古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆本稿の狙い
今回のテーマは「物価」である。日本は1990年代後半からデフレ(物価下落)に苦しんできたが、突然インフレ(物価上昇)に見舞われた。世界全体でインフレが進行しており、日本もその影響を受けたことが直接の原因であるが、これでデフレから脱却したと考えて良いのだろうか。その問いに答えるためには――世界的なインフレの原因は何か、そもそも日本はなぜデフレになったのか――を明らかにする必要がある。
これらの疑問に対する答えを示してくれる本を見つけた。渡辺努(東京大学教授)の『物価とは何か』と『世界インフレの謎』である。渡辺は日本銀行出身の経済学者である。渡辺の恩師である根岸隆(東京大学名誉教授)は、学問を「ハードアカデミズム」と「ソフトアカデミズム」に分類して、前者は新しい知の創造や独創的な研究を目指し、後者は知の伝承や教育を目的とすると述べている(*注1)。根岸は、日本の大学は後者に偏っているが、国際的な学会で承認される「ハードアカデミズム」こそ日本に必要であると説く。根岸自身は、それを実践した日本有数の経済学者である。
渡辺が取り組んでいるのは、マクロ経済学の立場でミクロの価格データを用いた物価研究――「価格(ミクロ)」とその集合体としての「物価(マクロ)」の動きの違いを突き止める――という先駆的なものである。また、渡辺は物価研究の国際的ネットワークのメンバーとして活躍している。恩師と同じく「ハードアカデミズム」の道を志す経済学者だと思われる。
前述の2冊の本は、一般の読者向けに書かれた啓蒙書である。「ハードアカデミズム」の学者が、啓蒙書を書くことは珍しくないかもしれない。今回の場合、物価についてできるだけ多くの人に正しい知識を持ってほしいというのが執筆の理由だろう。ただ、そうした渡辺の願いの根底には、慢性デフレへの危機感があるのではないかと考える。
渡辺は日本のデフレの本質を、企業の「価格据え置き慣行」に焦点を当てて解き明かしていく。価格競争力を失った企業は、コストカットに走り、後ろ向き経営に追い込まれ、経済は活力を奪われていく。また、デフレ脱却を目指した日銀の超金融緩和政策は十分な効果が得られずに政策的な限界が近づいている。手遅れにならないうちに、できるだけ多くの人々とこうした危機感の共有を図りたいという渡辺の思いが本書を書かせたのではないだろうか。
本稿では、まず日本のデフレについての渡辺の考え方を見ていきたい。
◆慢性デフレの原因
- 価格の硬直性
渡辺は、経済学の学説から物価理論の発展を解き明かすことで、読者に「物価とは何か」を理解するための基本知識を示した上で、最先端の研究課題を説明している。それを読んで知ったのは、物価についてまだまだ分からないことの方が多いということである。その一つが、ジョン・メイナード・ケインズ(1883〜1946年)が指摘した「価格の硬直性」だ。
ケインズは、20世紀初頭の主流派経済学であった新古典派を批判的に考察して多くの論考を残した。価格の硬直性もその一つであり、新古典派経済学が前提とする「価格の伸縮性(供給と需要の交点で価格が瞬時に調整される)」を批判して、価格の硬直性を指摘した。ケインズの諸論考は、後継者たちによってマクロ経済を扱うケインズ経済学として発展していく。
しかしながら、渡辺は、ケインズの後継者たちは、「価格は1ミリも動かない」という前提に立ち、失業の問題や金融政策、財政政策を論じることに熱心で「価格硬直性」そのものの研究は進まなかったとする。ようやく70年近く経った2000年代になって、価格硬直性の問題――どの程度硬直的なのか/原因は何か――についての研究が本格化したとしている。
渡辺は価格硬直性の実証研究を「ケインズの宿題」と呼び、硬直的な価格が動くときにはどのような法則性を持つかを、価格のビックデータから解明しようとするのである。その研究の中から生まれたデフレの原因についての仮説を見ていきたい。
