「自分はその立場に値する」という驕りにつながる。また、高等教育を受け専門知識を身につけたエリートは、「それを持たないものを見下す傾向がある」とする。一方、敗者は――全てを自己責任として背負い込み逃げ場がなくなる。敗者も「自分はその立場に値する」と思いこむ――のである。
サンデルは、能力主義が持つ自己責任の重視について「われわれ一人ひとりが自分の運命に全責任を負っていると想定する」ことは間違っているとする。そして近代の能力主義の起源をキリスト教に探る。サンデルは神の教えには「恩寵(おんちょう=神が人間に与える恵み)」と「能力(自助)」という二つの要素があり、近代を拓(ひら)いたプロテスタントの労働倫理をめぐる神学論争を経て、「最終的に恩寵を能力が駆逐した」とする。その結果、「(神の前での無力な人間という理解から生まれる)感謝と謙虚さの倫理は後退し、支配と自己実現の倫理(人間の主体性への自信)が圧倒した」というのである。こうして近代人にとっては「労働と努力そのものが責務となった」のである。
サンデルは、神の恩寵と人間の無力という教えの原点に立ち戻り、能力や選択を超えた幸運や機会があることを知らなければいけないという。これを表すのが、書名になっている「実力も運のうち」という言葉である。すなわち――われわれの成功は、自分だけの力で成し遂げたのではない。能力を認めてくれる社会に生まれたこと、努力する環境を与えてくれた家庭に育ったことといった幾つもの幸運のおかげなのだということを認めなくてはならない――というものだ。
◆まとめ
- ミラノヴィッチのシステム的解釈:上部構造としてのリベラル能力主義
ミラノヴィッチは、下部構造(市場志向型のグローバル資本主義)と上部構造(リベラルな能力主義)が結合して不平等を拡大していると考える。グローバル資本主義は、市場志向でヒト・モノ・カネの国境を越えたグローバルな移動が特徴だ。テクノロジーの発達はそれを助けてくれる。人間の労働もその対象で、企業は業務のアウトソーシング、工場の海外移転、生産の自動化のいっそうの進化と業務のデジタル化によって労働コストの低減を図り、労働者の雇用は失われる。得られた利益の大部分は、株主と経営者に分配され、労働者の取り分は増えない。こうしてグローバル資本主義の恩恵を受ける層と受けない層の所得格差は拡大していく。
上部構造の「リベラルな能力主義」の基本は、誰でも努力すれば出世の階段を上ることができる社会である。そのために、リベラルな政策(機会の平等、相続税と公教育の拡充など)によって社会的移動性を確保している。
構造と下部構造は相互に影響しあっている――グローバル化とテクノロジーの時代にあって求められる知識とスキルを有するのは、能力主義の勝者である大卒の頭脳労働者である。彼らは高所得の職業に就き(市場による選別)、金融資産を増やすことで市場から大きな金融所得を得る――。そして、彼らは同類婚を好み、子供の教育にも熱心な結果、上位層が固定化していく。
ミラノヴィッチは、能力主義そのものは否定しないが、こうした上位層の固定化は、システム本来の価値であるはずの高い社会的移動性を毀損していると指摘する。その解決策として、富裕層への課税強化、公教育への公的支出の拡大、政治への資金提供の厳しい制限などを挙げている。そうした政策はシステムを変えるものではない。しかし資本主義と能力主義に代わるシステムがない以上、対症療法でも止むを得ないというのが、ミラノヴィッチの現実的な結論なのである。
- サンデルの道徳的解釈:実力も運のうち
サンデルも、市場志向型のグローバル資本主義が不平等を拡大したという認識は同じである。その上でリベラルな能力主義の倫理面に分け入っていく。
ここでサンデルの主張を理解するために能力主義を3つの要素――①「親ガチャ」②「学歴」③「金儲け」――に分けて考えていくことにする。なお、サンデルは高尚な表現を好むので、このような通俗的な言葉は使っていない。わたしの勝手な分類とネーミングである。
①「親ガチャ」:親で人生が決まることを意味する日本の今風の言葉だ。持って生まれた知能や性格は親からの遺伝的要因が大きいと考えられている。子どもの家庭環境も性格や学習に影響を与えるが、それを提供するのは親なので結局親次第である。自分ではどうすることもできない要素である。ここでは「Merit(メリット)」は知能、才能を意味する。
②「学歴」:大卒と非大卒で生涯所得が大きく違うので、できるだけ大学、それも社会的評価の高い大学に入ることが目標となる。そのための競争が行われるが、それに役立つ「メリット」は知能と学習能力だろう。勉強(=努力)の必要性が強調される。
