古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆はじめに
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大は、社会に大きなダメージを与えて経済活動を停滞させた。パンデミックとの3年にわたる戦いの後、WHO(世界保健機関)は今年5月に「緊急事態宣言」の終了を発表した。経済学者の渡辺努(東京大学大学院教授)は、パンデミックは「後遺症」を残し、それが現在の世界インフレの主原因であるという説を唱えている。(⇨①パンデミックの「3つの後遺症」)
WHOが「緊急事態宣言」を出したのは、2020年1月であった。同年3月には、パンデミックの影響による消費減少が景気後退を招くことを懸念したFRB(米連邦準備制度理事会=米国の中央銀行に相当)は、緊急利下げを行ってゼロ金利政策を導入した。金融を緩和して市中に大量の資金を供給することで景気悪化を防ぐことが目的であった。
しかしその後の突然のインフレが、FRBに政策の変更を強いることになった。FRBは、緩和から2年後の2022年3月に引き締め政策に転換したのである。FRBはその後も段階的に金利を引き上げていき、現在も継続中である。FRBの政策の第一目標は、「物価の安定」にあるが、金利を引き上げてもインフレ率はなかなか低下せず、一方で利上げが効きすぎると「景気の軟着陸」が難しくなるというジレンマに陥っている。渡辺は、今回のインフレの原因がパンデミックの後遺症による供給要因にあるために、中央銀行の政策には難しい面があることを指摘する。(⇨②中央銀行の政策の困難さ)
翻って日本はどうか。FRBをはじめとする先進各国の中央銀行は、インフレ対策のために金融引き締めを行っている。一方日銀は、先進国の中で唯一金融緩和を継続している。日本の急性インフレは、外的な要因(輸入物価高騰と円安)が原因であること、賃金の上昇が伴っていないことが理由である。渡辺は、海外発の急性インフレをむしろ好機と捉えて、「物価と賃金のノルム(社会的規範)」が変化することに期待を示し、それを実現するための条件を挙げる。(⇨③デフレ脱却の可能性)
本稿では、上記の①パンデミックの三つの後遺症②中央銀行の政策的困難さ③日本のデフレ脱却の可能性――について、前稿と同じく渡辺努『物価とは何か』『世界インフレの謎』を参考にしながら考えたい。
◆パンデミックの3つの後遺症
○今回の急性インフレの原因は供給不足にある
新型コロナは2020年初めごろから世界的に感染が拡大し、消費が大きく落ち込んだ。経済活動は停滞し、物価も低位で推移していた。その世界が、2022年初頭に突然インフレに見舞われた。時期はウクライナ戦争と重なるので、世界インフレの主原因は戦争だという見方が一般的であった。
しかし、渡辺は、世界インフレの主原因はウクライナ戦争ではないという。理由は、「ウクライナ戦争前の2021年ごろからインフレの兆候が出ていた」からである。そして主原因を、パンデミックがもたらした三つの行動変容(「消費者」・「労働者」・「企業」の行動変容)に求める。それはパンデミックが終息しても後遺症として残り、供給力にマイナスの影響を与えているとする。したがって、今回のインフレは「供給不足」によるコストプッシュインフレだということになる。
○「消費者」の行動変容
渡辺は、ステイホームを契機として、消費者が消費の対象をサービスからモノへとシフトさせたため、経済が再開してもサービス消費は以前の水準に戻らないとする。そして、この現象を「サービス経済化という従来の流れからの急逆転」が起きていると捉える。こうした急激な需要シフトに対応して、労働と資本が産業間で移動することは容易ではないので、モノの供給が不足している。これがインフレをもたらした原因の一つとなったと考えるのである。
○「労働者」の行動変容
大部分の人々は消費者であるとともに労働者としての顔を持つので、パンデミックは労働者の行動にも影響を及ぼした。渡辺は、米国では、パンデミックを機に仕事の現場から離れたまま、職場に復帰しない労働者が増えて労働参加率が低下していると指摘している。労働者の不足は、供給サイドに極めて深刻な影響を及ぼしており、インフレ要因となっている。
