元記者M(もときしゃ・エム)
元新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番過ごしやすい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は3年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも沿道の草花を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。
◆時事通信入社
1981年に大学を卒業し、時事通信に入社した。
日本の通信社は戦前、同盟通信という国策通信社1社だけだったが、戦後になって時事通信と共同通信の2社に分かれ、当初は、共同通信は新聞・テレビ向けに、時事通信は官公庁・金融機関向けにと、ニュースの配信先について一定のすみ分けがあった。しかしその後、そのすみ分けがなくなり競合するようになった。
通信社に締め切りはないが、新聞社には朝刊・夕刊の締め切り時間がある。東京都内の山手線の内側のエリアの場合、締め切り時間は朝刊は午前1時30分、夕刊は午後1時30分で、これ以降はどんな大ニュースがあっても、次の朝刊か夕刊まで入らない。例外的に号外を出すか、新聞各社で取り決めている降版協定時間を後ろにずらすしかない。
これに対して、通信社には締め切り時間がなく、速報性も重視されるので、基本的には24時間稼働している。
新聞各紙に「首相動静」という首相の一日の行動、会談した人や出席した会議などが具体的に載っているが、これは時事と共同の通信社2社の総理番の記者が取材して報道各社に配信しているものだ。ほかにも「代表取材」と言って、競争を伴わない共通の取材は混乱を避けるために時事通信と共同通信が代表して取材したり撮影したりしている。
◆東証記者クラブ
私は入社後、東京証券部に配属され、新人研修が終わると、東京・兜(かぶと)町にある東京証券取引所の記者クラブ(兜クラブ)に配属された。当時の日本は、バブル経済が弾ける前の好景気に沸いていた時期で、株式市場は連日活況を呈していた。私は取引所の午前と午後の取引時間中に、どこの会社の株がどんな理由で売り買いされているか30行程度にまとめる「場況」と呼ばれる短い原稿をせっせと書いていた。
株の世界ではことわざがしばしば語られ、例えば株の売り買いのタイミングについて、「『まだ』は『もう』なり、『もう』は『まだ』なり」という言葉がある。まだかなと思っていたら、すでにもうそのタイミングを逃していたり、逆に、もうそろそろいいかなと思っていたら、時期尚早だったりということなのだが、要は「相場師」といわれるプロの株屋にとっても、売り買いのタイミングはとても難しいということである。このことわざは、株の世界に限らず、ものごとのタイミングを計るときに今も思い起こされる言葉である。
証券取引所の周りには大小の証券会社が軒を並べていて、当時は野村、日興、大和、山一が「4大証券」と呼ばれて幅を利かせていた。たまに株価が下がると、「鰻(うなぎ)のぼり」という言葉にあやかろうと、証券会社の人たちは決まって験担ぎ(げんかつぎ)にうなぎを食べに行っていた。
私が兜クラブに配属された当時、証券会社から記者クラブに昼ご飯用にたびたび、うな重の差し入れがあった。記者クラブには用務員のようなおばさんが常駐していて、当時私は独身だったので、昼ご飯にうな重をいただいた後、「たくさんあるからおやつ代わりにどうぞ」と言われて、3時にうな重。そして夜も「残っても仕方がないから、持って帰って食べなさい」と言われて、晩ごはんもうな重……と、1日3食、うな重ということがよくあった。あの時期、一生分のうな重を食べたような気がする。
そのせいか、会社の秋の健康診断でASTやALTなどの肝機能を示す数値が異常に跳ね上がっていて、急性肝炎の疑いで虎の門病院に緊急入院する羽目になった。おなかに太い針を刺して肝臓の細胞を採取して調べたところ、うな重の食べ過ぎだったのか、「脂肪肝」と診断された。以来、うな重は付き合いで食べることは今も年に1、2度あるが、自分でお金を払って食べることはない。
◆ラオスバンドの仲間たち
