元記者M(もときしゃ・エム)
元新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番いい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は3年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも、沿道の草木を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。
「ハッピーバースデー」
バンコク近郊のスワンナプーム空港に到着後、両手の指紋のチェックなどを終えて入国審査官からパスポートを戻された妻は、こう声を掛けられた。私が16年ぶりにタイに入国したその日は、妻の誕生日だった。思いがけないお祝いの言葉にうれしそうな妻の表情を見て、これは幸先のいいスタートだと思った。退職後の念願だった「4か国回遊生活」の第一歩は、こうして始まった(前回第6回「見たい、知りたい、感じたい―『4か国回遊生活』への道」ご参照)。
◆隔世の感の物価高
タイは学生時代から何度も訪れ、特派員時代に8年間住んでいたとはいえ、それも16年前のこと。タイの友人から「当時とはずいぶん変わっているよ」と言われ、初めて行くような気持ちでかなり緊張した。バンコクに4年前から駐在する息子に渡航前から頻繁に連絡して、タクシーで空港からバンコク中心部へ行く道順から細かく聞いていった。なるほど、流しのタクシーは2階の到着ロビーを出て乗るより、4階の出発ロビーに上がって乗ったほうが楽だった。「殺人的」だと揶揄(やゆ)された中心部の渋滞は相変わらずだが、乾季のこの時期は道路が冠水するようなことはめったにない。ほぼ予定通りの時間で息子の集合住宅に着いた。
息子の妻が出迎えてくれた。2人は今年1月に結婚。彼女は3月に東京の勤務先を退職し、4月のソンクラン(タイの旧正月)休暇で一時帰国した息子と共にタイに渡り、新生活を始めたのだった。
われわれの滞在中、一部屋空けてもらった。今回の「回遊生活」では、息子夫婦の新たな生活ぶりを見るのも目的の一つだったが、タイの旧友と再会したり、妻の親せき宅に預けていた荷物の整理をしたり、墓参をしたり、と事前に組み入れた日程を消化するだけで1か月間の滞在はあっという間に過ぎていった。そして、「この次に来る時はこうしよう、あそこに行ってみよう」と、早くも次回につながる計画が次々に浮かんできた。
ただ、予想外の物価高には正直驚いた。16年前は1バーツ=1円くらいの感覚でいたが、現在は5倍くらいの印象である。渡航時の実勢は1バーツ=約4円だが、折からの円安のため1バーツ=5円くらいだと感じた。
バンコクに着いて最初の土曜の朝、かつてよく行った屋台に家族4人で肉入りクイティオ(米麺)を食べに行った。支払いの段になって妻が150バーツ(約600円)出したところ、会計の女性が黙って突っ立ったまま動かない。手書きの請求書を見ると、650バーツ(約2600円)。妻と私はびっくりすると同時に、恥ずかしくなって笑ってごまかしながら支払いを済ませた。
以来、どこに行っても必ず値段を確認するようになった。昼どきに大型ショッピングモールのフードコートで周りの人たちが食べているものを見ると、1人当たりおおよそ150~250バーツ(約600~1000円)かけている。日本より高い。特に日本食は高い。所得がそれだけ上がっているからなのだろうが、「タイは物価が安い」と染みついていた考えを早々に改めた。それでも、「少し多めに」と思って用意していた現金は1か月が経たないうちにすっかり底を突き、帰る頃には息子夫婦に借金するはめになってしまった。
◆政治の停滞変わらず