○「企業」の行動変容
コロナ前から始まっていたグローバルなサプライチェーンの再編という過渡期に、パンデミックと戦争が起きた。そのため、各国がポストコロナ政策に転じても、生産活動の減速は止まらず世界貿易は回復軌道に乗れずにいる。渡辺は――世界的なサプライチェーンによってコストパフォーマンスを追求するグローバル化こそ、低インフレを世界に広める大きな要因であった。しかしその流れが逆転し始めた――とする。「脱グローバル化は、長期的かつ静かに進行する供給ショック」だという指摘は、来たるべき「新しい価格体系」を示唆している。
○「新しい価格体系」への移行
「新しい価格体系」とは、世界経済の構造的転換を背景としている。「三つの行動変容」は、価格のあり方に大きな影響を及ぼして「価格と賃金が上昇する」と考えるのである。
すなわち――
「労働者の行動変容」:長期化に伴って賃金が商品全般の価格である物価との対比で上昇し(実質賃金が上昇し)それが新しい価格体系になる
「消費者の行動変容」:同じようにモノ価格はサービス価格との対比で」高くなり、これがパンデミック後の新たな価格体系になる
「企業の行動変容」:脱グローバル化は、貿易の対象となりやすい商品の価格と、中国などの労働者と競合する先進各国の労働者の賃金を押し上げる方向に作用する――
渡辺は、現在進行しているインフレは、行動変容によって新たな価格体系(今よりも高い価格と賃金)へと世界経済が移行する過程で発生している現象と位置付けるのである。
◆中央銀行の政策的限界
○各国の中央銀行のインフレ対策
中央銀行にとって物価の安定は重要な役割である。急性インフレに直面した世界の中央銀行は、物価の上昇を抑えるために金融引き締め政策を採った。前稿で見たように、中央銀行はインフレを抑制するための経験を蓄積している。ただしそれは金融を引き締めることによって需要を抑える政策に関するものである。
すでに見たように今回のインフレの原因は供給不足にある。それにもかかわらず需要を抑える政策を採っているのは、中央銀行は供給サイドの変化に対して有効な手段を持たないからである。渡辺は――減った供給は減ったままにしておき、需要の方を冷やして減った供給に合わせる形でつじつまを合わせているのである――と表現している。このように供給力の低下が原因のインフレに対して、需要を抑制する政策で対応しているので、舵(かじ)取りは困難さが伴うのである。
○今回のインフレ対策の困難さ
中央銀行が行う金融引き締め政策は副作用――金利を引き上げて需要を減らすと景気が悪化し、失業率も高まる――がある。景気悪化と失業の増加は、政治家に嫌われるので、中央銀行は政治からの圧力を受けやすくなる。現在のFRBが進める金融引き締め政策は、このような難しい条件の下で進められている――F R Bが物価の安定を優先して金利引き上げを進めれば、景気の軟着陸が難しくなる。そうなると株価は大幅に下落する。一方景気を優先して利上げを止めれば、インフレの進行が止まらない――のである。さらに、本書が指摘するように、インフレ退治のための金融引き締め政策は、今回のようなコストプッシュインフレに対してはコントロールが難しいのである。
さて、世界の中央銀行という表現をしたが例外がある。日本の中央銀行である日銀である。日銀は、異次元緩和を推進した黒田前総裁が今年4月に退任して、植田新総裁が就任したが、金融緩和政策は継続されている。まだデフレから脱却したとは言えないと判断し、政策転換の時期ではないと考えているのである。渡辺は、今後日本が経済の好循環を作り出してデフレから脱却できるかどうかについて、次のような提案をしている。
◆日本がデフレから脱却する条件
○世界インフレの中で日本は取り残されているという認識
世界インフレの影響を受けて、日本もインフレになった。しかし渡辺は、国際比較で言えば日本のインフレ率の低さは際立っているという。IMF(国際通貨基金)の2022年のインフレ率ランキング(同年4月時点のIMFの予想値)で日本は加盟国(192カ国)中、最下位であることを示すのである。なお、その後の実績値で見ても、米国のインフレ率(2022年6月)は9.1%、英国9.4%であったのに対し日本は2.4%と低い(*注1)。