③「金儲け」:社会に出て良い会社に入るためには「学歴」が必要条件となる。社会での成功は得た金銭の多寡によって評価される。①と②が良くてもここがダメだと評価されないので最も重要な要素といえる。この「メリット」は功績、業績、実力などを指すが、「メリット」の日本語訳を一つ選ぶとすれば「能力」よりもこの「功績」がそれに当たるだろう。ここでは「夢を持って頑張ればなんでもできる」として努力がことさら強調される。
リベラル派は、①の出自によって②と③が決まってしまうことは正しいことではないとして、機会の平等を確保する政策に主眼を置く。サンデルはこれに対して異を唱える。問題は二つあるという。
問題1:金儲けのうまい人が社会的評価が高い
市場価値が高い人は所得も高い。高所得者(金儲けがうまい人=上記③)が高い社会的評価を受けるというのは、市場の評価が社会の評価に直結しているということである。
問題2:機会の平等原則が負け組に屈辱を生む
能力主義の②と③においては、機会の平等と努力が強調されるが、結果として勝ち組と負け組ができるのは避けられない。機会の平等原則が徹底されればされるほど、勝ち組は自分の能力や努力のおかげだと考え、それは驕りにつながりやすい。一方、負け組は自分の能力や努力不足のせい(自己責任)だと考え、逃げ場をなくして屈辱感を抱く。
これらの問題に対するサンデルの答えは次のようなものである。
問題1への回答:
本当の社会的評価というのは、市場における金銭的な価値ではなく社会への貢献で測られるべきだ。すなわち、コミュニティーの共通善への貢献によって評価されるべきなのである。そして人は、自らが所属するコミュニティーにとって何が善なのかを考えて行動しなければならないと説く。
サンデルの政治的立ち位置は「共同体主義(共同体の価値を重んじる政治思想)」である。この立場からサンデルは――われわれは成功を可能にしてくれるコミュニティーからさまざまな面で恩恵を受けており、従ってコミュニティーの共通善に貢献する義務を負っている――と考える。「共通善」とは――何がコミュニティーにとって善いことかという考え方――である。
問題2への回答:
全ては自分の力が及ばない幸運(あるいは不運)のせいなのであり、われわれがなすべきことは、神の恩寵という教えに立ち戻り。謙虚に感謝することだ。
これは人間の生の偶然性を説くものである。これは前述の①②③全てに当てはまる。金持ちの家に生まれたのも、頭が良いのも、そして勉強や仕事に頑張れる性格やそれを可能にする家庭環境、学校、友人関係もこの偶然性に依存しているのである。会社に入ってからの仕事の成功も、幸運や良い上司や同僚との出会いがあって実現するものである。
こうしたサンデルの説法は、それを聞く人が勝ち組か負け組かによって受け止め方が違ってくると思う。能力主義自体は社会を維持するために必要である。また代替しうるシステムもない。それゆえに、勝ち組の人には、謙虚さ、道徳感が必要だ。中でもエリートの代表である国の指導層はそうである。たとえ能力が非常に高くても道徳感のない人物は指導者にふさわしくない。他国に侵攻し戦争を始めるような人物は指導者としては最悪だ。そうしたエリート層への諫(いさ)めの言葉として、サンデルの説法は心に届くものがあると思う。
他方、負け組の人に対してはどうだろう。人間の生の偶然性は真実であるが、現在不遇な状態にある人に偶然性を説くのは残酷なような気がする。むしろ必要なのは社会全体の意識を変えていくことではないだろうか。それはサンデルが示唆するように、「労働の尊厳」と関係している。人間が本当に必要とするのは家族やコミュニティー(日本では擬似共同体としての会社を含めても良いだろう)の人々から必要とされることである。所得は低くてもコミュニティーの他の成員の役に立つ仕事に従事している人が多いことは、今回のパンデミックで再認識したばかりだ。人間は他者から認められ感謝されることで、誇りを持つことができるのである。次稿では労働の尊厳についてさらに考えてみたい。
<参考にした書籍>
『資本主義だけ残った――世界を制する資本主義の未来(Capitalism, Alone)』ブランコ・ミラノヴィッチ著、みすず書房(2021年6月初版)
『実力も運のうち――能力主義は正義か(The Tyranny of Merit – What’s Become of the Common Good?)』マイケル・サンデル著、早川書房(2021年4月初版)
(*注1)マイケルヤング著『The Rise of the Meritocracy』(1958年)
コメントを残す