小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住25年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
「石の上にも三年」ということわざがある。「冷たい石の上でも3年も座り続けていれば暖まってくる。我慢強く辛抱すれば必ず成功する」という意味である。若い頃の3年は死ぬほど長い。3年も我慢して何かをやり続けることなど、それこそ我慢できなかった。やりたいことは山のようにある。楽しいこともてんこ盛りである。学生時代に3年間勉強に打ち込んでいれば、今よりも格段に賢くなっていたであろう。飽きっぽい性格の私は、勉強はもちろんのこと、何事にも3年間続けられるだけの辛抱強さを持ち合わせていなかった。そんな私が70歳を目前にして思うことが「石の上にも10年」である。
◆転機となったバン銀への転職
私にとっての「石の上にも10年」は何といっても、バンコック銀行での日系企業部の立ち上げである。学生時代の私はすでに述べたように飽きっぽく何も身につかなかった。社会人になって東海銀行に勤め始めてからも日本の銀行の慣例で、一つの部署に10年の長期にわたって務めることはない。それでも幸いなことに、最初の国際部勤務が5年(1982-87年)、2回目の米ロサンゼルス勤務が7年(87年―94年)、2回目の国際部勤務が4年(94年―98年)、バンコク勤務が5年弱(98年―2002年末)と、私は1か所当たりの勤務が長い方だった。このため、いくつかのことを比較的長い間経験ができた。このことが、その後のバンコック銀行への転職に大きく役立った。東海銀行時代は職務としていろいろなことを成し遂げてきた自負はある。しかし、何かをやり遂げたような実感は正直ない。
私は長らく国際関係の「再建屋」として過ごしてきたが、東海銀行と三和銀行が合併してできた新生UFJ銀行に私の居場所はなかった。このため会社に辞表を提出し、2003年4月にバンコック銀行(以下バン銀)に転職した。勝算があったわけではない。「チャシリ頭取以下バン銀の経営陣との信頼関係」と「執行副頭取という職位での処遇」が私のささやかな支えであった。しかし当時から、外国企業への転職で成功した事例はほとんどない。妻は「私が数年でバン銀を解雇されるかもしれない」と覚悟していたようである。幸いにも私は日本で住居を持ち合わせず、このため住宅ローンもない。バン銀での職を失ったとしても、子供たちを大学に行かせるだけの貯金はあった。最悪の事態を想定しての転職である。
案の定、私はいばらの道を歩くことになる。転職してバン銀出社の1日目。職場には私の机もパソコンもない。当時のバンコック銀行では「執行副頭取」の肩書を持つ者は10人にも満たず、頭取・会長を含めても私は上位20番以内には入る地位を得るはずであった。しかし、みんな私のことを無視した。あとから考えれば当然のことである。「執行副頭取」というポジションがいきなり外部から来た、それも外国人に奪われたのである。バン銀内部で長く働いてきたタイ人にとって面白いはずはない。タイの会社組織は、組織図があっても人間関係が基盤となって動いている。私に「執行副頭取」という肩書があっても彼らには関係ない。ジャパンデスクとして前任者から引き継いだ10人弱のスタッフがわずかに私の言うことを聞いてくれた。
こんな具合だから、私がバン銀のコンピュータシステムの端末を手に入れたのは、転職してから3か月もたったあとのことだ。もちろん、バン銀のメインコンピュータに日本語環境などなく、日本語が使えない。日本語環境を設定するためシンガポールのIBM社と直接折衝して、日本語が使えるようになるにはさらに1年待たなければならなかった。「日系企業部」という現在の部署ができたのも、転職してから1年半後の04年10月であった。
◆孤立無援状態を自力で打開
実績が何も上がらなければ、いつクビになってもおかしくない。そんな焦りが募る中で、バン銀のチャシリ・ソーポンパニット頭取とデジャ・テュラナンダ会長は「実績が出るまで時間がかかる。焦らなくて良い」と言ってくれ、3か月に1回、深夜の夕食会で私を慰めてくれた。
