小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住25年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
5月14日に行われたタイの下院総選挙は、若者を中心に進歩的な政策を掲げた野党の前進党が地滑り的な勝利を得た。同党の大勝利を予想していた報道機関はなく、文字通り「大方の予想に反して」の結果となった。かくいう私も「ニュース屋台村」の拙稿第239回「タイにまた政治の季節がやってきた―5月14日総選挙へ」(2023年4月14日付)で、当時の世論調査の結果を踏まえてタイ貢献党が245議席から310議席の間で第1党を取ると予想していた。明らかに見込み違いをしていたのである。自らの反省を込めて、今回はタイ総選挙の結果を私なりに総括してみたい。
◆前進党に風、第1党に
まず今回の下院議員選挙の主要政党の獲得議席数を振り返ってみたい。下院議員数は総数500議席で、うち400議席が地方区、100議席が比例区で選出される。カッコ内は地方区と比例区の内訳を表している。また47の選挙区においては開票結果の見直しが行われており、下記の政党別議席数については今後若干の変動もありうることをご承知おきいただきたい。
①前進党 151議席(112・39) 進歩派政党・ピタ党首
②タイ貢献党 141議席(112・29) タクシン元首相の政党
③タイ誇り党 71議席(68・3) アヌティン副首相兼保健相
④国民国家力党 40議席(39・1) プラウィット副首相
⑤タイ団結立国党 36議席(23・13) プラユット首相
⑥民主党 25議席(22・3) タイ最古の政党
今回の総選挙前までは上記のタイ誇り党以下4党が下院の過半数を抑え、与党として政権運営が行ってきた。特に2019年の前回総選挙では当時結党間もなかった国民国家力党がプラユット首相を担いで政権与党の中核を担った。ところが、軍人出身者や保守政治家を中心とした与党は惨敗を喫したのである。こうした与党の敗北については選挙前から予測できていた。
今回大きく予想を外したのは旧野党内での議席配分である。ほとんどの人がタイ貢献党の地滑り的勝利を予想していた。ところがなんと、前進党が151議席を獲得して第1党の座を抑えてしまったのである。
「前進党に風が吹いた」と言っただけの解説をする社説も目にするが、本当にそんな「風」だけで済む問題なのだろうか? 確かに風は吹いたのであろう。比例区における前進党の得票数は4千万票であり、タイ貢献党の1千万票に大きく差をつけた。この4千万票の得票数はかつてタクシン元首相のタイ愛国党やタクシン氏の妹であるインラック元首相が率いたタイ貢献党が記録した5千万票に次ぐ歴代3位の得票数である。もともと知名度が高い大政党に有利だといわれた比例区で、これだけ前進党が得票数を獲得したのは風が吹いたからに違いない。問題は同党が「どのようにその風を吹かせたか?」である。
◆「軍・警察・保守支配階級」の改革訴え
第1の勝因は、国民が真に望むことを政策としてまとめ、簡易にかつSNSを利用して広く国民に説明したことであろう。前進党の公約は300もの項目にも及ぶが、大きく15に分類されている。①汚職撲滅②徴兵制廃止③不敬罪規定の廃止④独占・寡占の是正⑤子供・老人などの福祉充実⑤最低賃金の引上げ⑥麻薬廃止⑦グリーン政策⑧憲法改正――などである。汚職撲滅については早速、タイの警察が運送業者相手に行っていた汚職を告発している。警察はトラックの過積載を見逃す代わりに、ノミニーとなる代理店を通じて過積載のトラックに「ステッカー」を売っていたのである。年間200億バーツにも上る警察がらみの汚職であり、警察長官もこうした汚職の存在については認めている。
当然のことながら前進党は汚職撲滅を自ら実践し、カネで票を買う選挙を全く行わなかった。これはタイの政治史上画期的なことである。また徴兵制廃止については現行60%の兵士は応募で賄われているが、徴兵制の存続の必要性は従来議論されてこなかった。前進党はこうした問題を真っ向から取り上げて選挙公約にまでしたのである。皮肉なことに今回の選挙では、徴兵兵士を中心に多くの軍人も同党に投票したようである。
さらに不敬罪規定の廃止については、王室への敬意を維持しながらも刑法112条の廃止を訴えた。刑法112条を恣意(しい)的に使う保守層をターゲットとして同法の廃止議論を先導した。いかんせん、不敬罪への挑戦は長らくタイ国内ではタブーであった。これを形を変えて取り上げたのである。タイの近代史の一大転換点になるかもしれない“事件”である。タイの一般大衆の心の奥深くにあった不信や鬱積(うっせき)の元凶である「軍・警察・保守支配階級」の改革施策を訴えた。これが人々の心を打った。
