小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住21年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
「一楽、二萩、三唐津」。皆さんはこの言葉をご存知だろうか?
お茶の世界に無縁な私は60歳を過ぎるまでこの言葉の存在すら知らなかった。この「ニュース屋台村」の執筆陣として名を連ねている、トヨタ生産方式の専門家である迎洋一郎さんに促され、2015年11月に彼の故郷である長崎県佐世保市の三川内(みかわち)焼の窯元である中里勝歳さんのお宅をお邪魔した。この旅の途中で佐賀県の唐津、伊万里、有田など焼き物の産地に立ち寄り窯元を訪問したが、その際唐津の陶器店のポスターでこの言葉を見つけた。私はあまり深くものを考えず、何となく陶器の格付を表すものだと思い込んでしまった。
九州窯元巡りで陶器の美しさに気付き、また中里勝歳さんの陶器職人としての素晴らしい人柄に触れて、私はすぐに「にわか陶器好き」になってしまった。こんな私の頭の中では相変わらず「一楽、二萩、三唐津」という言葉がぐるぐると回っていた。
◆京都の楽美術館
中里家を訪問した翌年の2016年には、所用で京都を訪問する機会があった。このチャンスを逃す手はない。私は空いている時間をみつけ、楽焼の窯元である楽家に隣接して建てられている「楽美術館」を訪れた。楽焼の何たるかも知らず、「一番格式がある陶器は楽焼に違いない」と、楽美術館を見て回った。楽家初代の長次郎から現在の15代楽吉左衛門の作品まで、歴代の名器である「抹茶茶碗」がたくさん展示されている。「最も格式のある陶器は抹茶茶碗なので、抹茶茶碗だけが展示されている」と勝手に理解したことを覚えている。
楽焼は16世紀後半に瓦職人であった長次郎が「わび茶」の創始者である千利休の指導のもとに、茶碗を作ったのが始まりとされている。そもそも長次郎は、桃山時代に流行となっていた中国南部の「華南三彩」の焼き物の釜であったようである。
楽焼は「黒楽」「赤楽」と呼ばれるように黒色もしくは赤色の単色茶碗であるが、その色彩の源流は「華南三彩」にある。また「手捏(てこ)ね)」と言って、ろくろも使わない手だけで形を作る製法が特徴である。そもそも千利休の指導のもとに始まり、「千家」で最も重用される茶碗だけあって、「わび・さび」の思想が茶碗に表され、シンプルながらも複雑な宇宙観を感じる作品ばかりが展示されていた。
さすがに「一楽」と称されるだけのことがある、と感心しきりで私は楽美術館をあとにしたが、後日大阪の陶器店で第十五代楽吉左衛門の茶碗を見つけて値段を見てびっくりした。茶碗一つで500万円以上の値段がついていたのである。さすが「一楽」と呼ばれることはある、とこの点でも感心してしまった。
もう一つ、楽美術館で心に残ったものがあった「新兵衛の楽、吉左衛門の萩」というポスターである。東京芸術大学の同級生で共に楽焼・萩焼を代表する窯元である楽吉左衛門と萩焼の坂倉新兵衛が、所を変えてお互いの焼き物を作るという趣向のようである。萩焼を全く知らない私であったが、坂倉新兵衛という陶芸家の名前だけが記憶に残った。いつか萩に行く機会があったらぜひ坂倉新兵衛の作品を見に行こう。
◆山口県の萩焼の窯元を訪ねる
バンコック銀行に転職して早16年。過去10年以上は年3回、計3カ月近く日本出張に出向く。当初3~4年はバンコック銀行日系企業部と提携してくれる銀行を探して日本全国各地の銀行を訪問した。門前払いをされた銀行も数多くあったが、徐々に提携銀行も増え、これらの提携銀行ならびに提携銀行の日本での顧客回りで日本出張は続いた。
日系企業部の統括を嶋村浩EVP(Executive Vice President)に譲ってからは、提携銀行の協力を得ながら観光セミナーを行ったり、地元大学を訪問したりするなどして相変わらず日本出張を続けている。