渡辺が日本のインフレ率の低さを懸念するのは、金融政策が機能するためには、平時でもある程度のインフレ率が必要であるからだ。これは、前稿のケインズの「流動性の罠(わな)」と関係している。「流動性の罠」とは――金利が一定水準以下の場合、貨幣需要が「飽和」するために金融政策が効かなくなる――ことを指す。金利には下限があるということである。デフレ時には、中央銀行は金利を低下させていくが、それには下限があるので、下限に達すると中央銀行の政策が効かなくなってしまう。ある程度の「余裕」が必要だと言うことである。そうした事態を避けるためにインフレターゲットを0%ではなく2%に置くことで政策余地を残しているのである。
慢性デフレの日本は、世界インフレに見舞われてもインフレ率は国際比較で低い。渡辺は、その理由を――輸入物価インフレ率は他国と同じように高いが、それが国内価格に転嫁されていないからだ――と分析する。日本の「物価と賃金のノルム」は強力だということである。
○変化の兆し
渡辺は、そうした強力な物価と賃金のノルム――消費者は価格が動かないことを前提に賃上げをがまんする。企業は賃金が動かないことを前提に値上げをがまんする――の一角が、パンデミックに伴う急性インフレによって変化したと指摘する。調査データによって――インフレ予想の上昇を起点として消費者が価格の上昇をやむを得ないものと受け止めるようになり、それに呼応して企業が価格への転嫁を始めている――ことが明らかになってきたというのである。
残るは賃金のノルムである。渡辺は、調査データ――9割の労働者が「賃金は上がらない」と考えている――が示すのは「前途多難」だとしつつ、賃上げ実現への二つのアイデアを提示する。
○アイデア1:名目賃金を重視すべき
賃金には「名目賃金」と、そこから物価上昇率を引いた「実質賃金」がある。日本の慢性デフレでは、実質賃金も低下しており、その引き上げに焦点が集まることが多い。実質賃金の上昇は、労働生産性の上昇が必要だ。そのためには、成長分野への投資やイノベーションが必要である。渡辺は、こうした長期的取り組みの必要性は認めるが、それだけではなくまず賃金が上がるサイクルを作ることが重要だというのである。
注目するのがイタリアである。先進国の中でイタリアの実質賃金は日本と同じく上がっていないが、名目賃金は上昇している。日本もまずその段階に行くべきだというのである。物価上昇率程度の賃上げを続けて、人々の「予想」を「賃金も物価も上がる」のだというものに変えることから始めるべきだという現実的意見である。
○アイデア2:「賃金解凍」に向けた3つの条件
渡辺は、動かない日本の賃金を「凍結」しているようだと表現する。そして、それを解凍するための三つの条件を挙げている。
条件1:物価は上がるという予想が人々の間で共有され、生活を守るための賃上げ要求は正当であるという理解が社会に広まること
⇨(現状)海外インフレの流入による予想インフレ率の上昇で状況は改善している
条件2:企業が「賃上げの原資は価格転嫁である」と考えること:先に賃金を上げ、企業はコスト上昇分を価格に転嫁するために値上げをするという循環を作り出すのである。「企業の値上げ→賃金引き上げ」ではなく、「賃金引き上げ→企業の値上げ」という流れを志向すべきだという意見である
⇨(現状)さまざまな業種の労働者から一斉に賃上げ要望が出てくる工夫が必要であり、ここは「政府の役割が大きい」としている
条件3:労働需給の逼迫が日本でも起こること
⇨(現状)経済再開の本格化において、労働者の行動変容による欧米のような労働供給の減少が起きるかどうかはなお不確実で、先行きが見通せない
現状認識が示すのは、条件1は改善しているので、条件2で政府が頑張るしかないということである。また、条件3の労働需給の逼迫(ひっぱく)については不透明である。渡辺の調査では、米国で起きている「ロング・ソーシャル・ディスタンシング(コロナが収束しても職場に戻らない現象)」に似た傾向が日本でもみられるというが、労働供給の減少につながるかどうかは分からないとしている。賃上げの鍵を握る労働需給への影響については、もう少し時間をかけた観察が必要ということだろう。
