п»ї 「なぜ森有礼か」から精神保健とメディアの接点を探る 『ジャーナリスティックなやさしい未来』第239回 | ニュース屋台村

「なぜ森有礼か」から精神保健とメディアの接点を探る
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第239回

7月 18日 2022年 社会

LINEで送る
Pocket

引地達也(ひきち・たつや)

%e3%80%8e%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%83%8a%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%83%e3%82%af%e3%81%aa%e3%82%84%e3%81%95%e3%81%97%e3%81%84%e6%9c%aa%e6%9d%a5%e3%80%8f%e5%bc%95%e5%9c%b0%e9%81%94特別支援が必要な方の学びの場、みんなの大学校学長、博士(新聞学)。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般財団法人発達支援研究所客員研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。

◆「眼差し」はどこから

先般、日本メディア学会の春季大会が行われ、「明治初期の学術メディアでの精神保健―『明六雑誌』における森有礼からの考察―」と題して個人発表を行った。支援が必要な方への支援は当事者の生きづらさを共有することが前提だが、その前提は社会がいかに当事者にとって居心地が悪いのかという事実である。

この事実を形成してきた歴史的経緯の中で、人々の認識やその認識の端緒となったであろうメディア発信、これらにより私たちの社会が生成されてきた倫理観や常識を考察することは、つまり今を知ることにつながる。

私たちが今、精神保健に向けている「眼差(まなざ)し」はどこから始まったのだろうか。その探求の一環として考えた本テーマは歴史研究の第一歩であり、はじまりに過ぎないから、今後、一緒に考える仲間も増やしたい、という思いでの発表であった。

◆米国の支援とメディア

発表の内容は、近代国家の成立時でのメディアと精神保健の接点をめぐる考察である。英米などで学び、後に初代文部大臣になる森有礼(もり・ありのり)が帰国後、研究者が集って議論をし、それを公共に提供するアメリカの「学術ソサエティ」にならい、日本でも啓蒙思想家等の名家が集まり、議論をする団体が必要と、当時の名家である福沢諭吉や西周(にし・あまね)、津田正道らを説得し設立した日本で初めての学術組織「明六社」と、その明六社が発刊した「明六雑誌」である。

ここを舞台に、中心的な役割を果たした森有礼の行動に注目した。それは当時、日本より進んでいた米国の精神保健に関する現実を目の当たりにし、精神保健の活動で米国の中心人物であったドロテア・ディックスから長い時間、話を聞いた唯一の日本人が森であり、日本に「それを伝えられる」唯一の人物であった。

その人物が人々を啓蒙するためのメディアを作ったことに注目したのである。

◆逸した機会

しかしながら不思議なことに、明六雑誌で米国の精神保健や森自身の見解は伝えられなかった。公に出ない場面で精神保健についての話がなされたどうかは不明であるが、少なくとも多くの人に広く知らしめるのを目的にした明六雑誌では、日本の「精神保健の遅れ」は出なかった。

私はここで、この機会を逸したことが、後の精神保健に関する感覚の「遅れ」につながったとの見解を示した。この問題提起をしたのが本発表である。

発表するには根拠が薄いが、この後日本における精神保健のイメージは万朝報が10年にもわたって報じた「相馬事件」によりスキャンダラスさをまとい、ネガティブな傾向となり、それが今も当事者を苦しめるスティグマにつながっているのだと考えた。

明治期のメディアと精神保健の最初の接点は、今の私たちにつながる、看過できないポイントと位置付けている。今回の発表は、この出発点が正しいかも含めての問いかけでもあり、研究者らからどんな反応があるかも楽しみだった。

◆ケアに広がるイメージ

発表後の質疑応答では案の定、私の推察に対する根拠が問われ、なぜ「森有礼なのか」「明六雑誌なのか」の研究発表としての前提にも疑問が呈された。一方で、要支援者への学びを通じての課題の抽出を評価してくださる声もあった。

精神保健とメディアをつなぐ点を私は「ケア」であることはこれまでも考えてきたが、研究者の中でこのような歴史研究を踏まえて「ケア」をより具体的に示していくことはやはり大きな意味があると思う。

なぜ森有礼なのか、から始めた時、見えてくるのは国家の成立やこの国のアイデンティティー、西欧との比較から考える私たちの「ケア」など、テーマは放射線状に多方に広がる。それはかつて森有礼が発していたエネルギーが現代で「メディア化」して、私たちの見識や倫理観を再構築する活動となるような気がしてならない。

私はそこに面白さを感じてしまうのである。この見解について、また協働できる方がいれば、ぜひお声をかけてほしい。

コメント

コメントを残す