п»ї 「リベラル能力主義」について考える(その4) 『視点を磨き、視野を広げる』第61回 | ニュース屋台村

「リベラル能力主義」について考える(その4)
『視点を磨き、視野を広げる』第61回

8月 08日 2022年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆本稿のねらい:日本の能力主義について考える

能力主義は、能力と努力を基準に人を評価する考え方であり、市場経済が求める人材を提供する役割を担う。しかし自由競争は豊かさとともに格差を生む。マイケル・サンデル(米ハーバード大学教授)は、機会の平等によって格差を解消するはずの能力主義が、結果として格差の拡大と固定化を招き、敗者には自己責任を押し付けていると米国の現状を批判する。

日本でも格差は拡大している。しかし、米国のような極端な所得格差や資産格差、少数の上位層と多数の下位層との分断の深まり、敗者の絶望死の増加といった現象は見られない。米国には、人種問題や地域格差といった固有の問題が背景にあるのは事実であるが、格差の根本的な原因は経済システムにあると考えるべきで、それは日本も同じである。では、なぜ日本は米国のような深刻な事態が起きていないのだろうか。本稿では、その理由を能力主義に焦点を当てて考えていきたい。

まず、日本の能力主義は学歴主義と成果主義という点で、米国とは異なるというところから出発する。そして、その背景に日米の雇用システムの違いを見る。日本では、雇用システムが社会的なセーフティネットと連携して機能することで、グローバル資本主義が生み出す弊害に対して抑制的に作用したと考えるのである。

◆能力主義の二つの基準

能力主義が機能するためには、客観的な評価基準が必要である。代表的な基準として、「学歴」と「成果(功績)」がある。

  • 「学歴」

「学歴」が、就職する際に重要な判断基準となるのは、属性(人種、性別、縁故など)による恣意(しい)的な採用を排除するためだ。特に米国のように多様な人種が住む民主主義国では、客観性、公平性を保つことが重要だ。その結果、米国では4年制大学の学位の有無で、アクセスできる職に大きな差がある。能力主義は学歴格差を生むのである。

しかし、日本は米国のような学歴社会ではないということを、論点1で説明したい。

  • 「成果」

成果とは、実績、功績である。学歴というパスポートを手にして社会に出てからは、能力主義の成果と評価をめぐる競争が続いていく。評価は、恣意性を排除するために市場における価値を基準に行われる。なかでも「貨幣価値」は、可視化しやすく客観性があるので最もわかりやすい評価基準とされる。このように市場での価値が基準となるというのが、米国の能力主義の基本である。

しかし日本は違う形の競争が見られるということを論点2で述べたい。

◆論点1:日本は学歴社会とは言えない

  • 米国は学歴社会

外国で生活していると、日本で抱いていたその国のイメージと違うと感じることがある。米国でも同じ経験をした。「日本は学歴主義、米国は実力主義」がそれである。実際に米国で働いて感じたのは、超学歴社会だということである。そしてそれには理由がある。

まず、学歴が持つ意味を理解するために、米国での採用における基本的な理解事項を確認しておきたい。米国での採用はジョブ(職)が基準となる。ジョブごとに、仕事の内容だけでなく、権限や責任範囲、必要な知識やスキルの内容、経験内容、勤務条件などが細かく定められている。これをジョブ・ディスクリプション(職務記述書)と呼ぶ。採用では、ジョブに必要なスキルを保証するものが学歴(大学での専攻)である。したがってジョブに応募するには、ジョブに合致する学歴(専攻)が必要になる。

米国で仕事をする場合に必要な学歴は、大きく三つに分類できる。非大卒、大卒、大学院卒である。非大卒と大卒の間の所得差は大きく、大きな境界線があるようである。その上に大学院卒があり、高所得の専門職や企業幹部を目指すなら必要な資格だ。ただし、資格がなくても大学あるいは大学院に行き直して取れば良い。新卒一括採用中心の日本と違ってやり直しが利くというのが米国の良さだ。

しかし問題は、大学の授業料が高額だということだ。裕福な家庭の子弟が有利であり、格差の固定化につながっている。平均的な家庭の子供は、奨学金と学生ローンに頼ることになる。ただ、学生ローンを借りると卒業後も多額のローンを背負う。そのため景気が悪化して失業すると、すぐに生活が破綻(はたん)してしまうので大きな社会問題となっているが、必要な学位を取らないと能力主義の競争に参加できないので、無理をして(多額のローンを借りて)大学に行くのである。