- 慢性デフレの原因
渡辺は、日本のデフレは「長期」にわたって続いていること、「緩やか」であること(特徴1)だと指摘し、価格の更新頻度のデータ――消費者物価の構成品目(588品目)について価格変化率(前年同月との対比)を計算し頻度の分布を示す――を用いてそれを明らかにする。そして日本の「頻度分布の特異性」(特徴2)を指摘する。
特徴1:「長期」かつ「緩やか」なデフレ
:日本企業の価格据え置き慣行は1995年ごろに始まった。それまでは、企業は高インフレによる原油や人件費などの上昇を欧米と同じように価格に転嫁していた。しかし1995年ごろから前年比0%近傍(価格が動かない)の品目の比率が急上昇し、そのまま現在まで続いている。
特徴2:「頻度分布の特異性」
:米国などと比べて日本の頻度分布の特異性が際立っている――日本だけが0%近辺に山がある(価格据え置き商品が最も多い)が、米国は2〜3%のところに山がある――とする。そして
山のある部分は企業と消費者の間でコンセンサスが確立されていることを示すと考える。すなわち――米国では物価が毎年2%程度上がることについて、日本では「価格据え置き」についてのコンセンサスがある――ということだ。
この結果を踏まえて渡辺は、価格据え置き慣行が続く理由として――日本の消費者の「予想」が欧米諸国と違う――という仮説を立てる。その違いは、国民性によるものではなく、物価環境の違い――物価が上がっている欧米と上がらない日本――によって決まると考える。予想の違いは消費者の行動の違いとなって現れる。値上げに慣れている欧米と違い日本では物価が長期間上がっていないので、消費者は値上げを拒絶する――いつもの店で商品が値上げになっていたら別の店に行って買う――という行動に出るのである。この現象をデフレ下で価格硬直性が高まっていると表現している。
なお、日本の消費者は、価格に厳しいだけではなく、品質にも厳しいという特徴を持つことを付け加えておきたい。わたしは欧米で生活した経験があるが、日本の消費者は、食品の賞味期限や、衣料品の傷に関して非常にうるさい――米国人は少々のほつれや色ずれは気にしない――というのが実感だ。グローバルな基準と比較して、現在の日本は高品質と低価格を同時に求める国だと言えるのではないか。生産者にとっては大変厳しい環境の国と言えるだろう。
- デフレの問題点
デフレに関しては、物価が安定しているのでそれでいいのではないかという意見がある。生活実感として賛同する人も多いのではないかと思われる。特に、年金生活者にとっては、年金で暮らしていけるのも物価が低位安定しているおかげだというのが正直な感想かもしれない。
しかし渡辺は、慢性デフレが生み出す問題を指摘している。
問題1:賃金が上がらない
企業の価格据え置きは消費者にとっては一見良いことのように見えるが、そうではない。消費者は同時に生産者(労働者)でもあるので、価格据え置きでは企業が賃金を上げられないからである。価格と賃金が両すくみの状態で、なんとかバランスを保っているのが日本の現状である。したがってデフレ脱却は、価格と賃金の両方をバランスよく上げていかないと成功しないことになる。
問題2:企業の「価格支配力」の喪失
慢性デフレが続くと企業は「価格支配力」を失っていく。たとえ原材料が上がっても値上げができない企業は、コストカットに逃げる。そして、その連鎖が経済全体の需要を減退させる。こうしてデフレは、企業を後ろ向き経営に追い込み、経済全体の活力を削ぐのである。こうした環境の中では、経営者は失敗リスクを伴う新商品の開発を避け、ステルス値上げ(価格据え置きで量を減らす)でその場を凌(しの)いでいこうとする。
問題3:「安いニッポン」現象