私がタイに滞在していた時期は、タイの総選挙後の新たな政権の枠組みづくりが混迷へと進んでいるタイミングだった。5月14日に行われた総選挙で大方の予想を覆して第一党に躍進した「前進党」のピター党首が、上下両院の保守派によって首相選出を阻まれた。同党は、王室への中傷を禁じる不敬罪の改正や、軍の影響力の排除などを訴えて若者層を中心に支持を集めたが、議会保守派が強く反発し、同氏を首相就任の道から排除した。同氏をめぐっては、タイの憲法裁判所が、メディア企業の株式を保有して総選挙に立候補したのは憲法に違反するとした選挙管理委員会の申し立てを受理し、議員資格も一時的に停止された。
こうした「議会・司法のクーデター」ともいわれる展開は、タイの政治動向を取材したことがある者なら「おかしい」と感じつつも、「さもありなん」と思うはずだ。総選挙で第一党の座を占めた政党の党首が首相に就任できないのはどう考えてもおかしいが、保守派が多数を占める議会と、保守派寄りの憲法裁判所が高く厚い障壁となり、民意に反して、おかしいことが公然とまかり通ってきたのがタイの現代政治史の一面である。
それがタイにとって有益だとは思わないが、軍のクーデターが繰り返されてきたタイの政治がそのたびに収れんし、民主主義がしっかりと根付くためには避けては通れない道だとも思う。政権が正常軌道から外れるたびに、有権者は必ず学習する(はずである)。私は、タイは民主主義の方向へ確かに進んではいるが、なおその途上にあると考えている。先進国といわれる日本の政治や政治家の体たらくを見ると、「政治の進化」という観点では、「これから」のタイも、(自虐的な意味を込めて)「もうこれまで」の日本も、五十歩百歩のような気がする。
今回の滞在中、タイの政治について話題を振ってきたのは、東北部ロイエット県出身だというタクシーの運転手ただ1人だった。王室の保養地として知られるバンコク近郊の海辺の街ホアヒンからの帰り、空港から乗ったタクシーの運転手はバンコク中心部の渋滞に捕まってしまったあたりで、「ピターが首相になればいい。ピターならタイを変えてくれる」と言った。
東北部は長く、タクシン元首相(現在タイ国外で事実上の亡命生活中)の岩盤支持層といわれた。だが、5月の総選挙でタクシン氏の二女ペートンタン氏らが率いるタイ貢献党が予想に反してピター氏率いる前進党に第一党の座を奪われたのも、政治の潮目が変わりつつあることを示した一例だろう。
友人、知人、親せきと頻繁に会食したが、政治絡みの話はまったく出なかった。政治の話は勢い、保守派と改革派に割れて和やかな会食の場をしらけさせてしまう恐れがあり、だれも意識的に避けたのかも知れない。だが、だれも政治にまったく関心がないわけではない。政治の話をする時と場所と相手を選び、ふだんは自らの政治的な立場をなるべく旗幟(きし)鮮明にしない姿勢を保っているだけのようだ。
ただ、タイの外に一歩出ると事情は変わる。隣国ラオスでは、タイの政治動向に関心が強かった。例えばビエンチャン滞在中、義弟の妻はタイの政権の枠組みづくりが暗礁に乗り上げているニュースをテレビで追いながら、「どうしてこんなことになってしまうんだろう」と嘆いていた。アメリカ国籍を取得後ラオスに戻ってきた親せきは昼ご飯の席で、「タイは保守派が多数を占めている限り政治の停滞が続くだろう。それでも、ラオスよりはマシだけどね」と自虐的に皮肉った。
◆巨大ショッピングモールに圧倒
コロナ禍は収束していないが、バンコク市内各所の巨大なショッピングモールは平日でも混んでいた。市内の移動の足はもっぱらBTS(高架鉄道)だったが、平日の昼間でも空席はほとんどない。欧米を中心に観光客も多い。主要駅の改札近くにある両替所にはいつも長い列ができていた。街中を歩くたびに、かつて住んでいた16年前との比較をしなくなった。比較しても何の意味もないことを自覚せざるを得ないほど、バンコクの街並みは著しく進化していた。
バンコクの巨大ショッピングモールの特徴の一つは、いずれも世界の一流ブランドが店を構える通りがあることで、各店とも入場制限をしていて、しかもたいがい長い列ができていることだ。