このように米国の能力主義は、大卒と非大卒の間にはっきりとした線が引かれており、大卒の上には大学院卒が君臨している学歴格差社会を生み出している。

  • 日本は米国のような学歴社会ではない

米国の例と比較すると、日本の大企業の採用条件は幅広だ。私が勤務していた金融機関では、経済学部や法学部だけではなく、文学部や教育学部出身の人も珍しくなかった。また、当時(1970年代後半)は、マルクス主義経済学を専攻していた人が少なからずいたが、採用面接でそれを隠さなくても、過激派の現役活動家でない限り問題はなかった。人事部の関心は、偏差値が高い大学からの採用者を増やすことにあった。たとえ文学青年やマルクス思想を学んだ人であっても、彼(当時の大卒採用は全員男性だった)が良い素材で協調性がある人物であれば、入社後に職場教育を通じて育成すれば良いし、また自社のカラーに染めていけるという自信のようなものが会社にはあったと思う。そして実際そうなった。

米国がその言葉通りの「学歴社会」だとすると、日本は「学校歴社会」「偏差値偏重社会」というべきだろう。それでも日本は大学進学率が高く、世界的に見ても教育レベルが上位の国だという意見があるかもしれない。しかし日本の高等教育の国際比較を見ると、必ずしもそうではないことがわかる。

文部科学省が学士号、修士号、博士号取得者の国際比較を行っている(*注2)。その資料をもとに日米を比較すると、人口100万人あたり毎年の学士号取得者は日本4539人、米国6156人(日本の1.4倍)である。そして修士号では日本588人、米国2550人(同4.3倍)、博士号では日本120人、米国281人(同2.3倍)である。

すべての数字において米国が日本を上回っているが、修士号や博士号では差がより大きいことがわかる。また、10年前との比較では、米国はいずれの数字も伸びているが、日本は博士号は減少、他の数字は横ばいである。

米国の学歴社会化を表す数字であるが、実は、日本を米国と比較しただけでは、まだ日本が置かれている現実が見えてこない。修士号や博士号で比較すると、欧州主要国のみならず韓国にも大きく劣っており、中国が日本に迫っているというのが実態だからだ。日本がグローバル競争力で劣位にあることは、こうしたところにも表れているのである。

以上の日米比較から言えることは、米国は超学歴社会であり、その傾向がますます強まっているということである。一方、日本は、米国などの主要国と比較すると高等教育の学歴で劣っている。それにもかかわらず、日本国内での偏差値ランキングのみ重視する「学校歴社会」が維持されているのは、閉鎖的な市場だからだ。

日本の教育は、垂直統合型大企業の均質な労働力育成システムとしては優れていたかもしれない。しかし、経済の知識化、情報化が進んだ現代の資本主義経済で求められる高度なスキルを持った人材の教育に立ち遅れているのではないかと思われる。それはなぜか。原因は、日本人の能力にあるのではなく、雇用システムに関係しているというのが本稿の主張である。

◆論点2:日本は成果(功績)主義か?

日本は米国のような学歴社会ではないという説明をしたが、では成果(功績)主義についてはどうだろう。

会社の出世競争を例に、日本的な成果主義とは何かについて説明したい。なお、これはわたしの実体験と観察に基づくものであるが、後段で説明する「メンバーシップ型雇用システム」の特徴と一致している。したがって、日本の成果主義の特徴を説明していると言えるのではないかと考えている。

日本は新卒一括採用で入社する。ある会社の構成員となるのは、「ウチ」側の人間となるということだ。いったん「ウチ」に入ってしまえば、非常に心地よい世界だ。大企業であれば福利厚生から社内外の研修まで充実しており、相談に乗ってくれる先輩や上司がいる。「ソト」の世界から守られている感があり、安心を与えてくれる。米国のような雇用の不確実性(解雇)はなく、実際同期入社で途中で辞めていく人はほとんどいなかった。