日本は、物価も賃金も割安の国になったという「安いニッポン」現象が言われて久しい。その原因は、モノの値段の比較で測った為替レート(購買力平価=あるべき水準)より、実際の為替レートが安すぎることにある。金融緩和で購買力平価水準より円安が進むと、外国から見た日本のモノの価格は割安に感じられるようになる。
さらに渡辺は、日米の賃金を比較して――2000年以降日本の賃金の割安化が進行している――ことを示す。そして割安になった要因を、デフレ要因(日本の実質賃金が米国の実質賃金より割安)半分、為替要因(為替レートが購買力平価との対比で割安)半分と分析している。モノの値段も、賃金も安いニッポンになってしまっているのである。
ただし、安いニッポンは、海外から「買われる」ことで、価格と賃金が上がる可能性があることも指摘している。輸出や海外からの対日投資を増やす方法を考えるべきで、むしろ安さをチャンスに変えれば良いということである。
三つの問題点を挙げたが、やはりこの中で最も恐ろしいのは、企業の価格支配力の喪失だと思われる。それは日本経済から活力を奪うからである。こうした状態が長引くと負のスパイラルに落ち込んでいくのではないかと危惧(きぐ)する。デフレ脱却は急がなければいけないのである。
◆中央銀行による物価の制御
- 「予想に働きかける政策」
物価を制御しその安定を図るのは「物価の番人」である中央銀行の役割である。中央銀行は、インフレの時は物価を下げる、デフレの時は物価を上げるように市場の資金を操作する(オペレーション)。ただし、現代の中央銀行はもう少し洗練された考え方をそこに加えている。それが、人々の「予想に働きかける政策」である。
まず、物価を変動させるのは、人々の予想に基づく貨幣への需要と考える。貨幣への需要――今日使うか明日のために保有するか――は、将来の予想に依存する。しかしそれには不確実性が伴う。したがって予想には「揺らぎ」が不可避であり、この揺らぎが物価の変動を引き起こすとするのだ。物価の本質は人々の「予想」にあるという理解であり、それによってインフレもデフレも起きると考えるのである。
そして中央銀行は、こうした人々の「予想に働きかける政策」――人々のインフレ予想をコントロールする政策――を採っている。中央銀行が人々にメッセージを伝えることで、人々の予想を操作し、それによって人々の行動を変えようとするのである。中央銀行は、インフレ率の目標値をあらかじめ定めた上で、それを公表し、その実現を国民に対し約束する。それを「インフレターゲティング」と呼んでおり、現在、日本銀行をはじめ米欧主要国の中央銀行が導入している。
本書では、インフレターゲティングは中央銀行の「独立性」と「透明性」を実際の制度として結実させたものと位置付けている。「独立性」とは――政治の介入を排除するために中央銀行の自立性を法制度面で担保すること――であり、「透明性」とは――中央銀行から人々(消費者や企業経営者)に向けて情報発信をすること――を意味している。
現在日本銀行は、消費者物価の前年比上昇率2%の「物価安定の目標」を導入している。将来はインフレだと人々が予想するようになれば、インフレ率の上昇につながると考えているのである。しかし、日銀による過去10年に及ぶ超金融緩和(異次元の金融緩和)によってもデフレを克服でていない。渡辺はその原因を、さまざまな政策的な限界と「ノルム(社会的規範)」という概念によって説明する。
- 「流動性の罠」
「流動性の罠(わな)」とはケインズが唱えたものであり、金利が一定水準以下に低下した状態において貨幣需要が「飽和」するために中央銀行の金融緩和が効かなくなることを指す。本書では――人々がデフレを予想したときに、中央銀行が貨幣量を増やせば予想を潰せるはずであるが、貨幣量が飽和していると、いくら貨幣量を増やしても効き目がない――としている。
渡辺は、貨幣量の飽和の問題はケインズ以降「研究が止まってしまった」と言う。なぜなら第2次世界大戦後の中央銀行はインフレとの戦いに重心が置かれたからである。その結果、インフレ対策の経験知は蓄積されてきたが、デフレについてはそうではなかったとする。