そして、モールの中を回遊しやすいよう客の動線をかなり広く取り、その奇抜さで競い合うかのようなデザイン、ディスプレー、レイアウトが随所に見られることだ。中でも2018年に開業した、チャオプラヤ川の向こうにあるタイ最大級の「アイコンサイアム」は、屋内の6階に高さ15メートルの滝が流れていたり、グランドフロアに水上マーケットを模したような屋台が軒を並べてあったりと、行く場所をあらかじめ決めておかないと1日では到底回りきれないような広さがあり、いつも混んでいた。
バンコク滞在中、ほぼすべての主要なショッピングモールを見て回ったが、どこでもそのにぎわいに圧倒され、疲れさえ感じた。それらが放つ熱気や熱量は、例えば東京・日本橋界隈などのそれをはるかに上回るもので、「こりゃあ、どうにもかなわんな」と自虐的にさせてしまうほどだった。タイは経済面で「中進国」といわれるが、こうした華やかで集客力のあるショッピングモールを見る限り、まちがいなく日本をしのぐ「先進国」だろう。
◆新業種フードデリバリーの普及拡大
街中を歩いていても、タクシーに乗っていても、乗り合いバスに乗っていても、いつも目に入ったのは、フードデリバリーのバイクである。バンコクだけではない。ノンカイやウドンタニなど東北部でも同じだった。しかも、屋台だけでなく、高級レストランにもフードデリバリー専用の受付カウンターがあり、新しい業種として成り立っていることがうかがえた。
フードデリバリーはGrabFood、foodpanda、LINE MANの大手3社に集約され、コロナ禍を経て事業がさらに拡大しているという。
タイ人の多くは外食が習慣で、屋台で買ったものを持ち帰って食べる。フードデリバリーはわざわざ買いに出なくても、注文すれば届けてくれる。利用者は2018年ごろから年々増えてきていたが、コロナ禍による外出自粛や店内飲食禁止で需要が一気に拡大。その後も増加の一途をたどってきたのは、需要の拡大に比例してフードデリバリーに対応する店舗数が増えたことだ。現在では、チェーン店だけでなく、屋台、日本食、イタリアン、デザートなどメニューが豊富で、コーヒー1杯からデリバリーを利用できる。
しかも、配達料が安い。店側が設定する料理の代金に上乗せしたデリバリー料金は、近くなら配達無料というところもあるし、距離に応じて高くなる設定だが高くてもせいぜい数十バーツ程度。日本にある「デリバリーは割高」という印象はタイにはまったくない。コロナ禍が収束傾向にあるいま、この新しい業種はすでにしっかり根付き、さらに拡大しそうな勢いだ。
またタイでは近年、タクシーの配車アプリも急速に普及している。われわれも滞在中、息子夫婦に配車アプリGrabを通じて空港への送迎など何度か車を呼んでもらったが、とても便利だった。流しの場合たまに、ぼったくりやメーターを倒さないドライバーに出くわすが、配車アプリの場合、その心配はない。運転手と話す必要がないので、タイ語ができない者でも安心して利用できる。
息子の妻はバンコクに住み始めて以来、タイ語学校で習得中だが、基本的に英語で十分事足りる。普通のタクシーより割高で、渋滞がひどい時などは料金が上がるが、ケースバイケースで普通のタクシーと乗り分ければ、移動の足として実用的だと思った。
◆「スマホは生活の一部」実感
私は今回の旅をきっかけに、遅ればせながらスマホデビューした。これまでかたくなにスマホを拒絶し、この先もずっとガラケーで十分だと思ってきた(拙稿第2回「ICT社会を抗いながら生き抜く」ご参照)。だが、バンコク到着当日の夕食の時、息子からiPhoneをもらった。タイ滞在中に使えるようSIMカードも入れてくれたので、使ってみることにした。
バンコクにいる時はさほど感じなかったが、ラオスやタイ東北部のノンカイ、ウドンタニ、ナコンラチャシマなどの各県を回ってみて、タイの市井(しせい)の人たちにとって、どんなへき地であってもスマホがいまや生活に欠かせない必需品の一つであることを、身をもって感じた。