私は記者になってからも神奈川県大和(やまと)と兵庫県姫路市仁豊野(にぶの)の難民定住促進センターに時々行っていた。日本政府は1979年にインドシナ難民の受け入れを始め、当時、大和と仁豊野の2か所に定住促進センターを設置。特に大和の難民定住促進センターではほぼ同年代のラオス難民出身者と仲良くなり、大学の卒業前後に彼らとバンドを組んで歌ったり合宿したりしていた。
このラオスバンドの仲間の多くは私と同い年だった。センターで生活できるのは6か月という期限があり、6か月が過ぎるとそこを出て自力で生活しなければならない。たった6か月で日本語が理解できるわけがなく、ほとんどはセンターから斡旋(あっせん)された町工場などで働きながら自力で日本語学校などに通って学んでいた。
バンド仲間も同様だった。彼らはすでにラオスの高校を卒業していたが、日本でこれから生きていくには最低でも日本の高校を卒業していないと就職が不利だということになった。それで、そのうちの、後に私の義理の弟となる1人を含めて3人が高校に行きたいということになったのだが、彼らは難民出身のため戸籍謄本はおろか受験に必要な中学の卒業証明書など、証明書の類いを一切持っていなかった。
そこで私は、東京都や埼玉県の教育委員会や東京都内の高校に「難民として入国した者を受け入れてくれるかどうか」を訪ねて回った。その結果、東京都中野区にある明治大学付属中野高校から「受験資格なら与えてもよい」という返事をもらった。ただし、「難民だからといって特別に優遇はしない。日本人と同じ扱いで受験してもいいのなら、受験を認める」ということだった。そこで私は問題集を買い込んで3人と共に受験勉強をした。3人とも昼間は働いていたので定時制を希望していた。結果、3人は見事に合格し、そのニュースは新聞にも取り上げられた。
3人が明大中野高校に在学中に同じクラスだったのが、ジャニー喜多川氏による性加害問題で解散した旧ジャニー事務所所属のタレントたちで、中でも「SMILE-UP.(スマイル・アップ)」という会社の社長になった東山紀之君は、彼が中退するまで部活も同じバスケット部だった。他にも「シブがき隊」の薬丸裕英君や元歌手の石川秀美さんらが同じクラスだった。当時、売れていた人はテレビ出演などのために欠席することが多かったが、東山君は当時ほぼ毎日学校に来ていて、3人といっしょに遊んでいた。そのうち急に売れ始めて、結果的に中退した。
◆「スター誕生」で歌手デビュー
そして、2023年10月に亡くなった歌手の谷村新司さんにまつわる話。私たちが組んでいたラオスバンドにいつも付いてきて、われわれの伴奏で歌っていたベトナム難民出身の女の子がいた。大和の難民定住促進センターの3期生で、名前はルー・フィン・チャウという。
彼女の父親はベトナム戦争で南ベトナムが崩壊する前は舞台監督、母親は女優で、チャウも来日後、歌手になりたいと思っていた。当時は中学生で、山口百恵に憧れていた。それで当時人気があった「スター誕生」というスカウト番組に出演し、スカウトされて歌手としてデビューした。そのデビュー曲のタイトルは「スター誕生」で、作詞作曲を手がけたのが谷村新司さんだった。
「スター誕生」という歌はそこそこヒットした。今もYouTubeで検索すれば聞くことができる。チャウはシングルを2枚、LPを1枚出したあと体調を崩して芸能界を引退。現在は米ロサンゼルスに住んでいると聞く。
一方、ラオスバンドのメンバー(6人)で私以外のラオス出身の5人(うち2人は日本国籍を取得)とは知り合って以来45年近くになるが、現在も頻繁に連絡を取り合ったり、たまに会ったりしている。
日本に住んでいるのは、ギター兼ボーカルの私と、ベース担当のS君。彼は渡米後、米カリフォルニア州サクラメントで日本食レストランやラーメン店を興し、地元紙に大々的に取り上げられるなど屈指の日本食レストランを切り盛りしていたが、大繁盛しているさなかにすべて売却。日本人女性と結婚し、日本にも自宅を購入して日米の間を行ったり来たりしている。
バンドマスターでキーボード担当のH君は、米国に移住しカリフォルニア州ホリスターで日本食レストランを経営。ドラムスのB君は日本で大学を卒業後、日本の家電メーカーに就職してタイ工場の工場長として赴任。早期退職後はバンコク郊外で農園を経営する一方、バンコクで企業誘致のコンサルタント会社を運営している。ギター担当の私の義弟Bはラオスに戻り、日本企業のラオス工場の工場長をしている。リードボーカルのC君はシンガポールに渡り、観光業を営んでいる。
