引地達也(ひきち・たつや)
特別支援が必要な方の学びの場、みんなの大学校学長、博士(新聞学)。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般財団法人発達支援研究所客員研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。
◆みられないソーシャルワークの介在
長野県中野市で警察官を含む男女4人が殺害される事件はあまりにも痛ましく、言葉が見つからない。メディアから伝えられる容疑者の人間像は雑駁(ざっぱく)であるものの、社会との接触では「苦手さ」を感じていたことがうかがえる。その状況を「解消しよう」とする家族の気遣いも見られるものの、そこにソーシャルワークの介在はみられない。
存在していたであろう「歪(ゆが)み」のような状態をケアすることへは、一般的な反応として抵抗があったのだろう。この抵抗感は地方にはよくあることで、だから、都会に比べ地域住民の結びつきが強い地域では、関係のこじれを修復し、対人の苦手を克服するのは難しい。
私が関わった事例の中にも、外部とうまくやれず、周囲は自分を責めている意識になってしまう状況は少なくない。それらの風景は、適切な対応をしなければ大きな不満や不安のエネルギーの塊になってしまうという想像は現実の未来と受け止め、危機感をもって対応してきた。だから、今回の事件を社会で共有し、二度と起こさない責任も考えていかなければならない。
◆必要だった「休息」
地元の信濃毎日新聞が両親にインタビューし、容疑者の周辺の状況は断片的に伝わってきたが、そこには容疑者が生まれ育つ中で、親の愛情と心配が当然としてありながら、普通とは違う状況に戸惑う様子も見て取れる。
容疑者が通院を拒んだことで、今に至る道筋がつながったような気がしてならない。統合失調症やうつ病などの精神疾患により社会に出て仕事をするのは難しい場合、その人たちにとって必要なのは「休息」である。疾患には休息、は当然であるがそこへの理解が浸透していない社会の問題がまずある。さらに休息しても就労が難しければ、それは療養が必要な疾患であるから、自分の体調に合わせての過ごし方を考え、体調の許す範囲で活動をすればよいのである。
それが一般的なケア視点での対応で、急がずに待ち、対話を繰り返すことで社会とのつなぎ役になるのがソーシャルワーカーの役割である。ソーシャルワーカーに頼れない場合は、自然にその役割を担える人に相談すればよいのだが、その状況でもなかったというから、家族だけで対応してしまったということなのだろう。
◆「家族が」の固定観念
家族が対応する—。
これを当たり前と感じ、家族だけで克服したら美談になる考えこそが、私たちの社会で根付いてしまっている固定観念、場合によっては社会の圧力になる。
それは働かない、働けない人間が恥じ入らなければならない社会。この社会が今回の容疑者を作り出した可能性がある。容疑者の名前を農園の名前にし、家業でスタートしたジェラート店を手伝うことは、家族の努力の結晶だったのだろう。それは悪いことではないが、容疑者のケースには合わなかった。
そして事件は起こった。今後、捜査は進行し、精神鑑定も行われ、鑑定留置は数か月かかるかもしれない。病名がついていない「普通の」容疑者は、おそらく自分とは関係性の薄い4人もの人間をなぜいとも簡単にためらうことなく殺すことができたのだろうか。殺された方々は自分の近所のおばさんである、親せきのおばさんである、近くの優しい警察官である、父である警察官である。こんな想像をしながら、事件の無念さを胸に刻みながら、客観的に事件を見ていきたい。
◆平和な散歩のために
悪口を言われたと傷つく、そして殺人に至るメンタリティーと行動には、医学的と生理学的な説明も必要になるだろう。それが安心につながるのであれば、その情報は有益だ。
しかし、事件のむごさだけを焦点化し怖がってしまうと、排除の論理が打ち勝ってしまい、似たようなケースを忌避する冷たい社会になってしまう。精神鑑定が絡む殺人事件は責任能力の有無が焦点化され、加害者を封じ込めることに重きを置きながら、活発の議論がないまま、新たなスティグマという烙印(らくいん)が強調されるだけである。
社会がどのように不幸を作らない仕組みづくりに動くのかの議論を進めたい。医師にたどりつかない人へのソーシャルワークをどのように機能させるのか、コミュニケーションが「難しい」と感じている人への姿勢として周囲や地域はどのような関わり方が最適なのか、私たちの社会にはまだまだやることがある。安心して誰もがのどかな路(みち)を、声を出しながら散歩ができるようにするためにも。
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