私は滞在先でも「屋台村」の編集作業ができるよう軽量のノートパソコンを持ち歩いたが、場所によってはWi-Fi(無線LAN)が使えないところがある。
クメール遺跡で知られるナコンラチャシマ県ピマーイの郊外にある親せき宅を訪れた時のこと。Wi-Fiが通じないので近くのホテルのロビーへ行こうか思案していたところ、妻の叔母が「これが使えるよ」と言って、あるWi-Fiのパスワードを教えてくれた。いわゆる「Wi-Fiの切り売り」で、たとえば100バーツ(約400円)支払えばその時点から2日間の期限付きで、与えられたパスワードを使ってWi-Fiが利用できる。こうした「Wi-Fiの切り売り」が地方の農村部などで広く普及しているという。
その日はそのパスワードを使って作業ができた。ところが翌朝早く起きて作業を始めようとしたところ、前日使ったWi-Fiが使えない。パソコンの画面上には何種類ものWi-Fiの名前が並んでいたので、試しにその中の一つを選んで同じパスワードを打ち込んでみたら、これが使えた。
「Wi-Fiの切り売り」は複数の会社がやっていて、Wi-Fiの波があちこちで飛び交い、盗電や盗水と同じようにWi-Fiの「ただ乗り」が横行しているらしい。こうした「ただ乗り」は日本では犯罪にならないようだが、個人情報が抜き取られたりデータが壊されたりする恐れがあるなど、それなりのリスクがある。が、地方の農村部ではこれまでのところ、こうしたリスクよりも利便性のほうが優先されているのが実情のようだ。
タイ東北部では、メコン川を隔てて対岸のラオスと面するノンカイ県内を車で西方のルーイ県に近いシーチェンマイ郡まで走ったが、行く先々のどこでもだれもがスマホを持ち歩いていた。以来、日本にいる時には感じなかった疎外感や肩身の狭い思いのようなものを抱き始めるようになり、帰国後すぐに、ガラケーからスマホに乗り換えるための作業と手続きを始めた。
◆帰国後すぐにウォーキング再開
今回の「回遊生活」はちょうど1か月間で、タイに20日間、ラオスに10日間それぞれ滞在した。そのほとんどは初めて訪れる場所ではなかったが、16年間の空白があり、初めて訪れるに等しい感動と驚きの連続だった。
日本を離れたとたん、それなりの気力と体力が必要だということも改めて実感した。若い頃なら回復も早いが、年を取るとそうはいかない。今回はタイ東北部のウドンタニで熱中症に似た症状に陥り、ホテルで半日休まざるを得なかった。日本では毎日ウォーキングをして体力をつけてきたつもりだったが、連日40度超のタイ東北部の酷暑にやられたのか、気づかないうちに緊張による疲れがたまっていたのか、こめかみから目尻のあたりがズキズキして片頭痛に一時悩まされた。
その一方で、さまざまなタイ料理やベトナム料理を思う存分食べつつ、その日にあったことをできるだけその日のうちに細かくメモに記しながら、次の日が待ち遠しい毎日だった。日本ではそうざらには味わえない、心がウキウキする夢だった「回遊生活」の楽しさを同時進行の形で実感した。
そして帰国後、すぐにウォーキングを再開した。とにかく、体力をつけないことには、「回遊生活」を元気に続けられないとわかったからである。酷暑が続くこの夏。炎天下でも、自然の造形美を思わせるさまざまな形をした雲をながめたり、健気(けなげ)に咲く草花の写真を撮ったりしながら、江戸川沿いの遊歩道をニコニコ顔で歩いている。
※『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』過去の関連記事は以下の通り
第6回「見たい、知りたい、感じたい―『4か国回遊生活』への道」(2023年8月9日付)
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第2回「ICT社会を抗いながら生き抜く」(2021年7月21日付)
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