引地達也(ひきち・たつや)
特別支援が必要な方の学びの場、みんなの大学校学長、博士(新聞学)。フェリス女学院大学准教授、一般財団法人発達支援研究所客員研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。
◆同じ円卓を囲んで
「平和学の父」と呼ばれたノルウェーの平和学者、ヨハン・ガルトゥング氏が今年2月、93歳で亡くなった。「積極平和」活動を提唱し、度々来日、世界的権威でありながらも、草の根の市民運動に姿を現し、平和のための行動を説いていた。
20年以上も前の話だが、私も東京で行われたガルトゥング氏のセミナーに参加し、その後の懇親会で同じ円卓を囲んだこともあった。その際はセミナー後の砕けた雰囲気の中でとりとめのない話に終始し、内容は忘れてしまったが、平和学の大家と空間と時間を共にした感動は鮮明で、私にある行動を促すことになった。
振り返れば、その感動とは平和という抽象概念に具体的なアプローチを示す実践を導き、学問の道筋を作ったことへの敬意だった。
当時、日本には「身近な」戦争がなく、平和学の喫緊性は社会に伝わらなかった。メディアの発展で世界がつながる現在においては、世界での戦争は「身近に」なったかもしれない。
しかし、国際関係学などの学問分野は発展したものの、いまだに日本の大学で「平和学」が身近な存在とは言い難い。
◆「そんな真面目なこと」
1930年、ノルウェーに生まれたガルトゥング氏は59年に平和研究の専門機関としてオスロ国際平和研究所(PRIO)を設立した。平和を戦争のない状態ととらえる「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別などの「構造的暴力」がない「積極的平和」の概念を提起し、「平和理解の画期的転換」を導いたとされる。
世界各地の紛争の仲介者としても活動するなど、戦後の国際平和秩序の進展では、大きな役割を担ってきたから、記者として国際紛争に敏感に反応していた私はPRIOの声明や見解を熱心にチェックし、いつしか「平和学」を身につけたいと思うようになった。
そんな中、2011年の米中枢同時多発テロから始まる米国のアフガニスタン侵攻とイラク戦争を受け、記者も平和構築のノウハウを身につけるべきだと考えた私は、ある日、当時の職場の上司に英国にある平和学で有名な大学に留学したいと申し出たことがあった。
それに対し、放った上司の一言は「お前、そんな真面目なこと考えているのか」だった。
◆一蹴され、朝鮮半島へ
多忙な職場で突拍子もない申し出に困ったのだろうと、今振り返れば、上司に同情してみたくなる。そして、「真面目なこと」というのも、分からないでもない。
海外の現場では、限りある人員の中で最前線のニュースをいち早く伝えるのを使命として、日夜奮闘している先輩・同僚がいるのだ。平和を担う私たちではあるが、それは目の前の情報を伝える、ということで遂行されており、「平和学」という「理念でしかない」と理解されがちな方々にとって、この時期、理念を学ぶことは悠長にも聞こえただろう。
鮮やかにこの提案は一蹴されたが、「留学したい」だけが上司の中に生き残り、結局韓国に留学することになった。朝鮮半島という休戦状態の地域で取材をするための準備と考えれば、「平和学」から外れているわけでもない、などと解釈した。
ガルトゥング氏とのふれあいは私を朝鮮半島に導いたともいえる。
◆もうひとつの世界はある
そして、死に際し再考すると、「積極的な平和」とは、社会課題を解決する勇気を与えてくれる概念であることに気づかされる。今、私が展開する障がい者の学びへのアプローチに続く道がここから描かれていたともいえる。
1987年にガルトゥング氏は「もうひとつのノーベル賞」とも言われる「ライト・ライフリフッド賞」を受賞している。もうひとつの世界は常にある。
今、私はどこかで諦めていない平和学への思いがある。どんな形であれ、平和を考え行動することは生きる意味を豊かに与えてくれる。
先日、重症心身障がい者の学生に「平和のためにできること」を聞き、パソコンを動かして書いてくれた答えが「お墓参り」だった。同じく重症心身障がい者として生きて11歳で亡くなった弟のお墓に行くことが、「平和」だという感覚に驚き、そして感動した。
平和のために何を考え、行動するのか、大学教育の中でも、考えていきたい。
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