小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住25年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
バンコック銀行(バン銀)の提携銀行からの出向者がバンコクでの任期を終えたため先日、帰任者に対する送別会が開かれた。バン銀日系企業部ではこうした日本人だけの送別会が年に4、5回は開催される。日本では鎬(しのぎ)を削るライバル銀行同士であったとしても、バン銀に入れば「顧客のために最善を尽くす」をモットーに、みんなが協力して顧客に対してベストサービスを提供する。提携銀行の出向者たちは「同じ釜の飯を食う」仲間たちである。異なった銀行から集まった行員が一堂に会し、酒を飲みながら本音で語れる機会などほとんどない。
いつも通りワイワイガヤガヤとみんなで飲んでいると、私の周りにいた出向者たちから「小澤さんはなんであんなに一生懸命、我々を教育しようとされるのですか? あんなに真剣に教えてくれる人は今までいませんでした」という声が上がった。確かに私には出向者を真剣に教育する義務などない。それでも出向者たちは「小澤塾」の厳しさに打ちのめされる。一方で、いかに私が真剣に「小澤塾」に向き合っているかも気付いてくれている。私が高齢ながらも体力と知力を振り絞って「小澤塾」に臨んでいることをわかってもらえるのはうれしい限りである。
それはまさに「一期一会」の精神である。なぜ私がこれほどまでに「一期一会」を大事にしているのか、今回は人生訓の礎となったアメリカでの若い頃のつらい経験をお話ししたい。
◆「歓迎されない客」だった34歳の私
自分の人生を振り返るとき、私がいつも思うのは「私の人生は失敗と苦難の歴史であった」ということである。生まれた時からカトリック信者として育った私は、「神の下でうそをついたり、罪を犯したりしてはならない」ということを骨の髄まで教えられて育った。中学生になってキリスト教を棄教してからも、こうした倫理観だけは私に付きまとった。どんな局面でもどんな人に対しても間違っていることは「間違っている」と言ってしまう私の性格は、こうして出来上がった。
日本には「出る杭(くい)は打たれる」という諺(ことわざ)がある。長いものに巻かれることが苦手な私は、ついつい人と衝突してしまう。こんなだから、私の人生は失敗と苦難の歴史になってしまう。
1987年に2度目の米国赴任としてロサンゼルスに赴くと、私は「東海クレジットコーポレーション」(以下TCC社)という東海銀行の子会社で自動車ファイナンスを専門とする子会社への出向を命じられた。
アメリカの銀行から引き抜いた米国人の社長をヘッドとした米国人400人の会社で、日本人は私を含めて2人だけ。東海銀行のロサンゼルス拠点から20キロほど離れたパサデナ市にあり、日本人2人は孤立無縁の状況。私以外のもう1人は米国人社長の通訳係として米国人と日本人の仲立ちをしていた。米国人社長は、日本人の干渉を最小限に抑えながら、積極的に自動車ファイナンス業務を展開し、TCC社は急成長を遂げていた。こうした状況でTCC社が使っていたコンピューターシステムが同社の売り上げの急膨張に追いつかなくなったため、新たなシステム導入の要員として私が送り込まれたのである。
米国人社長は元々、日本人の干渉を極端に嫌っていたが、「システム更改のため」という説得で私を渋々受け入れたに違いない。私は初めから「歓迎されない客」であった。しかしまだ34歳の若輩者である私はそんなことには気が付かない。周りの日本人からは「米国人だけの会社に副社長として赴任するなど大抜てきだよ」などとそそのかされて、その気になっていた。
意気揚々とTCC社に着任し早速、全力投球で自動車ファイナンス業務の勉強とシステムの選考に入った。ところが、着任して3か月もたたないうちに、私は同社の業務にいくつも疑問を持つようになった。
◆寝食を惜しみ業務改善に没頭
私が従来経験してきた普通銀行業務は原則、1円も損失を生まないように厳しい与信審査をするが、ファイナンス会社は一定程度の損失を前提とした業務である。このため十分な利ザヤと損失の均衡を取ることが重要だ。ところが、TCC社は規模拡大主義で損益分岐点分析が十分になされていない。
TCC社の損失率を抑えるためには審査基準の厳格化が必要である。ところが、TCC社の役員とローン案件を持ち込んでくる自動車ディーラーとの癒着が激しく、多くのローン不適格案件がこれらの自動車ディーラーから持ち込まれていた。