今年5月の日本出張の際、鳴門の水産物を使ったすしなどの伝統の食文化を体験するため妻と共に徳島を訪問した。その翌朝、徳島から移動して午後広島大学を訪問し、その夜に広島銀行の関係者と会食をする予定が組まれていた。しかしせっかく広島まで行くのであれば、山口県萩市まで足を延ばせるのではないかと急きょ思いついた。広島銀行に無理にお願いして会食を夕食から昼食に変更し、広島大学訪問後その日のうちに萩に移動することにした。
突然の予定変更であり、萩焼については何の事前知識もない。徳島から広島への移動の最中に、萩焼の由緒ある窯元が坂窯、坂倉窯、三輪窯であることを知った。広島で空き時間を見つけ、萩市観光協会に電話をしてこれらの窯元めぐりの相談をしたが、「窯元めぐりをする観光客などいない」という。これら三つの窯元もそれぞれ離れた所にあり、そこに行きつくまでが大変なようである。「萩には陶器店や和食器店が多くあり、そこで有名作家の作品も見られます。悪いことは言わないから、それらの陶器店などを見て回った方がいいですよ」と強くすすめられた。
しかし過去に有田焼、伊万里焼、三川内焼、美濃焼などの窯元を訪問し、窯元から多くのことを学ばせていただいた経験のある私としては諦めきれない。直接これらの窯元に電話することにした。三輪窯はなんと、電話したその日が、第十三代三輪休雪の襲名披露の日であったようで、翌日の訪問はかなわなかった。しかし坂窯と坂倉窯はテレビ取材や窯への火入れ作業があったが空いている時間を教えていただき、快く翌日の私の訪問を受け入れていただいた。
そもそも萩焼は、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄慶長の役で、毛利輝元が朝鮮人陶工の李勺光と李敬の兄弟を連行し、陶器を作らせたのが起源のようである。この頃の秀吉は利休に傾倒し、茶や能などを全国各地の戦国大名に強要していたようである。
朝鮮出兵の際は全国各地の大名が朝鮮人陶工を連行し、連れ帰ったきた。萩焼のみならず、伊万里焼、唐津焼、三川内焼、薩摩焼など日本各地の有名な陶器はこの時を起源としているものが多い。1604年の関ケ原の戦いで毛利輝元のついた西軍が敗れると、毛利家は広島から山口県萩へ改封(領地替え)となる。この時、李勺光と李敬の兄弟も萩に移り、毛利藩直営の御用窯を開設する。全長30メートルにも及ぶ大きな登り窯が造られ、多くの陶器が製造されたようである。弟の李敬は毛利家より「坂高麗左衛門」の和名を受け、その後代々にわたり萩の御用窯として中心的役割を担う。一方、兄の李勺光の子孫はその後現在の長門市深川に移住し、萩藩の第二の御用窯となった。六代目より坂倉に改姓し、十一代目より「坂倉新兵衛」と名乗るようになる。今回訪問した「坂高麗左衛門窯」と「坂倉新兵衛窯」は萩焼の本流の由緒ある窯であった。
ここで、萩焼の特徴についてみてみよう。萩焼は一言で言えば「素朴でふっくらとした温かみを持った陶器」である。萩焼の原土は山口県内の地元のものを使っているが、砂礫(されき)が多く柔らかいため吸水性がある。また土の特性から柔らかくふわっと焼き上がってくるため、器に空気が含まれお湯の温度を長く保つことが出来る。これらの特徴から萩焼は優れた茶器として認知されているのである。絵付けはほとんどせず、土の配合と釉薬(ゆうやく)の組み合わせだけで色を作っている。萩焼陶器の色合いは灰色、褐色、白、オレンジ色などに限定され、これらの色が複雑に入り交じったものとなっている。
また、長年使っていくと器の表面に「貫入(かんにゅう)」と言われる細かいひび割れ模様が出来、独特の世界観を見せるようになる。これが「萩の七化け」と呼ばれるもので、茶の世界で重用されているようである。こうした知識は、萩で宿泊した旅館の陶器展示室や今回お邪魔した二つの窯元で教えていただいたものである。
◆第十五代新兵衛氏の抹茶茶碗