そうはいっても、誰も私の言うことを聞いてくれない。東海銀行時代のお客様が私の転職を知って次々と取引を申し出てくれたが他の部署の協力が得られず、かえってお客様に迷惑をかける始末。その頃の私は、早朝に自宅近くの公園を散歩しながら「日々生きていくための勇気」を奮い立たせるのに懸命であった。なにせ、自分の部下とバン銀内の古くからの友人を除いて、2万4千人が働くバンコック銀行内で孤立無援の状態である。
かくなるうえは自力で状況を打開するしかない。バン銀に入ってから1年ぐらい経過したころから、私は毎日のように他の部門のタイ人部長などを昼食に招いた。もちろん自分のポケットマネーである。まだ日本食がそれほど普及していなかった時代なので、タイ人の同僚や部下は喜んでついてきた。現在に比べれば格段に安い給料の私にはかなりの出費であったが、背に腹は代えられない。私にはそれ以外に手立てが思いつかなかった。まさに“背水の陣”でバン銀のタイ人行員と食事をし続けた。
しかし、この作戦はかなり効果があった。おいしいものを食べれば、人間は幸福になり心を許す。この食事会によって、かなりの人が私への警戒感を解いてくれた。彼らにしてもおそらく、「よそ者」の私を遠巻きに見ているしか手立てはなかったのであろう。この昼食作戦は「バン銀のタイ人行員との垣根を取り除く」以上の効果があった。
タイでは常に、人が2人そろえば上下関係が生じる。保護―被保護の関係である。上位にある保護者は、下位の被保護者の面倒を見る義務がある。こうしたタイの世界観から、私がタイ人に昼食をおごった行為が自然と、私をタイ社会の中で上位者にしたのである。バン銀の仲間たちが私の意見や意向を聞いてくれる環境がそろった。こうした食事会は、私が日系企業部の統括を退くまで10年以上にわたり定期的に続けた。
さらに、前述のチャシリ頭取とデジャ会長との定期的な夕食会も大きな助けとなった。この夕食会で日系企業取引の深耕策について報告し、いくつものプロジェクトを遂行していくことになった。工業団地プロジェクトでは、支店の開設候補地とATMの設置場所などを議論した。工業団地内の日系企業を地図上で色分けして、全社取引獲得を目指した。また定期的にバン銀の商品を説明するセミナーを他の部署と共同で開いた。こうしたセミナーは外国為替、CMS(資金の一元管理)、クレジットカードなど他の部署や支店の営業支援となるため、他の部署との協業が一層進んだ。他の部署にとっても、私たち日系企業部と協業することで業績が向上することが分かり、親密な関係が構築された。同様の方法でバンコク市内の取引先獲得のため、ビルディングプロジェクトも開始した。
また、提携銀行プロジェクトでは私は04年から日本全国各地を巡り、バン銀と提携してくれる銀行を探した。当時の邦銀はバブル崩壊の影響で満身創痍(そうい)の状況だった。多くの地方銀行が国際業務から撤退。私が提携を依頼しに行っても「けんもほろろ」の門前払いの状態であった。各行を訪問しても無役の若い行員が出てきて、体(てい)よく追い出された苦い経験ばかりである。こんなことを数年にわたり繰り返した。
◆細谷りそな銀行会長との出会いと「小澤塾」開講
しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」である。私を拾ってくれた神は、当時のりそな銀行の細谷英二会長である。私の名前をどこかで伝え聞いた細谷会長は、私との面談に応じてくださった。面談後すぐにタイを訪問してくださり、りそな銀行とバンコック銀行は提携関係を締結した。これをNHKが取り上げ、夜7時のテレビニュースで放映されたとき、妻が涙を流して喜んだ。妻から見ても、私はそれだけ追い込まれていたのであろう。
りそな銀行はそれからまもなく、バン銀に出向者を派遣してくれた。取引先は順調に増えていたとはいえ、当時のバン銀日系企業部の収益基盤は弱かった。私たちを支援してくださった細谷会長をはじめとしたりそな銀行には深く感謝している。その後も提携銀行の発掘に数年は苦戦が続いたが、横浜銀行、千葉銀行、商工中金、名古屋銀行などが次々に私に救いの手を差し伸べてくれた。こうして2011年6月からは、りそな銀行以外からも出向者の派遣が相次ぎ、現在では20人ほどの出向者が在籍している。
