小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住25年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
人間は生来、賭け事が好きなようである。もちろん自分のごひいきが勝つことが前提になる。日本のテレビ番組を見ていると、いまだにWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に関する報道、特に大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手の話題で持ちきりである。日本代表の優勝シーンを何度も放映する。WBCの前はサッカーのワールドカップで日本全国が盛り上がった。自分の生活とはあまり関係ないにもかかわらず、人々は自分の思いをその勝負の世界に投影させる。
選挙についても同じようなことが言える。日本の衆参の国会議員選挙の際のテレビ報道を見ているとそれがわかる。主要テレビ各局は選挙速報を流し、当選確実並びに当選の速報のスピードと正確さを競う。見ている方も見ている方である。チャンネルを切り替えながら、各局の獲得議席予想を比較して勝負を楽しんでいる。何を隠そう、私自身のことである。しかし私だけではないに違いない。なぜなら全てのテレビ局が選挙速報しか流していないからである。ふだんテレビをよく見ている人たちはみんな選挙が好きなのである。こんな「みんなが好きな選挙」が私の住むタイでまもなく行われる。
◆政権奪取へ「375議席の壁」
タイ下院(定数500)の総選挙が5月14日に投開票される。4年ぶりの総選挙で、タイに再び政治の季節がやってきた。今回の総選挙の結果を予想するにはまだ時期が早すぎる。選挙は水物。最後の最後まで何が起こるかわからない。前回2019年3月の総選挙でも、タクシン元首相が総選挙の直前に王室のウボンラット王女を「タイ護国党」の首相候補として擁立。ところが、「王室の政治利用」を理由に選挙管理委員会が護国党の解党を決定、選挙結果に大きく影響した。今回もこれから何が起こるかわからないが、現時点での予想をしてみたい。
まずはタイの選挙制度から簡単におさらいしよう。タイは議院内閣制で、上院250議席、下院500議席の両院の議員から首相が指名される。下院議員は小選挙区で400人、比例代表で100人が選ばれる。一方、現在の上院議員は14年の軍事クーデター下で採択された17年憲法に基づき、当時の政権に近いと思われる保守系の人たちが任命されている(形式上、選挙は行われたが、被選挙人が実質任命されていた)。こうした事情から、野党の「タイ貢献党」や「前進党」などが政権を奪取するためには、下院で375議席(上院250+下院500÷2)以上を獲得する必要がある。この「375議席獲得」という壁があまりにも高く、従来はプラユット首相やプラウィット副首相を輩出している軍部の息のかかった政権が続くと予想されていた。
ところが最近になり、タイの政治の雲行きが少し変わってきた。ニュース屋台村の拙稿第251回(「タイ政局は視界不良」22年4月1日付)で想定していたシナリオでは収まり切らない状況が生まれるかもしれない。それを可能にしているのは、タイ貢献党の「地滑り的大勝」が現実味を帯びてきたからである。ちなみに、現在野党に甘んじているタイ貢献党は、日本でもなじみの深いタクシン元首相が実質オーナーと目される政党。一方、前進党は王室改革を提唱する若者たちに支持される急進的な政党である。
◆躍進著しいタクシン氏系政党
直近の世論調査によると、タイ貢献党の躍進が止まらない。今年初めには、同党の予想獲得議席は220議席程度であった。タイも基本的には日本と同じ利権政治。各県に地方のボスがいて、選挙はこれらのボスの意向で当落が決まる。このため政治の専門家たちは、地方のボスの意向を積み上げて票読みをしている。ところが今回は、タクシン氏が本気で勝ちに来ており、当初の議席予想を覆してしまった。
その理由として、第1に今回はタクシン氏の家族であるチナワット家が前面に出て選挙戦を行っている。これは前回19年の総選挙では無かったことである。タクシン氏の二女であるペートンタン氏は妊娠中であるにもかかわらず、タイ貢献党の首相候補に収まり、選挙キャンペーンを盛り上げている。当初未知数であった彼女の政治手腕も、今ではすっかり確固たるものとなっている。タクシン氏のポッチャマン元夫人も選挙キャンペーンに積極的に参加している。タクシン氏自身は海外逃亡中で、海外からの政治活動禁止条項に抵触しないようタイ貢献党への直接的支援は避けている。しかし彼が本気で勝ちに来ていることは誰も疑っていない。同党の選挙キャンペーンは次第に熱を帯びてきているようである。同党の選挙キャンペーンを直接見た人は「タクシン氏の政党が過半数を得た過去の選挙戦の熱気に近づいてきている」とコメントしていた。