その状況は、20年前にタクシン氏が①貧困対策②麻薬廃止③汚職撲滅――を訴えて政権を取った時とよく似ているかもしれない。2001年にタクシン氏率いるタイ愛国党が政権を握ると、彼は早速、貧困対策と麻薬取り締まりに動いた。しかし残念ながら、汚職撲滅には至らず、かえってタクシン派による利権政治と汚職が目に付くようになった。今回のタイ貢献党の選挙公約の大半は、20年以上前のタイ愛国党時代の選挙公約の焼き直しであった。各種バラマキ政策の金額を当時の2倍にした。しかし時代状況は大きく変化した。アジア通貨危機のあと、膨大な対外債務と国内産業の低迷で疲弊し切っていた当時のタイ。当時の国民の過半を占めていた農民をターゲットとした貧困対策はみんなの支持を得たのである。あれから20年。堅調な経済成長を続けてタイは立派な中進国となった。購買力平価ベースではすでに3年前にバンコク都民の1人当たりのGDP(国内総生産)は福岡県と同じ水準になっている。タイ貢献党が打ち出した政策は時代遅れになっていた可能性が高い。
◆徹底したキャンペーンとタイ貢献党の失策
前進党の第2の勝因は、徹底的なキャンペーン活動である。同党は投票日の2週間前から4隊のキャラバンを編成し、全国各地をくまなく渡り歩いた。特に自党候補が4:6ぐらいで劣勢な地域にはピタ党首を差し向け、徹底したキャンペーンを繰り広げたようである。
一方、タイ貢献党を含む他党は旧来型の資金をばらまく地盤型選挙を展開し、自党の地盤以外は選挙活動を展開しなかった。タイ貢献党に至っては、タクシン氏の二女ぺートンターン氏と実業界上がりのセッタ氏の2枚看板がありながら、選挙前の公開討論会にも参加しなかった。前進党の徹底したキャラバン活動で、タイ各地ではキャラバン隊を囲んでお祭り騒ぎが起こったと聞いている。
前進党を支持している若者に聞くと、投票日1週間前から「勝てそうなムードを感じた」と話してくれた。結果、バンコクの選挙区(地方区)では33議席中32議席が前進党に、タイ貢献党の地元であるチェンマイでも9議席中7議席が前進党に流れた。これ以外にもノンタブリ、サムットプラカン、チョンブリなどバンコク郊外の都市でもタイ貢献党は惨敗を喫した。
前進党の三つ目の勝因はタイ貢献党の失策にあるかもしれない。今年3月24日にタクシン氏は日本に行き、日本経済新聞のインタビューに応じた。この時の「次回の選挙結果によっては(元軍人であるプラウィット副首相が率いる)国民国家力党と協力することもありうる」というオフレコ発言が広くタイのSNSで拡散してしまったのである。また、タクシン氏が繰り返し「刑に服してでも7月にタイに帰国する」と述べたことが、タクシン氏と保守層の間に密約があると思われてしまった。
さらに悪いことに、首相候補となったぺートンターン氏は国民国家力党との協力の可能性を新聞記者に聞かれ、「私は軍人は好きでない」と間接的に答えた。彼女が明確に国民国家力党との協力を否定しなかったことで、国民はタイ貢献党と軍人政党が「同じ穴の狢(むじな)」だと感じてしまったのである。
選挙後、タクシン氏は「前進党のSNSを上手に使った情報操作に負けた」と声明を発表したが、そもそも自分がまいた種である。さらに、タイ貢献党幹部も敗北理由についてタクシン氏と同じことを繰り返している。もし本当にこうした稚拙な事象だけを敗北理由とするならば、タイ貢献党の将来も危うくなりそうである。
◆予断許さぬ次期連立政権の組み合わせ
それではこれからどのようなことが起きるのであろうか? 多くのタイ人の友人にこの質問をぶつけたが、全員「何が起こるかわからない」との回答であった。現時点で、次期連立政権の組み合わせとして考えられるのは以下の三つだろう。
①前進党とタイ貢献党が連立(現状313議席)してピタ党首が首相指名
②前進党とタイ貢献党が連立してぺートンターン氏かセッタ氏が首相指名
③タイ貢献党・タイ誇り党・国民国家力党が連立(252議席)しぺートンターン氏が首相指名
タイで首相指名を受けるためには上院250議席、下院500議席の過半数である375議席を確保する必要がある。上記①と②が実現するためには保守層が多い上院を切り崩す必要がある。不敬罪の取り下げなどが条件となる可能性が高いが、前進党に対する国民の期待の高さを考えると、取り下げは容易ではなさそうである。③は首相指名が可能でかつ下院の過半数も確保できるため、政権運営は楽になる。
しかし「どのような形で前進党を政権から外すのか?」が大きな問題となる。“司法クーデター”によりピタ党首の議員資格はく奪の可能性も否定できない。また前進党とタイ貢献党の政権樹立交渉の決裂を演出するかもしれない。メディアを使って反ピタ・キャンペーンを打ち、人心を前進党から引きはがすことも考えられる。何が起こっても不思議でない状況である。
下院議員選挙ではタイ貢献党は前進党に対して敗北した。しかし連立政権樹立過程では、前進党のピタ党首よりも経験豊富なタクシン元首相の方が役者が一枚も二枚も上である。かつ人脈も広く、政治的に使えるカードも多く持っている。私たちが見えないところで何かが動き始めそうである。
※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第239回「タイにまた政治の季節がやってきた―5月14日総選挙へ」(2023年4月14日付)
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