正直なところ、彼らが難民定住促進センターを出たあとも日本にそのまま残っていたら、現在のような成功を手にすることは到底できなかったのではないかと思う。
◆偏見と反対の中での結婚
1983年3月、私は東京から長崎支局に転勤した。世界初の米原子力空母エンタープライズが長崎県・佐世保港に15年ぶりに再入港するというので、その取材班の一員として東京から支局を経ずに、いきなり佐世保の取材前線本部に投入された。
エンプラがベトナム戦争のさなかの1968年に佐世保に初寄港した際、反対派の暴動やデモ隊と機動隊の衝突で多数の負傷者が出る、いわゆる「エンプラ事件」に発展した。私が着いた佐世保は15年ぶりのエンプラ再入港に当たり、警察当局が反対派の動きを封じ込めるため機動隊による厳戒態勢を敷いていて、異様な雰囲気が漂っていた。
幸い大きな混乱はなく取材を終え、取材前線本部が解散した。ようやく長崎に赴き、当時の支局長が不動産屋を回って探してくれた、県警本部からほど近い支局から原付バイクで10分ほどの理髪店の2階の一室で東京からの引っ越し荷物の段ボール箱を開け、支局生活がスタートした。
長崎支局に勤務していた1985年に結婚し、当時東京に住んでいた妻を呼び寄せた。妻は中国系ラオス人で、日本政府が受け入れを始めたインドシナ難民の定住第2期生として1980年に来日、神奈川県大和の難民定住促進センターに収容された。
前述の通り、私は大和の難民定住センターでほぼ同年代の難民出身者と仲良くなり、大学の卒業前後に彼らとバンドを組んで歌ったり、合宿したりしていたが、そのバンド仲間の中の一人に姉がいて、その女性が現在の妻である。
妻は東京・品川区にある杉野ドレスメーカー女学院を1985年に卒業した。卒業生の中には、島田順子や森英恵ら有名なファッションデザイナーがいる。妻の卒業当時、私は長崎支局に勤務していたので、妻は就職せず長崎に呼び寄せた。ただし、当初は偏見と反対の中での結婚だった。
私が生まれ育ったのは前述の通り、超過疎の限界集落である。外国といってもアメリカや中国ならいざ知らず、ラオスというインドシナの小さな国を知る人は両親を含めてだれもいなかった。ましてや、その国の女性と結婚するなど当時、差別や偏見が根強い独特の風土もあって、両親とくに父は強く反対した。
結婚する年の正月に、父は毛筆で「君たちの結婚に反対する理由」と書いた、まるで五箇条の御誓文のような手紙を送りつけてきた。それには「一(ひとつ)、岡本の血に日本人以外の血が混ざる。一、君たちの間に生まれた子どもが不幸になる。一、われわれの老後はだれが面倒を見てくれるのか」……などと書かれていた。
この時ばかりは、自分の父であることを恥ずかしく思った。父には、会社勤めの傍ら、母と共にコメづくりや葉たばこの耕作などで私の学費や生活費を仕送りし続け、ずいぶん苦労をかけてきたので、たいがいのことは聞き入れていたが、このぶんだともう親子の縁を切るしかないと覚悟していた。私と父の板挟みになった母にもずいぶん苦労をかけた。
ただ、妻の家族のほうでも、「どこの馬の骨ともわからない日本の男にだまされたんじゃないか」と心配していて、「本気かどうか親に会いたい」と言って、日本留学後も東京で働いていた妻の叔父が一族を代表して私の実家までやってきました。結局、結婚前に何度か妻を実家に連れ帰るうちに、父が私に「日本人以上に日本人らしいガイジンもおるんやなあ」という妙な言い回しで、受け入れてくれるようになった。おそらく、見た目が日本人と変わらず、親や年寄りを敬い、大切にする華僑の流儀が、外国に行ったこともない父の心の琴線に触れたのだと思う。
私は「日本人の国際性を啓蒙するようなジャーナリストになる」と大風呂敷を広げてきた。残念ながらそれはかなわなかったが、少なくとも私の国際結婚は家族や親せき、私の周りの人たちが外国というものに等身大でじかに接する機会になったのではないかと思う。
◆妻の日本国籍取得
長崎支局には4年間勤務した。後半の2年間は妻も一緒で、長崎は良い思い出ばかりである。ただ、長崎は、鎖国が長く続いた江戸時代に唯一海外に門戸を開いていた国際的な土地柄だと思っていたのだが、意外に閉鎖的だということを、身をもって感じた。
結婚届は5月に長崎市役所に提出したが、その場では受理されず留保された。長崎には中華街があり、華僑は大勢住んでいるがラオス人は1人もおらず、私たちは日本人とラオス人が結婚する初めてのケースだった。
