記者M(きしゃ・エム)
新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。新型コロナ禍に伴う在宅勤務が2年以上続く現在の日課は、15キロ前後のウォーキング。いまのところ、歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。歩きながら四季の移ろいを体感しつつ、沿道の草木を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。
今年は、ロシアのウクライナ侵攻(2月)、ペロシ米下院議長の台湾訪問(8月)、中国共産党大会(10月)などを背景に、「台湾有事」という言葉がメディアでかつてないほど頻繁に飛び交った。ただ正直なところ、わが身への影響を考えると、しょせんは「他人事(ひとごと)」だと思っていた。だが最近、台湾有事がまるでバタフライ効果が逆流したように、私自身の日常に意外な形で影響する出来事があった。
「12月に台湾に帰ることになりました。予備役として軍事訓練を受けなければならないんです」
11月半ば、2か月に一度診てもらっているS病院の糖尿病内科部長C先生の診察室に入ると、いきなりこう切り出された。生まれも育ちも台湾のC先生は日本語がきわめて流ちょうである。
私はここ15年ほど血糖値が高めに推移し、2年前までずっとかかりつけの開業医S先生に診てもらっていたが、コロナ禍に伴う在宅勤務で食生活に油断が出たためか血糖値がさらに高くなってしまった。毎日服用している治療薬の処方箋(せん)だけもらおうとS先生のクリニックを訪れたところ、たまたま診察当番だった若いアルバイト医師から一方的に、「このままだと大変なことになりますよ。糖尿病内科のある大きな病院できちんと診てもらったほうがいい」と脅され(当時の私は脅迫されたような印象を持った)、紹介状のあて先として書いてくれたのが、C先生だった。
◆予備役としてジャングルで軍事訓練へ
C先生は2006年に台湾国立陽明大学(現在の台湾国立陽明交通大学)医学部を卒業後、26歳の時に来日。高齢化社会の中で台湾でも患者が多い糖尿病を専門に選び、東京大学大学院医学系研究科を16年に修了。東大病院で基礎研究をした後、実際に臨床の経験を積もうと、S病院に来たという。
私は07年にタイから帰国したが、当時自宅近くで開業していたS先生はわが家のいわばホームドクターのような存在で、妻も子どもたちもずっと診てもらってきた。しかし、この15年の間に子どもたちは独立し、それぞれの住まいの最寄りのクリニックにかかるようになった。私も、S先生からC先生に代わったが、初診の際、C先生に「これまで世話になってきたS先生は治療方法を決して押しつけたりせず、患者の話をよく聞いて患者自身のやる気を引き出すよう、病状が少しでも改善すると『すばらしい』と言って、よく褒めてくれた」などと説明した。C先生にとっては迷惑な話だったかもしれないが終始にこやかに聞いてくれ、次の診察から予約を一番遅い時間に入れるようにしてくれた。予約が自分の診察日の最後の患者なら、診察時間が少し長めに取れるだろうとの配慮だったと思う。
そして、C先生の診断と励ましのおかげで、血糖値はほぼ正常な範囲に収まるまでに改善し、C先生からも「すばらしい」と言われるまでになった。「医師と、その医師が担当する多くの患者の中の一人」という関係に過ぎないかもしれないが、信頼を寄せる医師とのつながりがいきなり、切れることになってしまった。
C先生は今月中にS病院を退職。台湾に帰境し、予備役として4か月間、ジャングルで軍事訓練を受ける。拒否すれば、生まれ育った台湾への出入りができなくなる恐れがあり、予備役から逃れる手だてはないという。
私はC先生にお礼を述べ、「くれぐれもご無事で」と言って診察室を出たが、帰り道はずっと暗澹(あんたん)たる気持ちだった。信頼のおける医師にせっかくまためぐり会えたのに、という残念な思いはもちろんだが、「われ関せず」と思っていた台湾有事が、まさかこんな形で私自身の日常に関わってくるとは考えもしていなかったのである。
◆「志願制・徴兵制の併用」下にある台湾
台湾では、中国共産党と軍事的に対峙(たいじ)していた1951年に徴兵制を開始。対象は18歳以上の男性で、当初の兵役義務は陸軍2年、海軍および空軍は3年だった。その後、中台間の軍事的緊張の緩和などから、兵役義務は1年に短縮された。2012年に徴兵制を廃止して志願制にする方針を決定し、15年に徴兵制を廃止する計画だったが少子化などを背景に必要な兵員数が確保できず延期。18年にようやく志願制に移行した。ただし、現在も4か月間の軍事訓練の義務は維持されており、台湾国防部(国防省)は台湾軍の兵役制度について「志願制・徴兵制の併用」と説明している。4か月間の軍事訓練を終えて除隊した後も予備役として訓練を受けなければならず、「除隊後8年以内」とされていた予備役訓練の対象も、今年から「除隊後15年以内」に拡大された。
日本の防衛白書(令和4〈2022〉年版)によると、台湾軍の戦力は現在、海軍陸戦隊を含めた陸上戦力が約10万4000人。有事の際には陸・海・空軍合わせて約166万人の予備役兵力が投入可能とみられており、今年1月には、予備役や官民の戦時動員にかかわる組織を統合した「全民防衛動員署」が設立され、有事の際の動員体制の効率化が進められている。
