引地達也(ひきち・たつや)
特別支援が必要な方の学びの場、みんなの大学校学長、博士(新聞学)。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般財団法人発達支援研究所客員研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。
◆言葉を出す責任感
拙著『ケアメディア論―孤立化した時代を「つなぐ」志向』(ラグーナ出版)が12月に刊行した。誰もがメディア機器を手にして送受信し、複数の人へ発信できる時代に、「ケア」を再定義して、よりよい人とのかかわり合いに向けてメディア行為を行うことを「ケアメディア」として示したもので、この言葉が本のタイトルになってみると、あらためて「言葉を出す」責任を感じている。
副題にある「孤立化した時代」とは、コミュニティーの重要性が広く認識される中で、友達がいてもどこか寂しい、仲間と会っていても満たされない若者や、独居老人の増加と孤独死に至る超高齢化社会のもうひとつの実態と考えている。
もちろん、人間社会は陰影があって当然だが、不幸は最小限にするべきで、それら「孤立化」の不幸を「ケアメディア」という言葉で少しでも解消できないかと考え、そのための「つなぐ」志向のありかを探しているのが本書だ。それは、小さな一歩だと自覚したうえで、ケアメディアの基本的な考えを書かせてもらった。
◆実践の必要性
先日、埼玉県和光市で行われた人権講座「精神障がいとの接し方―隣人として、支援者として」では、講師として精神障がい者のアウトラインや「障がい」の考え方、スティグマの背景を話した上で、「ケアの問い直し」をテーマに、今自分が考えている「ケア」の認識を再考するきっかけを提供させてもらった。
前提にはメディア行為の重要性があり、その流れで「ケアメディア」の考え方を示すことになったが、講演後、受講していた初老の男性がいち早く私に近づいてきた。「私は講演者には厳しい評価をする」と自己紹介したうえで、「あなたの講義は実践が伴っていたからよかった」と言っていただいた。やはり、ケアの話をする場合には、実践を伴わなければ、話の信ぴょう性は確保できないのだと実感し、その伝道の難しさも浮かび上がった気がした。
高齢者の介護や身近になった精神疾患の社会において、ケアは身近で、その「問い直し」は論だけでは通用しないのである。
となれば、「ケアメディア」は誰も語れないかと指摘されそうだが、ケアもメディアも近くなった現代こそ、誰もがケアメディアを志向できることを本書は示している。本書の中で、ケアメディアのアウトラインを以下のように提示した。
ケアメディアは「人を善とみなし、人の成長を信じることを起点として、そのかかわり合いを尊重する」「当事者に近づこうとする強い意識のもとで行われる」「既存のメディアやソーシャルメディアなど領域を問わず活用できる考え方である」「人を大切にする姿勢を貫くため、その行動は高い倫理観と強い正義感に支えられるが、それらは義務感によるものであるとの自然な認識を目指す」「かかわり合いを考え、つながりを重視する」「つながることで自由になることを信じる」「あくまで自然のつながりが大切だという認識をもとに促される行動を奨励し、その使用者を制限することはない」「媒体、思想、在り方、行動の仕方などを指し、具体的な意味はかかわり合う人が決める」。
◆コミュニケーション行為を身近に
最後に結んだのは「ケアメディアによるコミュニケーション行為は、常に水平な関係を保つことで公平性が担保されることで透明性にもつながり、万人の信頼を得ることを目指す」との目標である。
講義や講演で「ケアメディア」を話したところで、そこまでは机上の論に過ぎず、「何をやればいいのか」とケアメディアに納得して行動したい人であればあるほど、具体的な行動に関する情報が求められる。その時に用意しているのがコミュニケーション行為として大事にする「言葉」「態度」「ココロ」に関する心がけ。
「ココロ」では「水平型の関係」「多少を気にしない」「時間を気にしない」という三つのポイントを示している。この三つを念頭に置いたココロから発せられる言葉と態度は自然と、融和的な雰囲気に変容していく。誰もがメディアになる時代に大事な心がけ、だと考えている。
拙著にはここまで記していないものの、これも実践することで言葉を磨いて次の著書に示せるようになればと考えている。
■学びで君が花開く! 支援が必要な方の学びの場、みんなの大学校
http://www.minnano-college-of-liberalarts.net
■精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
■引地達也のブログ
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