◆まとめと課題
○行動変容と新しい価格体系
パンデミックによって消費者、労働者、企業の行動変容が起きた。重要なのは――消費者のサービス経済化からの逆転現象、労働者の労働参加率の低下、企業の脱グローバル化――である。こうした変容がもたらすのは、「安さ」を追求していくことから新しい価格体系(価格も給与も上がる)への移行である。渡辺の問題意識は――今回の世界インフレにおいても日本は世界から取り残されている。日本企業は世界的なトレンドとしての新しい価格体系に対応していけるのか――である。
<課題>
次のステップとして、グローバルなサプライチェーンの価格形成の仕組みを解き明かした上で、実証データが示されることを期待したい。
○金融政策の限界
中央銀行が行う金融政策は、需要過多によるインフレ(ディマンドプルインフレ)を抑制することに有効である。しかし今回のような供給要因のインフレ(コストプッシュインフレ)対策では、コントロールが困難であるという問題がある。また、日本のようにデフレ時に需要を増やすことに関しては、「流動性の罠」による金融緩和政策の限界がある。
<課題>
日本が陥っている慢性デフレに対処するための金融政策にはこうした限界がある。渡辺は、FTPL(物価水準の財政理論)という学説を支持していると述べており、政府の役割の拡張(非伝統的財政政策)によってデフレに対処すべきだという立場である。後述する渡辺の提言は、それを反映したものと思われる。
○デフレからの脱却
渡辺は、今年5月15日に行われた政府の経済財政諮問会議(*注2)に招かれ、「消費者の物価・賃金予想と企業の価格転嫁」と題した報告を行っている。その際の資料をもとに最新の渡辺の現状認識をまとめてみた。
「消費者」:インフレ予想は2022年春から顕著に改善し、現時点では欧米の消費者と大差ない
「企業」:2021年夏以降、コスト増の国内価格への転嫁を進めている
「賃金」:賃金は据え置きとの予想が依然として過半を占めており欧米との差は縮まっていない
消費者のインフレ予想と企業の価格引き上げに関しては現状を肯定的に捉えている一方で、賃上げに関しては、楽観視していないことが分かる。ただし、「物価との対比で賃金の改善が遅れている現状にあって、フォーワードガイダンスに賃金への言及が追加された(日銀は4月28日に追加)ことは適切」と評価している。
また、「賃金にも物価目標と同じように目標値を示すべき」「最低賃金の改定で政府日銀の協調が必要」などの提言をしている。政府は、伝統的な財政政策にとどまらず、もう一歩踏み込むべきという主張である。
<課題>
政府主導による「賃金引き上げ目標設定」や「最低賃金引き上げ」は企業サイドからの反対も予想され、実現は容易ではないだろう。しかし渡辺としては、①人々の「予想」が動き出した今がデフレ脱却のための大きな(そして最後の?)チャンスである②その鍵は賃上げの継続が握っているという現状認識に立ち、金融政策で賃上げを実現することはできないので政府の直接的働きかけという強い手段の発動を呼びかけているのである。慢性デフレからの脱却は、政府の手にバトンが託されているのである。
<参考書籍>
『物価とは何か』(渡辺努著、講談社選書メチエ、2022年1月第1刷)
『世界インフレの謎』(渡辺努著、講談社現代新書、2022年10月第1刷)
(*注1)2022年12月の実績値は、FRBの利上げがあっても米国は6.5%とインフレ率の低下が十分ではない。また、英国は10.5%と高い。日本は4.0%である(資料:総務省統計局「消費者物価指数」)
(*注2)令和5年第6回経済財政諮問会議は、5月15日に開催された。出席者は、議長の岸田首相以下の通常メンバー(植田日銀総裁もメンバー)に加え、渡辺や清滝信宏プリンストン大学教授が招かれて報告を行っている。(出所:内閣府ホームページ)
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