先述のC先生の場合、台湾で大学卒業後に1年の兵役義務を終えてから来日した。ただ、除隊後も引き続き予備役訓練の対象者であり、来日後も台湾籍を残しているため、台湾の実家に全民防衛動員署から予備役訓練の召集令状が届いたという。「兵役はすでに経験しているから武器を持って訓練することにはあまり不安はないけど、ジャングルでの野営で毒ヘビにかまれたりしないように注意しないとね」と、真顔で話した。
予備役訓練は台湾籍のC先生にとって義務だが、S病院では4か月の休職は認められず退職せざるを得なかった。すでに後任の糖尿病内科部長は内定している。予備役訓練が無事に終われば再び医療現場に復帰するつもりだが、台湾にとどまるか、再来日してどこかの病院に再就職するかなど先のことはわからないという。「お互い元気なら、またどこかで会えますよ。だから、どうか元気で」。別れ際、C先生の明るい声に少し救われた思いがしたが、「くれぐれもご無事で」としか言えなかった自分自身の気持ちのやり場がなく、ただただ、プーチンに、ペロシに、そして習近平に、無性に腹が立った。
◆寝た子を起こすようなリスクは冒すな
日本の非営利団体「言論NPO」と中国国際出版集団はこのほど、日中両国で行った共同世論調査の結果を発表した。それによると、台湾海峡での軍事紛争について中国人の回答は「将来的には起こる」(40.5%)と「数年以内に起こる」(16.2%)の合計が56.7%に上った。一方、日本人は「将来的には」(34.1%)と「数年以内に」(10.4%)の合計が44.5%で、中国人に比べて12.2ポイント低かった。
台湾海峡で緊張が高まっている原因に関しては、認識の差が出た。中国人の52.5%が「米国」と答えたのに対し、日本人は63.7%が「中国」を挙げた。ここで注目すべきは、「台湾」と回答したのは中国人が11.7%、日本人が2.5%と、台湾有事が起こりうる主因として日中両国とも、当事者である台湾とは考えていない点である。
中国の習近平総書記(国家主席)は10月に行われた第20回中国共産党大会の政治報告の中で、台湾問題について平和統一の実現に向け「最大の努力を尽くす」としつつ、外部からの干渉や台湾独立勢力に対しては「決して武力行使の放棄を約束しない」と述べた。一方、中国国営新華社電によると、習主席は11月にインドネシアのバリ島でバイデン米大統領と会談した際、「台湾問題は中国の核心的利益の核心、中米関係の政治的基礎の基礎であり、両国関係にとって越えてはならない最初のレッドラインである」と米側をけん制した。
「核心的利益」という言葉は、中国政府が2011年9月に発表した「中国の平和的発展」と題する白書の中で、①国家主権②国家の安全③領土保全④国家の統一⑤国家の政治制度と社会の大局の安定⑥)経済・社会の持続的発展への基本的な保障--に関わるものと定義。特に習政権になってから、台湾問題が取り上げられる際にたびたび引用されている。
ただし、台湾統一問題は先の共産党大会での習主席の政治報告の中では後半に述べられており、習政権の政策の優先順位として喫緊性は感じられない。
今年8月以降、一時的に顕在化した「台湾海峡危機」の元をたどると、ペロシ米下院議長の訪台が引き金だった。猛反発した中国は台湾周辺での大規模な軍事演習を実施。台湾国防部によると、中国軍は今回の演習で台湾海峡の中央に設けられた「中間線」を100回以上越えたという。「中間線」とは中国と台湾を隔てる台湾海峡の地図上にほぼ中央に引かれる暗黙の休戦ラインで、国際法上の根拠はなく、1950年代に米軍が設定したとされる。中国は中間線の存在を認めていないが従来、中間線を越える軍用機の飛行や艦艇の航行を控えてきた。寝た子を起こすようなリスクを冒せば、敢然と対抗するという習政権の強硬な姿勢を示したものだ。
◆些細な疑心暗鬼が招く軍事的エスカレート
朝日新聞(2022年10月16日付)の報道によると、米シンクタンク「戦略国際問題研究所(CSIS)」はペロシ米下院議長訪台後の8月、台湾有事のシミュレーションを実施。2026年に中国が台湾に軍事侵攻し、米軍が在日米軍基地も拠点に作戦を展開。これに中国は日本の米軍・自衛隊基地を即座に爆撃して台湾への上陸に着手し、自衛隊の潜水艦や戦闘機も応戦。中国が日本各地への攻撃に踏み切る可能性が高い、という結果が示された。
「ペロシ訪台」は、日本の防衛省・自衛隊も勢いづかせている。12月5日配信の時事電によると、防衛省は南西諸島の防衛体制を強化するため、沖縄県に駐屯する陸上自衛隊の部隊の規模を現在の約2000人から2027年度までに約3000人に増やす方向という。南西諸島は台湾有事の際の拠点で、自衛隊は16年に台湾に最も近い与那国島に陸自駐屯地を開設し、情報収集を担う沿岸監視隊を配備。19年には宮古島と鹿児島県・奄美大島に駐屯地を開いた。22年度末には石垣島にも駐屯地を新設し、ミサイル部隊などを置く計画だ。
台湾をめぐるこうした一連の動きは最終的に、台湾有事という最悪の事態を招きかねない。「バタフライ効果」ではなく、日米台と中国が、明らかに最悪の最終シナリオが最初からわかっていながら、双方の言動に疑心暗鬼に陥る中で些細(ささい)なことに過度に反応し合い、結果的に軍備や軍事演習の増強へとエスカレートさせている現在の状況につながっている。
いま私が望むのは、C先生が予備役の軍事訓練を無事に終えて再来日し、また主治医として診てもらうことだ。もちろん、「医者いらず」の健康な体にすることのほうが大事なのだが、ぜひC先生に再会して、ジャングルでの野営についてその体験をゆっくり聞いてみたい。それが実現するにはなにより、台湾有事など起こらないことが大前提である。
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