ただし対価の支払いが必要だ。どんな仕事をするのか、勤務地がどこかは基本的に会社の都合に従う。辞令が出れば世界中どこにでも行くというのが原則である。国によっては、単身赴任を強いられるかもしれないが、それも止むを得ないということだ。そして、どこで勤務するにしても、会社のために毎日、長時間一生懸命に働くことが求められる。

そうした前提の中で、出世競争をする(同期入社は仲間であるとともにライバル)。前提条件を守っている限り、競争は原則として平等で誰にでもチャンスはある。評価基準には当然成果(功績)が含まれるが、最も重視されるのは会社に一生懸命尽くす姿勢である。ただし、これは日本人の特性から来るものではないと思う。会社は社員(と家族)を守ってくれる擬似共同体だからである。社員が生活できるのは会社という共同体のおかげであり、尽くすのは当然だということになる。

収益をあげて会社に貢献する人もいれば、他の方法で貢献する人もいる。共同体なので協調性が重要だし、上に立つには人望があると思われることも大切だ。そうしたさまざまな形での会社への貢献を総合的に判断する。そして、より多く貢献したとみなされた人が出世するのである。それが日本の成果主義だと思う。

バブル崩壊までは、会社も社員も幸福であった。なぜなら、業績が毎年伸びてポストが増えていたので、社員の貢献に会社が報いることができたからであった。しかし、バブル崩壊以降、状況は一変する。一部の会社は米国型の成果主義の導入を試みた。米国企業が高収益なのは成果主義が徹底しているからだと考えて、日本の制度の中に組み込もうとしたのである。しかし、結果的に成功しなかった。

その原因は、米国の成果主義の形だけをまねたからだと思う。米国の成果主義は、前述のジョブの基盤の上に成立する仕組みである。それを業務の明確な定義や役割分担がない共同体の中で、無理に当てはめようとしたのでうまくいかなかったのではないだろうか。

日本人の国民性が米国流の成果主義に合わないとは思わない。日本の雇用システムがそうした成果主義に合わないのである。

◆雇用システムの日米比較

  • メンバーシップ型とジョブ型

高度成長からバブル崩壊までの日本経済は世界中から成功モデルだと見られていた。日本の成功要因の一つに挙げられたのが「日本型企業」であった。日本型企業とは、終身雇用、年功序列賃金、(労使協調の)企業別組合などを特徴とするモデル(型)であるが、その後の日本経済の停滞とともにかつてのような称賛は聞かれなくなり、やがて日本の長期的な低迷の原因の一つとみなされるようになった。

欧米の企業と日本企業の最大の相違点は、その雇用システム(体系)にある。現在は、日本の雇用システムを「メンバーシップ型」、欧米で一般的なシステムを「ジョブ型」と呼んでいるが、こうした呼称をよく目にするようになったのは、比較的最近のような気がする。そう思って調べてみると、濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構労働政策研究所長)という官僚出身の学者が唱えたものだという。濱口は、日本の雇用システムについて論じるために、欧米で一般的な雇用システムを「ジョブ型雇用システム」と総称したとしている(*注3)。

二つのシステムは次のように要約される―

「メンバーシップ型雇用システム」

・会社という共同体のメンバーになる⇨「就社」

・採用時に職種を限定せずに新卒一括採用を行う⇨素人を採用して職場で教育していく

・職種や働く場所、期間を定めない雇用⇨会社にとって人事が柔軟性に富む

・人材が必要になると社内の労働市場中心に調達⇨人事部が力を持つ

・ゼネラリスト型人材育成・配置⇨人事異動が定期的に行われスペシャリストが育ちにくい

・メンバーになれば皆平等であり誰もがマネジメント層を目指す⇨競争による活力が生まれる

・平社員を含めた全員に人事考課を行う⇨情意効果(仕事に向かう姿勢)を重視(=人基準)

「ジョブ型雇用システム」

・ジョブ(職)を基準にしてそこに人を当てはめるという考え方⇨「就職」

・ジョブごとにジョブ・ディスクリプションがある⇨職務内容や勤務条件を詳細に明記

・賃金はジョブごとに決まっている⇨ジョブが変わらないと賃金が上がらない

・必要な人材は外部労働市場から調達⇨他社の好条件のジョブを見つけて応募するのが一般的だが、自社で空いたジョブの募集があれば、それに手を挙げることも可能

・平社員の人事査定は行わない⇨ただし上位層は業績評価が中心

  • 雇用システムの変化が及ぼす影響

日本のメンバーシップ型雇用は、長期雇用を原則としており、社員にとって雇用の安定をもたらす。それを前提に、企業を通した形で年金や健康保険が制度設計され、管理されている。一つの企業での安定的な雇用を前提にして、社会的なセーフティネットが形成されていると言っても良いだろう。