さらに、投票日が決まってから地方のボスなどの有力議員の政党移動が起きており、これもタイ貢献党に有利に働いている。現在の政権与党である国民国家力党(PPRP党)からソムサック、スリヤ、ソンタヤといった下院の有力議員がタイ貢献党へ移籍。彼らの配下の議員たちも同様に移籍したと推測される。これらベテランの有力議員は元々、地べたをはって選挙活動を行う地方選挙区を避け、比例代表で選出されている。比例区は名前の通った政党が強く、タイ貢献党は少なくとも100議席中40議席は獲得すると見られている。比例区の名簿登載順高位をエサに、タイ貢献党は有力政治家を勧誘している。一方、PPRP党は比例区での予想獲得議席が少なく、かつ軍人出身の議員を厚遇することから、内部崩壊が起こっているといわれている。過去の選挙戦で「必ず勝ち馬に乗ってきた」をされるソムサック議員がタイ貢献党に移ったことも注目に値する。
◆首相の座には複雑な方程式
では、タイ貢献党はどのくらい議席を獲得できるのであろうか? これが全くわからない。選挙戦はまだ1か月以上残され、票はこれから大きく動くことだろう。この時期に予想することをみな嫌う。それでも現時点での予想を問うと、タイ貢献党の獲得議席予想は245~310議席とかなりばらつきがある。ただ同党単独で過半数を獲得する可能性は高くなってきた。もし同党が下院の過半数を取れば、予算編成などで主導権を握ることになる。ただし、250議席ある上院議員の首相選挙権を考えると、タイ貢献党が首相の座を取るのは一筋縄ではいかない。
タクシン氏は現在、タイ貢献党単独で300議席以上を獲得することを目標にしているようである。もし同党が300議席以上を獲得する大勝をすれば、非軍部政党で現在政権与党にいる「タイ誇り党」や「民主党」と連立を組み、首相任命権を持つ375議席となる可能性もある。しかしタイ貢献党と長らく軋轢(あつれき)を繰り返してきたこの2党が簡単に連立に応じるかはわからない。
次の可能性は、現在同じ野党に甘んじている「前進党」との共闘である。民主派の人々はこの共闘を待ち望んでいる。しかし私はこの共闘の実現性に疑問を持っている。現在タクシン氏が一番に望んでいることは「自らのタイへの帰国」であるといわれている。3月24日付の日本経済新聞とのインタビューで「刑に服してでもタイに帰国する」とタクシン氏は語っていたが、年を取るごとに望郷への思いが強くなっていることは想像に難くない。しかしタクシン氏が帰国すれば、3年の禁固刑が最高裁で確定している。また、タクシン氏に対する裁判が5件ほど現在進行形で審査されており、これらの判決が下れば彼の服役期間は10年を超える可能性がある。こうした状況を救える唯一の手立てが、国王による恩赦である。ただし、タクシン氏が王室改革を訴える「前進党」と組めば、彼自身の恩赦の可能性も消えてしまう。タクシン氏は昨年から「前進党」と距離を置く発言をしており、私はこの共闘の可能性は極めて少ないと考えている。
タイ貢献党候補が首相に選出されるための3つ目の方法が、タクシン氏とプラウィット副首相並びにPPRP党との連携である。これは前述の日経とのインタビューで、タクシン氏自身も「最後の手段」として認めているようである。PPRP党が70議席近くを獲得することは考えられない。しかし上院の中にはプラウィット副首相の息のかかった議員が50人以上いると考えられている。彼らが首相指名投票でタイ貢献党候補に投票すれば指名獲得も夢ではない。こうしたウルトラCの戦略も水面下では語られているようである。しかしこの方法も簡単ではない。タクシン氏サイドには「赤シャツ」と呼ばれた武闘派集団がおり、軍部との連携を簡単には許さないであろう。それ以上に、プラウィット副首相がタクシン氏と連携した場合、軍部がどのような対応をするか全く予断を許さない状況である。
こうした選挙結果と選挙後の政界再編予想のほかに、「新たな軍事クーデターの勃発(ぼっぱつ)」や「司法によるタイ貢献党の解党」の可能性を指摘する政治の専門家もいる。歴史を振り返れば、こうした可能性を否定することはできない。
私がタイに着任した当初、「洪水、軍事クーデター、金融危機の三つを経験しなければタイをわかったことにはならない」と先輩諸氏から教わった。タイで勤務してきたこの25年にこれらすべて経験した。とりわけ軍事クーデターは06年9月と14年5月に2度経験した。いずれも無血クーデターだったが、クーデターなど物騒なものはないほうがいいに決まっている。当地でビジネスをする者としては、穏便に選挙で政治体制が決まってくれることを切に望んでいる。
※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第215回「タイ政局は視界不良」(22年4月1日)
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第138回「歴史から紐解くタイの政治の現状」(19年2月22日付)
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