古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆はじめに
今回はMMT(現代貨幣理論)について考えたい。日本の財政の現状――財政赤字と国債の大量発行が常態化していても、低金利が続き財政が破綻(はたん)しないのはなぜか――について主流派経済学は納得がいく説明ができているとは思えない。一方、MMTは独自の貨幣論に基づく論理的整合性をもった解釈を示すが、それは主流派経済学の常識と相いれない。
経済学者の見解が真っ向から対立している状況を、専門家ではないわたしたちはどう考えれば良いのだろうか。そのヒントを得るために、本稿では主流派経済学とMMTの貨幣観――貨幣の起源論争とそこから導かれる貨幣理解――の違いから考えていきたい。
MMTについては以前に書いた(*注1)が、その後MMT研究で知られる経済評論家・島倉原(しまくら・はじめ)の『MMTとは何か』を読み、また同氏のMMTに関する講座に参加する機会があったので、今回はそれによって得られた知識を織り込んでいる。
本稿では主流派経済学という表現を使うが、これは新古典派経済学(ミクロ経済学)及びそれに対応した(ミクロ的基礎付けされた)マクロ経済学を指す。日本のリフレ政策のアイデアは後者に属する経済学者ポール・クルーグマン(ノーベル経済学賞受賞)から出てきたものである。リフレ派という学派があるわけではなくアイデアに賛同する学者をそう呼んでいると考えた方が良さそうだ。一方MMTは、非主流派のポストケインジアン左派の一部の学者が唱えている。イデオロギー性の強い理論と言えるだろう。なお、経済理論の説明については前稿に続いて、前田裕之の『経済学の壁―教科書の前提を問う』を参考にした。
◆MMT理解の基本
・貨幣の起源:「商品貨幣論」vs「信用貨幣論」
MMTを理解するためには、貨幣の起源を巡る論争から始める必要がある。わたしたちが貨幣の起源を問われて思い浮かべるのは、物々交換から貨幣が生まれたという「商品貨幣論」だろう。
商品貨幣論では、貨幣が存在する前は物々交換経済であったが、それでは不便なので多くの人が価値を認める商品として貴金属(特に金)が貨幣となったと考える。商品貨幣論は①不換紙幣(素材には価値がない)の説明が十分できない②貨幣の退蔵機能(お金を貯め込んで使わない)を考慮しない――ことが欠点とされる。
これに対してMMTの「信用貨幣論(*注2)」は、貨幣の起源を売り手と買い手の「債権債務関係」に求める。売買とは本質的に「信用取引」――捕った魚を先に相手に渡し(信用を与える)、後で相手が農作物を収穫したら受け取る――であり、貨幣とはそこから生まれる「債務証書(負債)」だと捉えるのである。
「商品貨幣論」が貨幣は市場から生み出されたと考えるのに対し、「信用貨幣論」は貨幣(債務証書)が先に存在し、そこから市場取引が発展したと考える。なお、イングランド銀行は後者と同じ「貨幣は負債」との立場である。(*注3)
「物々交換が先」は歴史的に実証されていると思われるかもしれない。しかし貨幣の起源に詳しい日本銀行出身の経済学者鎮目雅人(しずめ・まさと)(早稲田大学教授)によれば、商品貨幣論は「必ずしも歴史的に実証されたものではない」という(*注4)。
また、金井雄一(名古屋大学名誉教授)は英国金融史の泰斗(たいと)とされる経済学者だが、「信用貨幣論」と「内生的貨幣供給論」(後述)の研究成果を出版して話題になっている(*注5)。金井は、貨幣の発展史から「信用取引が先にあった(信用の先行)」ことを緻密(ちみつ)な考察を重ねて明らかにしている。金井の学説は商品貨幣論より説得力で優っているが、金井はMMT論者ではなく、むしろMMTの理論面での矛盾を指摘しているのは興味深い。重要な指摘と思われるので、次稿でさらに考えたい。
・「信用貨幣論・内生説」
信用貨幣論においては、預金貨幣は銀行の貸し出しによって供給され、それを「貨幣創造」と呼んでいる。銀行貸し出しは預金を元手に行われるのではなく「貸し出しを行うことで預金が創造される」ということであり、銀行の実務面からは正しい。銀行にとって必要なのは、与信リスクが取れることを前提とすれば、借り手の資金需要である。経済の内部から資金への需要があって初めて貨幣が創造されるので「内生的貨幣供給論(以下「内生説」)」と呼んでいる。
島原は、MMTの内生説を――経済システム内部の借入需要に応じてまず貸し出しと預金が増加→それに伴って預金引き出しに備えた新たな通貨需要が民間銀行に発生→中央銀行が需要に応じて通貨を供給することで銀行システム内の通貨も増加というのが現実のプロセス――だとしている。