しかし、かつては日本型企業の特徴とされた終身雇用、年功序列賃金は、経済環境の変化とともに、徐々に崩れだしている。今後も雇用システムが変化していくと考えられ、その程度と内容によっては、全体的なセーフティネットの見直しが必要になってくる可能性がある。雇用システムの変化は、社会全体に影響を与えるということを念頭におくべきである。

また、雇用システムの違いは、人材を供給する大学の教育にも影響を与えている。米国では企業が必要とする能力やスキルが明示的であり即戦力を求める。大学は、それを習得させるための実務に結びついた教育が特徴である。しかし日本のメンバーシップ型は、ゼネラリスト型人材育成・配置を前提とするので、大学教育も社会人の養成というゼネラルな性格を持つ。雇用システムの変化は、大学教育を変えていく可能性があるかもしれない。

◆まとめ

  • 米国と日本の能力主義の違い

米国の能力主義の基本には個人主義があり、ジョブ型の雇用システムは個人主義的である。個人が自由意志で会社と契約することで雇用関係を結ぶ。雇用はジョブ(職)が基本単位であり、そこに人を当てはめる。職務の内容、権限と責任など詳細が記載されたジョブ・ディスクリプションがジョブごとに決められている。

能力主義は学歴という客観的基準を必要とするので学歴格差を生む。また、権限と責任が決められ、目標設定も明確なので成果(功績)主義が機能しやすい。その分、給与格差は日本と比べて大きい。雇用の不確実性(失業)が常に意識されており、自分の市場価値を高めることに米国の能力主義の特徴がある。

これに対して日本は、メンバーシップ型の雇用システムであり、会社に入ることは、会社という共同体のメンバーになるということである。採用は人基準であり、素材の良さを保証するものとして出身校の偏差値を重視する。したがって米国のような学歴社会ではない。

長期雇用を前提としており、雇用は保証されるが、対価として職種や勤務地は会社命令に従い、会社のために長時間一生懸命に働くことを求められる。ゼネラリスト型人材育成・配置が基本であり、会社都合の人事異動が定期的に行われる。競争は平等であり、業績を含めた会社への総合的な貢献を競う。平等主義的あり、平社員とマネジメント層の給与格差は米国と比べて小さい。出世のためには自分の社内価値(評判)を高めることが重要だという点に、日本の能力主義の本質が表れている。

  • 安定と停滞

日本のメンバーシップ型雇用システムが、雇用の安定をもたらし、それを前提として構築された年金や健康保険、公的扶助といった社会的なセーフティネットが機能したので、グローバル資本主義に組み込まれながらも、日本は米国ほど格差の拡大が深刻化しなかったと考えられる。

その一方で、ヒトの流動化が進まず、次々と時代を先導する新興企業を生み出す米国のようなダイナミズムが生まれなかった。その結果、企業の新陳代謝も進まず、経済の停滞が続いた。

社会の安定をもたらした雇用システムが、経済の停滞の要因の一つとなっていると考えられる。しかし、グローバル化、知識社会化の流れは止まらず、非正規雇用の増加など日本の雇用システムも次第に崩れてきている。変化はすでに始まっていると言えるが、その先に何が待つかはまだ見えない。

<参考書籍>

『無理ゲー社会』(橘玲著、小学館新書、2021年8月初版)

『実力も運のうち―能力主義は正義か』(マイケル・サンデル著、早川書房、2021年4月初版)

(*注1):「ニュース屋台村」拙稿第27回「『新・日本の階級社会』について」参照

(*注2)『科学技術指標2021』文部科学省科学技術・学術政策研究所(2021年8月):数字は最新年度で比較(日本の学士号が2019年、米国は2018年など)

(*注3)『ジョブ型雇用社会とは何か―正社員体制の矛盾と転機』(濱口桂一郎、岩波新書、2021年9月)

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