- 「予想」から「ノルム」に変化
日銀の「予想に働きかける政策」は成功していない。渡辺は、その理由はインフレ「予想」ではなく、「ノルム」がインフレ率を決めているからだと考える。変わりやすい人々の「予想」ではなく、変わりにくい「規範」として根付いてしまっていると見るのである。
中央銀行が「インフレ率2%」のメッセージをいくら伝えても、規範は簡単には変わらない。ただ本書では、このノルムが変わりかけた時があったという。それは安倍政権時代の2013年、黒田日銀による異次元緩和のスタート時だという。すなわち――日銀の異次元緩和によるデフレ脱却への「強いメッセージ」が出され、大幅な円安を起こすことに成功した(輸出企業の業績にプラス⇨株高)。しかしそれが物価に波及し始め、賃金も上がらなかったので国民の反発が起きた結果、やむなく政府・日銀は円安に否定的なメッセージを出して円高に反転し(2015年6月)、ノルム変化への機運は萎んだ――というものである。
渡辺はこの時に「物価・賃金ノルムのうち、物価が動かないというノルムは崩れかけた」とする。しかし、「賃金が動かないというノルムは頑固で崩れなかった」ので、「消費者は強く拒み、ノルムの改革は失敗に終わった」と解釈している。物価と賃金はセットで考えなくてはデフレを動かせないということである。
そうした中で、今回の世界的なインフレの影響で日本もインフレ基調に変化した。渡辺はこれは「ウイルスが日本にもたらしたチャンス」だと考えたいとしている。今度こそは物価と賃金のバランスをとりながらノルムを崩していかないといけないというのである。
◆まとめ
- 日本の慢性デフレの原因
(1) 物価を変動させるのは、人々の「予想」に基づく貨幣への需要の「揺れ」である。日本は1990年代後半から長期にわたり緩やかなデフレが続いている。したがって、このデフレの本質は、人々の「物価は上がらないという予想」の自己実現である。
(2) 値上げを断固拒絶する消費者の要求に、企業は従わざるを得ない。企業間の相互作用により、「価格据え置き」が「慣行」となっていく。その代償として労働者でもある消費者は、賃金の据え置きを受け入れざるを得ない。価格と賃金はともに「上がらない」ことでバランスを取っているのである。
(3) デフレの恐ろしさは、価格を上げられない企業の「価格支配力」の喪失にある。その結果、企業はコストカットに傾斜し、ステルス値上げに逃げる。その連鎖が経済全体の需要を減退させ、企業を後ろ向き経営に追い込み、経済全体の活力を削ぐ。ここに日本経済の長期低迷の要因の一つを見ることができる。
- 日銀の超金融緩和政策の評価
(1) 日銀は、人々の「予想に働きかける政策」に基づき、「異次元の金融緩和」という強いメッセージを発することでデフレ脱却を目指した。
(2) ただし、インフレ対策として実績のある同政策は、デフレ対策としては「流動性の罠」による貨幣需要の飽和という問題を内包する。さまざまな限界――金融緩和の実務的限界、マイナス金利の限界――が見え始め、継続が困難な段階に近づいている。
(3) 日銀の失敗の原因は、人々の「予想」が今や「ノルム」にまで強固になってしまった結果だと考えざるを得ない。「ノルム」という認識を持ち、違った視点からの政策が検討されるべきである。
こうした慢性デフレに苦しむ日本を、突然インフレが襲った。これで日本はインフレ基調に変化したのか、それとも急性インフレが収まるとデフレに逆戻りするのか。著者の答えを次稿で検討したい。
<参考書籍>
『物価とは何か』(渡辺努著、講談社選書メチエ、2022年1月第1刷)
『世界インフレの謎』(渡辺努著、講談社現代新書、2022年10月第1刷)
(*注1)『経済学の壁――教科書の前提を問う』(前田裕之著、白水社、2022年7月)
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