これに対して、主流派は商品貨幣論であるので、銀行貸し出しは外部から預かった貨幣を元手に又貸しを行うと考える。これを「外生的貨幣供給論(以下「外生説」)」と呼ぶ。この考え方に立てば、外部から銀行システムに貨幣が供給されれば、それに対応して貸し出しが増えていくという「貨幣数量説」が導かれる。リフレ理論は、「予想」に働きかける金融政策を謳(うた)ってはいるが、日銀がマネタリーベース(流通現金+日銀当座預金)を増やせばマネーストック(経済全体の通貨の総量)が自動的に増えるとしており、貨幣数量説の一種と言えるだろう。
・国債購入に預金は不要
次に民間銀行の国債購入についてはどうだろう。民間銀行が新発国債を購入する場合――民間銀行の日銀当座預金から政府の日銀当座預金に代金を振り替え――によって決済される。民間銀行の日銀当座預金に国債代金分の残高が必要だが、日銀は通常の需給調整で民間銀行が保有する国債を購入して日銀当座預金を供給(創造)しており問題はないとする。異次元緩和では、日銀が銀行から国債を購入し(準備金を上回る)潤沢な日銀当座預金を民間銀行に保有させるので、この仕組みはもっと容易に機能することは明らかである。
また、政府が新発債の発行見合いで公共事業支出をした場合、政府小切手が事業者に支払われ、それが銀行に持ち込まれて、銀行の日銀当座預金は復活し同時に民間預金が創出される。このように民間銀行の国債購入は、民間銀行が持つ預金に影響を受けないことが分かる。
島倉は――日銀による預金創造は、民間銀行を介して、間接的な財政支出の原資となっている。したがって財政支出は実質的に通貨発行によって賄われている――とする。
これらが教えるのは、主流派経済学の主張――日本は民間貯蓄が潤沢にあるから政府は巨額の借金ができるが、高齢化が進むと預金の取り崩しが起きて民間貯蓄が減少するので財政破綻する――は正しいとは言えないということである。また、中央銀行による間接的な財政ファイナンス(中央銀行の直接の国債引き受け)は以前から行われているが、それによってなぜ財政破綻しないのかの理由も説明可能である。
財政再建派を代表する経済学者である小林慶一郎(慶應大学教授)はMMT批判で知られるが、「国債を発行すればその分の民間預金が信用創造されるので、必ず国債は売れるという部分は正しい」(*注6)として、MMTの主張を認めている。そのため主流派のMMT批判は、経済財政運営において非現実的という点に焦点が当てられている。
◆主流派経済学の問題点
新古典派経済学が商品貨幣論と外生説に立つのは、根本に「セイの法則」――市場においては需要と供給は自動的に均衡する――があるからだと考えられる。前田は――(セイの法則を受け入れることで)貨幣の役割は価値の尺度と交換の媒介に限定され、価値の貯蔵手段としての役割は考察されなかった。貨幣は交換の媒介に過ぎないため実体経済に影響を及ぼさない(貨幣経済と実体経済を分けて考える)という「古典派の二分法」あるいは「貨幣の中立性」の認識が広がった。この認識は貨幣の量を増減させると、実体経済は変化せず、物価水準だけが変化する「貨幣数量説」につながる――としている。
では、新古典派はなぜセイの法則と商品貨幣論・外生説を手放さないのか。前田は次のように解説する――新古典派経済学の基本命題である効用価値説(*注7)と商品貨幣論は親和性が高いからである。効用価値説では、個人が商品やサービスから得られる満足度を基準に交換価値が決まる。貨幣は効用をもたらさないので価値を持たない。貨幣を一時的に保有することはあっても、必ず手元から離れていく――。前田はこれを「新古典派の貨幣観は、貨幣の実態からではなく、効用価値説から演繹的(えんえきてき)に導かれたのである」としている。
また島原は――マネタリーベースを増やせば通貨の供給過剰でインフレが起きるとしない限り、主流派経済学は辻褄の合った説明ができない構造になっている。それを非現実的だと言って否定すれば、今度は主流派経済学の基本的な定理が成り立たなくなってしまう――と述べている。
新古典派経済学の問題点を最初に批判したのは、英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(1883〜1946年)である。ケインズ経済学の流れをくむMMTはケインズに立ち返って、貨幣論を再構築して現在の新古典派経済学を批判しているのである。
新古典派経済学を批判するのはMMTだけではない。宇沢弘文(1928〜2014年)は、主流派の世界的な経済学者(数理経済学)であったが、そこから転じてセイの法則の上に構築された新古典派経済学を批判的に論じ「人間の経済学」を唱えた。(*注8)