当初は、妻に重婚(二重結婚)の疑いがかけられ、長崎市役所は東京にある在日ラオス大使館に妻の身元照会をするなどした。しかし、妻は難民としてラオスを出てきたわけだから、大使館に問い合わせたところで「ゼロ回答」になるのは決まっている。市役所がそうした事情を知っていたのかどうか知らないが、5月に出した結婚届が受理されたのは半年後の12月で、5月に遡って受理された。
もう一つ苦労したのは、日本国籍の取得申請手続きである。妻は難民として来日したので、法的には「無国籍」扱いだった。日本での公的証明書は外国人登録証と、外国に出た時にまた日本に入国できる再入国許可証の2通だけだった。
日本国籍を取得するために、長崎法務局に財産目録や家財道具の目録など膨大な量の書類をそろえて申請した際、「これから奥さんの『全人物的調査』を始めますが、審査内容は途中経過も含めて一切明らかにできません」と言われた。審査の期間はおおむね2年とされ、審査結果は「許可」か「不許可」の二つだけで、「不許可」になった場合でもその理由は開示されない。
法務局から「許可」の回答が届く3か月ほど前から、妻がふだん行っているクリーニング屋さんから「どんなものをどれくらいの頻度でクリーニングに出しているか教えてほしい」とか、惣菜屋さんから「夕飯のおかずにどんなものを買っているか教えてほしい」と男の人が尋ねにきたんだけど、「なにかあったん?」という問い合わせが頻繁にあった。
私は当時、長崎県警も取材の守備範囲だったので、そのうち知り合いの公安担当の警察官がわが家にやってきて、「国籍取得手続きの詰めの確認をしている」と言われた。その時は押し入れやタンスの中、食器棚など家の中をくまなくチェックして帰っていった。2人暮らしのふつうの日常生活を送っているか、茶碗やお箸(はし)はきちんと二組あるか、2人分の男女の衣類がそろっているか――など、とにかく細かく調べられた。彼は「仕事だから申し訳ない」と言って引き揚げていった。
妻の場合、申請から1年半後の1987年に日本国籍を取得した。長崎法務局で行われた日本国籍取得の通知式は実に仰々しいものだった。法務局長が「きょうからあなたは日本人です」と言って、その通知書を本人に手渡し、審査した係官らが整列してそれを見守った。妻はその通知書を持って長崎出入国管理事務所に行き、それまでいつも携帯を義務付けられていた外国人登録証を返納し、日本人になった。
◆高値で取引される日本旅券
日本国籍を取るのは本当に手間がかかり、大変だった。生まれながらにして日本人のわれわれは、国籍になんの有難みも感じないと思うが、妻の国籍取得手続きに関わってみて、私は日本国籍の重さというか、有難みが身にしみてわかった。
2023年8月の調査によると、査証(ビザ)なしで渡航できる国・地域の数を比べたランキングで、これまで1位だった日本のパスポートは「最強旅券」の座から陥落したものの3位にとどまっている。
日本のパスポートでビザなし渡航が可能な国・地域先は現在189で、韓国やフランスなど他の6か国と同列で3位。1位はシンガポールで192か国・地域。ドイツ、イタリア、スペインが190か国・地域。最下位は27か国・地域のアフガニスタンとなっている。
私が駐在していたタイのバンコクには多くの外国人観光客が訪れるが、旅券の窃盗や変造・偽造がビジネスとして成立している。とくに日本の旅券は狙われやすく、変造や偽造されたものは他の国の旅券に比べて高値で取引されているというのをタイの日本大使館関係者から聞いたことがある。日本人は、国籍はもちろんだが、旅券も大切にしてほしいと思う。(以下、次回に続く)
※『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』過去の関連記事は以下の通り
第10回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(1)」(2024年2月 21日付)
https://www.newsyataimura.com/kisham-12/#more-14559
第11回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(2)」(2024年2月 28日付)
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