翌日は朝8時半に旅館を出発し、レンタカーで坂倉新兵衛窯へと向かった。萩から坂倉窯もある長門市へは車で1時間弱の距離である。長門市に入ってからまた山中に向かって進むと、狭い道の突き当たりに坂倉窯があった。自然に囲まれた風光明媚(めいび)な場所であるが、周りからは人の気配は感じられない。約束より30分も早く坂倉窯に到着したが、奥様は快く私たちを迎え入れてくださった。早速私は部屋に展示されてあった作品を見せていただいた。
湯呑みや銘々皿などの作品もあったが、私は第十五代新兵衛氏の抹茶茶碗の作品群に目が釘付けになってしまった。素朴ながらも深い世界観を表した素晴らしい作品である。その中でも私と妻はそれぞれ別の茶碗に心を奪われてしまった。私はどちらかと言うと白灰色を基調とした少し明るめの茶碗。一方妻はそれよりも色の濃い「窯変(ようへん)」の趣が面白い茶碗である。私たちは何度もその二つの茶碗を手に取ったり、異なった場所に置いて光線の違いを感じたりしていた。
「若い頃の主人は独自の作風を追い求めて陶器の形に工夫を加えたり、絵付けをしたりしていたのです。ところが最近では伝統的な萩焼を作るようになってきました」。奥様はこう説明して下さった。そう言えば、私の目にとまらなかったが、陳列棚には絵付けがされた花器も展示されていた。代々の伝統格式を引き継がなければいけない者の苦悩を、私は他の場所でも聞いたことがある。3年ほど前、同じく陶芸家の第十四代「今泉今右衛門」のお母様と話をさせていただいたことがある。「うちの息子は若い頃に『今右衛門』を襲名し、世間の注目を集めるようになりました。一方でその名前に恥じない作品を作ろうと、毎日もがき苦しんでいます。あの息子の姿を見ると息子を陶芸家にしたのは間違いではなかったか、とすら考えてしまいます」。その当時すでに「墨はじき」などの独自の技法を開発され、人間国宝になっていた第十四代今右衛門がそこまで悩んでおられるという話に、私は深く感銘を覚えた。
ところがつい最近になって、酒井田柿右衛門の身内の方から「今右衛門先生は気さくで明るくて、有田の人気者でいらっしゃいます」という話を伺った。「悩みぬいた末に到達された境地なのだろう」。第十五代坂倉新兵衛氏の奥様のお話を聞きながらこんなことを考えていると、第十五代新兵衛さんがテレビの取材の合い間をぬってお話をしに来て下さった。失礼な言い方になるかもしれないが、欲得がすべてそぎおとされ「仙人」のような風貌であった。
新兵衛氏に萩焼のことなどを少しお伺いしていると、奥様がお茶菓子と抹茶を用意してくださった。私は茶の心得のなどない無作法ものであるが、せっかくなのでお茶をいただくことにした。ところが、まずお茶菓子にびっくりである。今まで食べたことのない和菓子であった。あとで知ったのだが「こいの里」という島根県の和菓子で羊羹(ようかん)をベースにしているが、サクッとした食感で何とも表現出来ないおいしさである。これに続く抹茶も得も言えぬ上質な味である。もちろん抹茶茶碗は第十五代新兵衛氏の作品である。先ほど私たちが何度も手にしていた抹茶茶碗に似た茶碗でお茶を点てていただいた。素晴らしいお茶碗で点てた抹茶がこれほどおいしいものだと私は知らなかった。私にとっては至福の時が流れていた。
私はここまで来てようやく決断した。第十五代新兵衛氏の抹茶茶碗を買い求めよう。私にとってはかなり高価な買い物である。ましてや私は「お茶」をやらない。それでもあの抹茶茶碗の美しさと存在感を忘れ去ることが出来なくなってしまったのである。大変失礼な話であるが、私と妻が気に入っていた二つの抹茶茶碗のうち「どちらかが新兵衛氏のおすすめか?」を聞いてみた。「自分の作った作品をどちらがいいか選べ」などというのは失礼千万な話である。しかし、自分の鑑識眼に自信のない私としては、あとで悔いを残したくないため失礼を承知でお願いした。すると新兵衛氏は両方の茶碗を交互に手にとり5分以上にわたってじっくり眺め、最終的には妻の選んだ茶碗に軍配が上がった。茶碗の内側の窯変が独特の世界観を醸し出している作品である。もちろん私に異存はない。それにしても新兵衛氏が直接作品を選定していただけるとは大変ありがたいお話である。