また、松原隆一郎(放送大学教授)は――新古典派経済学は「市場においては需要と供給は自動的に均衡する」(セイの法則)と考えるので、市場における「問題」は、「不完全競争(市場が最適に機能しない状態)」「市場の失敗(市場を経由しては供給されない財・サービスの存在)」だとされる――と言う。この考えを推し進めれば――経済に問題がある場合、それは「非効率性(効率化が足りない)」が原因だということになる。その結果、効率化のいっそうの推進政策が採られる。「構造改革」政策や「成長政策」がそれである。経済合理性の追求が人間に幸福をもたらすという前提であるが、行き過ぎると社会慣行のような非合理性を、全て経済合理性で押しつぶすことになってしまう恐れがある――と批判的に論じている(*注9)。
このように、現在の主流派経済学はその根底に問題を抱えており、限界があるということを認識しておくことは大切だと思う。たとえ海外のノーベル賞学者が、ある学説を唱えたとしても、それを日本にそのまま当てはめるのは危険なのである。
ただし、主流派経済学に問題があるとしても、MMTを導入すれば良いということにはならない。MMTにも問題があるのである。
◆まとめ
MMTは、貨幣は債権債務関係の中から生まれた負債の一種だとする。したがって、預金貨幣(負債)は経済活動の内部から需要されることで初めて銀行システムによって生み出される。これを信用貨幣論・内生説とする。ここから導き出されるのは――①民間銀行は貸し出しによって預金貨幣を創造する→②中央銀行は民間銀行から国債を購入して当座預金(負債)を創造する――である。
これを前提とすれば――①民間銀行の国債購入には民間預金は不要→②中央銀行の資金供給(創造)によって民間銀行は国債を購入し続けることができる――ということになる。そうすると、主流派経済学が主張する「民間預金が減少すると銀行が国債を買えなくなって財政破綻する」「財政ファイナンスを行うと金利が暴騰する」は正しい理解とはいえないことになる。こうした主流派経済学の問題は、貨幣観――商品貨幣論・外生説――に起因するものであり、その根底には「市場においては需要と供給は自動的に均衡する」と言う「原理(セイの法則)」がある。
以上がMMTが展開する論理の核心だと考える。MMTは、信用貨幣論・内生説によって日本の現状を論理的整合性を持って説明可能なことを示し、主流派経済学の常識への疑念を生み出した。一方、主流派経済学からはMMTが持つ問題点――現実の経済や社会ではさまざまな制約や限界が存在するが、それを十分考察しておらず実効性に乏しい――が指摘されている。これについては次稿で検討したい。
<参考書籍>
『MMTとは何か』(島倉原、角川新書、2019年12月初版)
『MMTから読み解くお金(マネー)の本質』島倉原による講座(早稲田オープンカレッジ:2021年10月23日から12月4日まで5回の講義)
『富国と強兵―地政経済学序説』(中野剛志、東洋経済、2016年12月初版)
『経済学の壁―教科書の前提を問う』(前田裕之、白水社、2022年8月初版)
(*注1)拙稿第46回〜第51回『現代貨幣理論(MMT)を考える』
(*注2)島倉は、上記の著書では「信用貨幣論」としているが、講座では原語の「credit」を「債権」と訳すべきだとして「債権貨幣論」に変えている。しかし本稿では、一般的に通用している「信用貨幣論」とした
(*注3)「貨幣は負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である」(イングランド銀行季刊誌2014年春号):中野剛志『富国と強兵―地政経済学序説』より
(*注4)鎮目雅人『貨幣に関する歴史実証の視点―貨幣資料館リニューアルによせて』(日本銀行金融研究所貨幣博物館『常設展示リニューアルの記録』、2017年)
(*注5)金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか―信用システムの貨幣史』(名古屋大学出版会、2023年6月)
(*注6)小林慶一郎『財政と金融の連携』(日本経済新聞「経済教室」2023年2月15日付)
(*注7)「効用価値説」:財やサービスの市場価値は、それを消費する人々の主観的評価、すなわち効用によって決まるとする学説(出処:コトバンク>日本国語大辞典)
(*注8)拙稿第19回及び第20回『資本主義の矛盾――宇沢弘文の思想』
(*注9)拙稿第6回「松原隆一郎『共有資本と社会的規制』」及び拙稿第21回及び第22回『松原隆一郎「共有資本」と「不確実性―社会的規制」』
[…] https://www.newsyataimura.com/furukawa-47/#more-14153 […]