出向者の受け入れを始めてすぐに、これら出向者への研修制度「小澤塾」を開始した。提携銀行からの出向者は日本での銀行員経験があってもタイの銀行商品は全く分からない。このためバン銀の商品群を覚えてもらう目的で「小澤塾」はスタートした。現在は若手銀行員の養成講座として、日本の銀行界でも少しは知られた存在となっているようである。現役と卒業生を合わせた「小澤塾」経験者は延べ100人ほどになった。このため昨年からは「レクチャー仲間の集い」として、2か月に1回の割合でオンライン会議を行っている。私の銀行員引退を控えて「小澤塾」の名称は昨年返上したが、こうした集まりができるのも「石の上に10年」の成果である。
◆「天の利、地の利、人の利」
ほかにも、日系企業部立ち上げ当初の苦労話は数え始めたら切りがない。立ち上げ時のスタッフは10人弱で、日本人は私を含めて2人。何から何まで自前やらなければならない。バン銀の案内や商品説明の日本語資料、週1回の頻度でお客様に届けるメールマガジン、果ては日本語ホームページまで、自分で原稿を作成し配布した。こうした合間を縫って積極的に顧客訪問を繰り返した。工業団地プロジェクトを推進していくうえでは、自分で顧客訪問をするしかない。しかしこうした努力が実って徐々に営業成績が上がってくると、日系企業部の要員枠も増え、現在ではタイ人、日本人合わせて70人近い大部隊になった。
14年には日系企業部統括のポジションを後任に譲り、責任ある職務から外れた。それにしても怒涛(どとう)の10年であった。精神的には全く余裕はなかったが、真摯(しんし)にお客様や部下たちに向き合った。こうした必死に過ごした10年があって、バン銀の日系企業部が出来上がった。
もちろん、私一人の手でこれを成し遂げたわけではない。日ごろから常に言っていることであるが、「天の利、地の利、人の利」がすべてそろったからこその成果である。「天の利」とは、アジア通貨危機以降の日系企業のタイ進出ブームである。在タイ日系企業数もこの20年で2000社から6000社と急激に増加した。これに伴ってバン銀日系企業部の取引先も急増した。「地の利」とは、タイ最大の銀行であるバン銀の資金力と商品群である。地場銀行としての素晴らしい機能を最大限に利用できたからこそ、多くのお客様が取引を始めてくれたのである。「人の利」とは、私の転職を機にバン銀と取引を開始してくださった多くのお客様である。
私の仕事を全面的にバクアップしてくれたチャシリ頭取をはじめとしたバン銀の経営陣と優秀で献身的に仕事をしてくれた日系企業部の部下たち。特に転職当時から私についてきてくれている長年の同僚。さらに苦しい時期に私に手を差し伸べてくれた提携銀行とその出向者の人たち。ほかにも、私のバン銀への転職を心配してくれ、多くの援助を申し出てくれた古くからの友人たち。こうした人たちには本当に深く感謝している。こうした「天の利、地の利、人の利」すべての要素がそろって現在の日系企業部がある。私は運に恵まれた。
それでもこうしたことが言えるのは、この10年で私が歩んできたことに一定の成果が出たからである。当時の私には、自分の運を感謝するような余裕は全くなかった。バン銀日系企業部の統括をしていた10年間は、常に精神的に追い詰められていた。必死に仕事に没頭した「石の上の10年」であった。今になってその「石の上の10年」の重要性に気づいている。
先日、バンコック銀行主催の日本酒試飲会に参加させていただきました。バンコクに来てから足を運んだパーティーは、日本人率99%というものがほとんどだったのですが、初めて日本人とタイ人が半々で交流する場に参加させていただき、大変楽しい時間でした(その分日本酒の試飲は手薄になり後悔しておりますが)。また、名刺交換させていただいたスタッフの方々は地方銀行からのご出向者が多くいらっしゃいました。
今では当たり前に感じているこの状況は、小澤さんの「石の上にも10年」のご苦労があってのことだったのだと知り、改めて敬服した次第です。小澤さんの「石の上の10年」を無駄にしないためにも、後継の皆様がしっかり引き継がれていかれますように!
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