茶碗選びが終わったところで、私は京都の楽美術館で「新兵衛の楽、吉佐衛門の萩」という展示会のポスターを見て新兵衛氏の名前を知った、と正直にお話しした。「場所が違うとはいえ、たまたま二つの窯元の跡継ぎが同じ時期に東京芸術大学の彫刻科の同じクラスにいた、というのはすごいことだと思います。そのときから楽君とは仲良くしていたのですが、数年前にお互いの焼き物を作ろうということになったのです。その時に本が出版されたのですが、もしお持ちでなければ差し上げます」と、なんと本までいただいてしまったのである。そうこうしているうちに、あっという間に1時間半の時がたっていた。
◆坂高麗左衛門窯
私たちは坂倉新兵衛窯をあとにして萩に戻り、坂高麗左衛門窯を訪れた。坂窯も由緒ある家柄で萩の山中にあった。まず家の立派さにびっくりしてしまった。京都にいるのではないかと思うほどの玄関へ続くアプローチの小路とその途中にある茶室。また庭園も素晴らしく、近くの山を借景に落ち着いた風情を見せている。坂窯は先代の急死により、高麗左衛門の名前は空席となっているが、30代の若き当主である坂悠太さんが奥様とともに出迎えて下さった。
坂家には歴代の当主の作品が展示されている特別室があり、萩焼の変遷などを説明していただいた。萩焼について何の知識もない私に親切にご説明いただいたことに感謝しきりである。こちらでもあっという間に時間が過ぎてしまった。坂窯では数点小物の陶器をいただき、おいとましてきた。結局私たちは萩に行きながら萩の街を見ることなく東京に戻ることになった。しかし私たちにとってはこれ以上ない萩の旅となった。
◆楽焼と萩焼の相違点と共通点
東京に戻ってから、新兵衛氏にいただいた本を読んでみた。改めて楽焼と萩焼の相違点を認識した。
まず使っている陶土や釉薬が異なる。「手捏ね」とへらで造形する楽焼は中国の「革南三彩」を起源としているため、鮮やかな黒や赤の茶碗が主流となる。また京都の街中にある家屋内で作られた小規模な釜で比較的低い温度で焼成したあと、水をかけて一気に冷却させるのである。一方、萩焼は朝鮮の高麗茶碗を起源とし、「ろくろ」で造形したあと山中に造られた登り窯で焼成される。高温度であるが、比較的短時間で焼き上げられる。
これら二つの焼き物はこうして全く異なった風土や技術で作られているが、共通点が二つある。一つ目は両方とも水が浸みるほど柔らかい陶器であり、これが湯の温かさを長く保つ。あわせて柔らかい陶器の触感が手に心地よい。茶道にはうってつけの茶器なのである。更に両方とも素朴でかつ複雑な世界観を表現している。その素朴さの原点は全く異なるものであり、表現の仕方も全く異なっていながら、共にそうした世界を持っている。「一楽・二萩・三唐津」と称され、茶の世界で珍重される理由がここにある。
楽焼と萩焼は茶の世界で評価が高いが、道を究めた窯元同士がそれぞれの茶器を作るとなると、簡単にはいかない。楽吉左衛門や坂倉新兵衛という当代きっての陶芸家も相当な苦労をされたようである。
「それぞれの焼き物のたどってきた歴史の中に今があり、そしてそれぞれの家のなかにも歴史がある。ほんの片隅の何気ない物にも得も言われぬ魅力があり、それが窯場の文化を形作ってまた次に続いていく」「お互い相手の仕事場に行って仕事をすると最初に思った以上にこの場所で、そしてこの人たちの手助けで続いてきた、ここでしかできない焼き物であるという思いがひしひしと湧いてきた。最初の興味深い企画からもっとこの場所で、そしてこの時代の一部を共有させてもらっているという気になる」
今回、萩でお会いした坂倉新兵衛氏がこう語っておられた。この言葉の重みを改めて感じ入った。
※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第134回 美濃焼探訪
第59回 三川内焼の窯元を訪ねて
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