TCC社は「自動車ローン」の収益計上方式として「ルールオブ78」という収益先食い形式の会計方法を導入していた。当時、カリフォルニア州では適法の会計方法であったが、会社収益の健全化の観点では疑念の残る会計方法である。TCC社は業容が急成長していたため、ローン後半で実現する低収益化が顕在化していなかった(会計上の損失隠し)。
そもそもローンのコンピューターへの記帳・管理事務が混乱し、中途解約になったローンも事務処理がなされず架空収益を計上していた。また、交通事故で損傷した事故車については、保険会社への請求がほとんどされていなかった。
回収(コレクション)部門は要員だけは多かったが、だれが何をしているのか全く管理されておらず、不良債権の回収はほとんど進んでいなかった。
TCC社のこうした惨憺(さんたん)たる状況を解決すべく、私は朝早くから夜遅くまで毎日働いた。システム更改にあたっては、「記帳会計システム」の収益認識方法を従来の「ルールオブ78」から「実効年利方式」に変更し、会計の健全化を図った。また会計方式だけでなく、ローン審査の厳格化を図るための「自動審査システム」を自前で新たなプログラムを開発し、恣意(しい)的な与信判断をなるべく排除しようと試みた。このほか、当時最先端のシステムだった、自動電話回線機能の付いたコレクションシステムも導入し、回収業務の透明化を図ろうとした。
こうしたシステム開発とともに、システム更改前までに、混乱した事務部門、特にデータ整備を完了しなければならなかった。それこそ寝る間を惜しんで、こうした仕事に取り組んだ。その私の姿を見て、TCC社のシステム部門、事務部門、および主計部門の米国人オフィサーたちも積極的に私の仕事を助けてくれるようになった。
最初は「わけのわからない日本人が舞い降りてきた」と遠巻きに興味津々と私を観察していた米国人の間でも、少しずつ私のファンが増えてきた。株主である東海銀行の代表とはいえ、「真剣にTCC社を良くしよう」としている私の真剣な思いは伝わったようである。
◆米国人社長からの嫌がらせ
ところが、私の動きを快く思わない人たちがいる。「自動車ファイナンス業務は銀行の仕事とは全く異なるものである」と日ごろから主張し、日本人派遣社員の干渉を避けながら業務を拡大してきた米国人社長にとって、私は「敵対者」になる。また、自動車ディーラーや保険会社と癒着して甘い汁を吸ってきた社員も私の存在に危機感を抱いた。私はそんなことにお構いなく猪突猛進して、「システムを介してのTCC社の業務改善」に取り組んだ。
TCC社の米国人社長はその間も、東海銀行米国西海岸の日本人統括責任者であったのA・H氏のもとに頻繁に通い、私の悪口を言い続けたようである。さらに私が赴任して1年もたったころから、頻繁に私への嫌がらせが始まった。当時お決まりであったが、黒人社員が会社を辞める時には必ずと言っていいほど会社を訴える。その際には株主派遣者として私も訴訟の対象に追加される。米国人社長に近い女性社員からは「セクハラ訴訟」を起こされる。私はいくつかの案件で訴訟の被告人になってしまった。
もちろん嫌がらせで提訴されたものであるから、裁判所の下部機関である「労働調停仲裁委員会」に訴訟人本人は出廷せず、すべての訴訟は取り下げとなった。しかし、東海銀行の日本本行では「日本人行員が訴訟対象になった」と大騒ぎになったようである。嫌がらせはこれだけではない。毎日深夜遅くまで働いていた私が帰宅のために駐車場に行くと、私の自動車の下に風船や爆竹が仕掛けられていた。それに気づかず自動車を発進させると大きな爆発音がして、私は本当に身の危険を感じた。
こうした会社の不穏な空気は、TCC社の社員にはすぐ伝わる。TCC社の社内は「米国人社長派」と「私をサポートしてくれる人たち」に二分されることになった。さすがに「こうした事態はまずい」と感じた米国人社長は、社内融和を試みた。しかし、余裕のない私は事態を理解できず、引き続きシステム更改に全力投球した。
◆突然の異動と降格処分
TCC社に赴任して2年が経ち、ようやくシステム更改が完了した。外部のプログラマーを含め社内外の私の支援者たちが必死になって頑張ってくれた成果である。今でも彼らには本当に感謝している。利益を先食いするシステムを採用していたTCC社は、システム更改で実現利益の修正を行わなくてはいけないため、システム更改による損失の発生が予想された。しかしこれも「未請求であった多額の保険金の代位弁済」などにより損失を回避した。
米国人社長もシステム更改プロジェクトの成功を祝って盛大なパーティーを開いてくれた。「これでTCC社は健全な形で再出発できる」。私はパーティーで大きな達成感に浸っていた。
この2年間にわたり休みも取らず週末も働き続けた私は、日本人同僚に勧められてすぐに2週間の家族旅行に出かけた。ヨセミテ公園のホテルのプールで子供たちと泳いでいた時に突然、ロサンゼルス支店の副支店長からホテルの部屋に電話があり、「ロサンゼルス支店への転勤と降格処分」が伝えられた。
私は頭が真っ白になり、事の成り行きが理解できないでいた。しかし家族旅行の最中である。何もわからないまま、残り1週間の家族旅行を終えた。
◆辞職をとどまらせた妻の一言
TCC社から「石もて追われた」私は、同社の部屋の片付けも早々に東海銀行ロサンゼルス支店へと異動した。そこで初めて、事態の真相を知ることになった。米国西海岸の統括責任者であるA・H氏は3年の在任期間中に「TCC社の業績伸長」を勲章にして役員昇格を画策していた。ところが、私のTCC 社赴任により「TCC社のずさんな経営」が表面化し、A・H氏の管理責任が日本で問題化し、役員昇格に黄信号がともり始めたのである。
私は知らない間に米国人社長だけでなく、米国西海岸統括責任者であるA・H氏まで敵に回していたようである。2年間にわたり日本人社会と隔絶されていた私はこうした事の成り行きを全く知らされていなかった。A・H氏はシステム更改の完了を待って、私に対して「降格処分」という報復人事をしたようである。
正義感をもって東海銀行のために必死に働いてきた私にとって、いきなり背後から不意打ちで切り付けられたようなものである。悔しくて夜になると涙がこぼれた。あまりの理不尽さに、私は辞表を書き会社を辞めようと決意した。
これを止めたのは妻の一言であった。「あなたがやりたいことがあって仕事を替わる、というなら私はあなたに付いていきます。でも今の仕事が嫌になったから仕事を辞めたい、というのは納得できません」
◆たくましく成長した元部下たち
しかし、私が本当につらい断腸の思いを味わったのはこの後のことであった。TCC社の米国人社長は「私を支持し私についてきてくれた米国人社員」のクビ切りや閑職への担当替えなどを行ったのである。日本人副社長であった私の後ろ盾を失った彼らは、なすすべがなかった。何人かの元部下たちは こんな状況に嫌気がさして、TCC社を退職していった。
もし私が米国人なら「自分の部下たちを引き連れて次の職場に転職する」のが常套(じょうとう)手段である。しかし私を敵視するA・H氏の下では、彼らを私の新しい職場であるロサンゼルス支店で引き受けるわけにいかない。米国人の元部下たちは業務終業後に私の家やレストランに集まり、今後のことを話し合った。私は、彼らを不遇な状態においてしまった私自身の力不足を謝罪した。
しかし、彼らの顔つきは意外なほど明るく、表情はサバサバしていた。「Mr.Ozawaと働いて本当に楽しかった。システム更改の過程でコンピューターの新しい知識も学べたし、Mr.Ozawaから仕事以外の色々なことを教えてもらった。2年間、一緒に食事をしたり酒を飲んだりしていつも議論をしていた。本当に勉強になった。ありがとう」。彼らはそう言って逆に私を慰めてくれた。
彼らと本当に濃密な時を過ごしたからこそ「人種」や「年齢」そして「性別」を超えて真の同胞に慣れたのである。真の「一期一会」を体験したからこそ真の友情に巡り合えた、と私は確信した。若輩者とはいえ、この2年間に私の知っていることをすべて彼らと共有してきたからこそ、「単なるオフィサー」であった彼らがたくましく成長し、ほかの会社に自力で転職できたのである。
◆大きな学びを得て「誠心誠意向き合う」決意
「真実は人の数ほどある」といわれる。私にとって当時最大の「敗北」であったTCC社での出来事も、米国人社長やA・H氏には違う風景が見えていたのであろう。長く生きてきた今だからこそ、そんな風に考えることもできる。
しかし私にとってTCC社での屈辱的な経験は大きな学びを与えてくれた。TCC社での一件以来、私はどんな状況でもどんな人たちにも「誠心誠意向き合っていこう」と心に決めたのである。「一期一会」が明確に私の人生訓になったのはこの時からである。
送別会で提携銀行の出向者が聞いてきたように、私は自分の子供たちより若い小澤塾の受講者に対しても誠心誠意向き合い、真剣に私の知っていることを共有しようと努めている。そのやり方と厳しさについては、「ニュース屋台村」の拙稿を通じて説明させていただいた。
「小澤塾の卒業生はどんな境遇においても自力で立ち上がることができる」。私は彼らがそうなることを信じて、「一期一会」の精神で小澤塾を運営している。
※「ニュース屋台村」過去の関連記事は以下の通り
第250回「銀行員の基本的技術を習得するために―『小澤塾』のノウハウ(下)」(2023年9月22日)
第249回「銀行員の基本的技術を習得するために―『小澤塾』のノウハウ(上)」(2023年9月8日)
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